読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

バックヤード

アニメ「おそ松さん」を血を流しつつ視聴する

「おそ松さん」20話 しんどい私の「なごみ」の終焉

あの肉はきっと「おそ松さん」によって死んだ私たちの肉。

 

はいどうも、こんにちは。

毎度ありがとうございます。今回も20話感想いってみたいと思います!!

いつもの自分語りに加え、今回は話の解釈や感想というよりもアニメ全体の構造の話をしたいです。わりかしその辺の方針はゆるいのがこのブログです。気楽にいきます。

 

今回は20話、特にアバンとCパート「イヤミ先生」の話になります。

私は視聴後にこんなツイートをしました。

 

 

何が言いたいのかというと、今回がとてつもなくわかりやすく「これまでのあらすじ」「要約」「お前らはなぜだめなのか説明しましょう」「この世はどこがだめなのか説明しましょう」だったということです。

 もう噛み砕く必要もないんではないかい。だってわかりやすすぎるじゃん。裏を読まなくても汲み取らなくても心が痛いじゃない。ずったずたじゃない。お腹も痛いじゃない。

私はずっと、「まぁぱっと見はギャグかもしれないけどしんどい私にはしんどいように見える!しんどい!」をやってきたし、「しんどくない人のほうが多いのか、私はしんどいけどね。まぁきっとそれでいいんだよ」と言ってきたんですが、

「ライジング」もそうなのですが、最近正直なところ「いや、これみんなしんどいだろ」「ちょっと調子に乗っていい気がするんだけど、いやこれしんどいだろ、というかしんどくさせる気満々だろ」と思ってしまうんですよ。明確に矛先が視聴者に向いてきているんですよ。

 

さて、そんな今回の冒頭に、何が起こったかを思い出してみます。

ハタ坊の追放です。

ミスターフラッグの部下たちは、「今まで何故気付かなかったのだろう」と言いながら、旗を抜き捨て、ハタ坊を追い出しました。

上の台詞からわかるとおり、ハタ坊の商売はあの世界においても「おかしい」「狂った」ものでした。(ギャグ世界線というのは「視聴者の世界の普通」と「作品世界の普通」を常に問い続けなければなりません)

そして彼らはそれに気がつかなかった。狂った世界に従属していたわけです。

 

1クールめに、同じ構造を持つ世界線がありました。

8話A「なごみのおそ松」です。

 

私は何かとなごみを例に引き、比喩として使い、何かあればなごみを参照し、なごみサイコー!という一種の「なごみ信者」なのですが、最近、このアニメの構造自体が「なごみ」だったのではないかと考え始めました。

 

「なごみ」の世界というのは、殺人が起きた時でもその凄惨さから目を背けさせます。加えてそれを一種のエンターテイメントにします。なごんだ彼らは死体の山の前で記念撮影をし、パエリアを食べます。楽しいね。

明らかに狂った世界です。その証拠に、序盤はトド松刑事がずっとその状況に異議を唱え続けています。しかしながら、気づけば彼もなごみ、死体の山を見ても何も考えなくなります。人生の教訓なんか得ちゃったりして、おおむね幸福です。そして不謹慎です。それを見ている私たち視聴者だけが、なごまずに死体の山を見ているわけです。

 

このアニメ自体が、「なごみ」の構造をしていたとしたら、つまりこういうことになります。

「元々このアニメは殺意に満ちた残酷さを含んでいた、しかし我々はそれを目の前にしつつも「なごみ」、それらの毒から目を背けさせられていた、もしくはその毒をエンターテイメントとして楽しませられていた」

元々このアニメは死体の山。ただ視聴者に対して、それが巧妙に隠され続けていただけだったのではないか。

 

私がこのアニメからすくいとって、毎回ここで叫んでいたしんどさは、そりゃあもういろんな種類がありましたが、本質的には一つに収束します。

「私たちはもう目を背けている場合ではない。笑っている場合ではない」

それはこのアニメの序盤からずっと巧妙に主張されていました。

赤塚先生が死んだ、楽園は失われた、そんな世界でモラトリアムに浸ってニートをしている彼らを、私たちはクズだと認識していました。つまり「目を背けること」の害悪をきちんと認識していたわけです。そして彼らに限らず、私たちにも同じ理屈が適用されるはずでした。

しかし、私たちはなごんだ。このアニメは元々死体の山、殺人現場でした。そこで私たちは楽しんでいたわけです。

 

 

そしてその「なごみ」の魔法は、あと残すところ4話となった今、そろそろ解け始めているのではないか。

 

理由としては、前回チョロ松のお仕置き回を迎えたことが大きかったのではないかと考えています。

私の見立てではあの六つ子を共同体として成り立たせるのに大きな役割を果たしていたのはチョロ松と一松でした。彼らが機能を失えば、六つ子が崩壊に向かって一気に舵を切るのは自明です。

チョロ松が「チョロ松ライジング」によって処刑された今、彼らの居心地のよい地獄は大きく変質するでしょう。もしくは、「それでも変質しない」ことの残酷さを見せ付けられるというオチもありうるかもしれません。どちらにしろ大きなきっかけでした。

 

それに伴って、この物語自体からも、「なごみ」の力が消え始めました。

その証拠として、ハタ坊は追放され、イヤミは視聴者に刺さりまくるナイフをオブラートに包まずに投げてきた。あの世界に赤塚先生が存在しないことを改めて見せてきた。

ハタ坊の料理していた肉(ちなみにこのアニメは全編通して魚を推してきていますがここでほとんど初めて肉が出ます)がもしも彼の部下のものだったとしたら、あの時、画面には大量殺人が映っていたわけです。とんでもないことです。でもそれは今までだってずっとそうだった。

私たちが食べさせられていたのは、巧妙に料理されてわからなくなった、なごまされていた、殺人だったのです。

 

 

 「ここはすごく痛いし辛いし暗いところなんだよ」という認識の元で、「そんなもの見ないでいようよ、狂っていようよ、楽しんでいようよ」ということをやっているのが「なごみ」ですが、それのどちらが正しいか間違っているか、良いのか悪いのか、というのは一概には言えません。

ただ、自分はどっちを選ぶのか、という選択の権利を得るためには、「ここは痛いし辛い」という現実を一度見なくてはなりません。

その上に、じゃあどう生きるか、なごむのかなごまないのか、という選択があります。

そのために、一旦ここを殺人現場に戻す必要がありました。なるべく沢山の人がそれに気づけるように。今までナイフの存在に気づいていなかった人に突き刺さるように。

 

今後どういう展開になるかは分かりません。それぞれの死を迎え「なごんでる場合じゃねぇ!」と気づいた彼らが最終的にどういう方針を勝ち得るのかは、もう見守るしかありません。とりあえず誰から見ても明らかなバッドエンドはないかなと思っていますが(ヒント:全力バタンキュー大好き人間)とにかくついていこうと思います。

加えて、8話「なごみ」においてなごんでいなかった人物は視聴者でしたが、このアニメという大きな「なごみ」においてなごんでいないポジションにあたるのは制作サイドの皆さんです。偉大だ。ありがとうございます。あと4話、楽しみにしてます。

 

 

お粗末様でした。

 

「おそ松さん」19話 チョロ松ライジング感想おまけ 自意識の話

どうも、こんにちは。

前回話したりなかったので自意識ライジングの話続行します。

 

はぁ~なんでこんなに頭いいものが作れるんだろう……ほんと感動……

 

ついでなので一言、最近ここでもついったーでもしょっちゅう「これはメタファだから」とか強調して言っているんですが、なぜかというと最近の回について話すと「死んだ」とか「殺した」とか物騒なワードをどうしても使ってしまうからです。仕方ないんだ。

別に誰も死んでないから!大丈夫だから!ついでに私は青色主線等の世界観考察はしないから!ということです。そんなのわかりきってるよ!って人は聞き流してください。チキンなので保険をかけておきたいんです。

 

順にやっていきます。今回はゆるゆるいきます。

 

松野おそ松の自意識

・指先に乗るほど小さい。凹んだような跡あり。材質はよくわからないけどくすんだ赤でキラキラはしていない。ぼんやりと全体が赤く光っている。

「見た目は酷いけど、でも扱いやすい」

 

私は「プライド」の高低と「自己肯定感」の有無は必ずしも比例しないと思っています。後で扱いますが例えば一松はプライドは高いですが自己肯定感は皆無です。それとは逆に、おそ松はプライドはありませんが、自己肯定感はしっかりと持っています。

自分の夢を「カリスマ、レジェンド、人間国宝」と語り、躊躇なくナンパができる彼は、別に自分を「社会的に、他と比較して」すごい存在だと考えているわけではありません。ただ、彼にはそれが叶わなかった際、失敗した際に傷つくプライドが存在しないだけです。

普通、人がビッグマウスを叩けないのは、「実現する自信がない」からだけなく、「失敗した際に自分が傷つくのを見越して恐怖を感じる」からです。おそ松にはその恐怖がありません。

彼は自分を社会的に、他と比較して偉大な存在であるとはさほど思っていませんが、自分自身を自分自身なりにすごい奴である、主人公であるとは思っています。

 

彼はおそらく、元々もう少し大きなサイズの自意識の球体を持っていて、それが様々に傷ついたり、縮んだりして今のサイズに落ち着いたのではないかと思います。

18話において、「おそ松は「くん」後半で一度死んでいる」という話をしました。そして彼は死んだことで自由になりました。彼はもう、自分がどう見られているか、どう見られたいかということに頓着しません。そういった「自意識」が小さい上に、彼はその球体の存在を認知し、完全にコントロールしています。

 

前回、チョロ松について、「思ったことそのまま、生身で生きている」「過剰な自意識という鎧を着込んでいる」と表現しました。ちょっと矛盾に見えるね、言葉が足りませんでした。すみません。別にミスではありません。

彼は「過剰な自意識という鎧を早々に着込み、それを分厚くしていったせいで、その中身はいつまでも柔らかなままでいられた」ということです。うん、すっきり。

 おそ松はこの鎧がないに等しい。その代わりに彼は傷つくたびに自分自身を硬く、修正していきました。見た目と言動は小学生ですが、実際のところは生まれたままなんかでは全然ない。

 

 そして彼はきちんとした言語化能力ときちんとした状況判断力と分析力、きちんとした「なぜ自分は自分をコントロール下におけたか」についての自覚があるので、チョロ松を処刑することができました。

責任感を持って部下をきちんと始末してくれる、よくできた上司です。最高だな。

 

 

松野カラ松の自意識

・片方の手のひらにちょうど収まるサイズ。水晶玉のように曇りなく透き通っていてつるつる、青く光っている。

それを片手に持ってフリーハグ

 

こんな自意識を持っている人間がナルシストであるというのが本当に最高だと思うのですが、彼はプライドの高さはそこそこ、むしろ低めというレベルで、しかもサイズ的に「どう見られているか、どう見られたいか」へも、おそ松ほどではないにしろ案外無頓着です。

カラ松は、自分の自意識の形についてきちんと把握しています。きちんと把握した上で、「すごい!これ綺麗!大好き!」とやっているわけです。彼は「私はこういうのが良いと思ってるんだけど皆はそうは思わないかもな、これ素敵でしょって言ってみんなから否定されたらどうしよう怖い、でも見てもらえないのは寂しいしなぁ、あーーーどうしよう、わーんつらいよ~」しません(一松はします)。

彼がこのシーンでただ逆ナン待ちをしているのではなく、チョロ松が言及したフリーハグを行っているのはおそらくその差を示しているのでしょうが、彼のフリーハグには、それをやることでどう思われたいか、という考えが全くありません。芸術家である彼にとって、美しいものを愛でるのは当然のことで、人にそれを展示して分け与えようと考えることもまた当然のことです。

そしてそれによって人が幸せになるだろうということも当然の考えです。しかしながら彼はその「人がどう思うか」についてはそれほど重要視していないので、見られなかったからといって悲しみこそすれ、さほど傷つきはしません。ガラスは割れやすいですが傷つかないのです。彼が傷つくのは「痛い」などと直接言及された時であって、そこまでいくと自意識に関する問題とはカテゴリが違う問題です。

 

もう才能と言う他ありませんが、彼は一点の曇りなく美しい自分と向き合い続けてきた芸術家です。もし彼が何らかの表現手段をきちんと手に入れたなら(今のとこ歌か舞台が向いているとは思いますが)相応の評価を受けられる場所が見つけられるのではないかなと思います。

 

 

松野一松の自意識

・両手で抱えるサイズ。黒くくすんでいる。光はない。少しゆがんでいるのか凹んでいるのか、毛が生えているのか、とりあえず完全な球体ではない。傷のような模様のような、線が三本。

それを彼は周囲に気を配りながら近所の公園に埋め、土をかけて踏みしめる。

 

私の一松事変あたりまでの一松への評価は「プライドは高いが自己肯定感が低く、自分を見つめすぎたが故に、卑屈になることでそれに蓋をしている」でしたが、だいたい間違っていなかった気がします。

ひとつ上の兄弟チョロ松が外向きの思考回路を持つ人間であるのと対照的に、彼は内向きの思考回路を持ちます。彼は内省し、自分の良いところ悪いところ、それを踏まえてどう振る舞うべきか、をきちんと考えています。

 

18話において、チョロ松は「認められたい」、一松は「褒められたい」と叫びました。この二つの差がそのまま二人の思考法の差です。

「認められる」は「認めさせる」と言い換えることができます。チョロ松は相手への働きかけによって相手に願った評価をさせることを考えます。

対して、「褒められる」ことを求める一松は、何かしら自分が変化したり努力したりしたことによって、結果的に願った評価をもらうことを考えます。

 

しかし彼はきちんと考えたが故に、彼は自分に外から与えられる評価についても気にせざるを得ません。そこがカラ松との違いです。一松は周囲からの目線に拘泥します。「私はこういうのが良いと思ってるんだけど皆はそうは思わないかもな、これ素敵でしょって言ってみんなから否定されたらどうしよう怖い、でも見てもらえないのは寂しいしなぁ、でも寂しい!って言うのも恥ずかしい!あーーーどうしよう、わーんつらいよ~」します(私もします)。そして彼はそんなふうにぐるぐる迷い、しかもそれを表現することもできない自分を嫌っています。

結果彼は、「どうでもいい」というポーズ(本当は全然どうでもよくないんです)でその自意識をひた隠しにします。注目されたくない彼の自意識は光りもしません。そこそこサイズ感のある球体を土に埋め、誰にも、自分にすら見えない場所に彼は自分の自意識を葬ります。

 

元々真面目な彼は、真面目に自分と向き合った結果、自分嫌いになりましたが、プライドはあるので評価されないことにも傷つく面倒くさい奴です。

彼が自意識を埋めたのは近所の公園。その気になればすぐに掘り出せるし、すぐに見つかるような場所です。

「どうでもいい」と言いつつ、その実全然どうでもよくなく、ちょっぴり誰かに、できれば自分が言わなくても、それに気づいてもらいたい気持ちもなくはない一松くん。

本当に面倒くさい上にここまでの文が全部私にブーメランだよ。

 

 

松野十四松の自意識

・宇宙空間に浮かぶシャボン玉。中に十四松自身が浮いている。

屋根の上でそれを見上げる十四松。

 

彼はもう既に「概念」の自己認識関連で既にごちゃごちゃ語ったので話すことはそんなにないです。

彼も自意識の存在の形は把握済みです。「自己認識や自我はどうでもいいこと、「僕が十四松だ」と言うことが十四松を規定する」という境地にいる彼の自意識はとても曖昧で、不定形で、消えてしまいそうなぐらいの不確かさです。

加えてチョロ松と違い彼は球体の存在を把握はしているものの、チョロ松と同じように自分の手の届く範囲にはありません。一松は近所の公園というお手軽なところに自意識を置いて手放しましたが、十四松の自意識はそんな生ぬるい距離感にはありません。宇宙空間です。

 

彼はもう自分がどう見えるかにこだわる気も、自分をどう見せるかということを考えるのもやめました。たぶん昔はあったんじゃないかな、高校入るころかな、自分をどう見せるかをひたすらに考えた日々が。

もしかしたら、彼はとっくの昔に静かなビッグバンを迎えていたのかもしれません。誰にも知られずに、ひっそりと。

その結果があの十四松、明るい狂人、巨大化もするし、触手の真似もしてみせる十四松であったのだとしたら。

 

そんな彼が長い年月をかけてたどり着いたのが「僕が十四松」であり、宇宙空間であったのだとしたら、それなら私はもうその解決法の善悪正解不正解を問う気はありません。それは確実に自意識の奴隷から抜け出す一つの方法です。

彼の自意識が彼の手元に戻ってくる日が来るのか、そしてそれは彼にとって幸せを意味するのか、それは今はとりあえず置いておきましょう。

おめでとう、お疲れ様、十四松。

 

 

松野トド松の自意識

・サッカーボールより一回り大きいぐらいのサイズ。ミラーボールのように輝いている上に、ピンク色に光を放っている。

「痛いほどキラッキラしてるけど、こうして自分の手元にあるから!扱えてるから!」

「迷惑かけたとしても、家族か友達くらい」

 

自分で説明してくれているので改めて話すことがない。優秀。末っ子の彼はプライドも高いし、目立ちたがりです。ついでにその自分の自己主張、勝ち戦しかしないプライドの高さには多少害がある、時に迷惑であることをも自覚しています。しかし、彼はそこも含めて、自分を愛することができます。今はね。

彼もおそ松と同じく、ダメージを負い、また人にダメージを与え、そういった中できちんと自分を把握してきたタイプでしょう。スタバァの一件はそこそこでかいダメージだったのだろうと思いますが、彼はもうそれの処理を終えて笑うことができます。

 

また、ある意味では彼の自意識はカラ松の自意識のレプリカであるとも言えるかもしれません。輝いていて、美しい自分の自意識を、トド松は愛していますし、誰かに見てもらいたいとも考えています。

とはいえ、その究極形であるカラ松になるのには、ある種の才能が必要です。はっきり言ってあそこまでいくのは無理です。というより別にああなるべきではない。トド松は「どう見られるか、どう見せたいか」を気にすることを捨て去ることはできません。そのため彼は自分を演出する努力をします。つまりはあざとい、お洒落で甘え上手で嘘が上手な青年ができあがります。

 

彼もまた、言語化能力に長けていますし、また自意識の肥大化という点ではチョロ松の状況も自分の問題と同一のものとして理解できたはずです。だからこそ彼は苛立った。迷惑な自意識でも、それをコントロールすれば、ついでにそれも自分として愛すことができれば、それなりに生きていけるよ、ということをチョロ松に教えるために、彼はまず自分の自意識と闘う次元に至れよと言いました。

 

 彼はきちんと大人ですし、状況さえ変わればなんとでもなりそうです。本当に強い子に育ったな君は。ありがとうチョロ松兄さんに忠告してくれて。お疲れ様でした。

 

 

改めてすげーアニメだなこれ。図解よくわかる「意識高い系」と「意識高い系批判という意識高い系の亜種」と「ナルシスト」と「プライドの塊」と「自己愛」の違い。頭がいい。血反吐吐きそう。楽しい。制作者の皆様本当にありがとうございます。これからもついていきますよろしく。

 

 

お粗末さまでした。

 

「おそ松さん」19話 しんどい私とチョロ松の処刑についての話

「プライドの亜種」を名言として額に入れて飾りたい。

 

どうも、こんにちは。19話感想です。

リアタイ勢が軒並み死んでいるのを眺めてからの視聴だったんですが,

 

とんでもねーーーーー!!!!!!!

 

こりゃみんな死ぬわな!なんか普段「六つ子面白い!だいすき!」って言ってるみなさんも死んでるし!そりゃそうだなんだこれ!

というわけで今回は「チョロ松ライジング」について語ります!語らせてくれ!

 

このアニメは自己責任アニメですが、私はそこからあーこいつらこういうふうにダメなんだな、精神構造欠陥ぼろっぼろの奴らがちょっとずつ何らかのブレイクスルーを経て生きていく話なんだなと思いながら、そう見えるところをすくってきたわけです。ぶっちゃけそれに関しては今までアニメからはっきりとそう言われたことはなかった。それはきちんと自覚してます。私はそう見えてしまったというところから考えるのを始めて、なるべくそこに収束するように情報を恣意的に拾ってきた。全ての読解は恣意的です。もちろんそれがこのアニメをギャグとして日常系ほのぼのとしてもしくはそれ以外として楽しんでいる人も同様に恣意的であることは言うまでもありません。

 

でもさぁ、今回だけは許してくれない?やっぱこのアニメそういう話してるよね?

 

恒例の簡単なあらすじまとめです。

・おそ松とトド松がだらだらしているところへ、チョロ松がダンボールに入れたアイドルグッズを持ってやってきて、アイドルオタクをやめると言う。

・彼は真面目に就活をし、一人暮らしを目標にすると宣言する。

・トド松はそれに対して、いちいち宣言しなくていいから勝手にやれ、宣言したことで満足しているのではないかと言う。

・その後もフリーハグ、自分探しの旅、語学留学などを並べたチョロ松に対し、二人はそれを意識高い系どころではない、「自意識ライジング」だと言い、チョロ松に窓の外に浮く巨大な光る緑色の球体を示し、あれがお前の自意識だと告げる。

・おそ松は小さい球体、トド松はミラーボールのような球体を自分の自意識だと見せ、自分の手に負えない自意識は有害だとチョロ松に忠告する。

・どうしたら良いのかと問うチョロ松を、二人は連れ出しナンパをしてこいと言う。

・おそ松が指す様々なタイプの女性に対し、ナンパをできるわけがない理由をまくし立てるチョロ松の頭上で、彼の球体は膨れ上がる。「自意識ビッグバン」だとおそ松とトド松は逃げる。

・自意識ビッグバンを見つめつづけたチョロ松が、その後、スタバァにてダンボールで作ったPCやタブレットを手に仕事をしているのを見つめる二人。

 

今までで一番まとめづらかった…

 

お分かりのとおり、今回は「問題提起」「可視化」という点において今までこのアニメがやってきたことがぎゅっと詰まっている、良い例に溢れたパートだったと思います。

私はレンタル彼女の時に、「このアニメは問題がどこにあるのか、そしてそれを問題だと思わせるように描くのがうまい」というようなことを語ったんですが、今回は本当にそれがきっちり発揮されています。

常識人でツッコミ役でドルヲタ、そんなチョロ松が、何において間違っているのか、クズなのか、それを今回のアニメは、「ドルヲタであること、女の子がからむとポンコツになることが真の彼の問題なのではない、それ以上の問題が彼にはある」とはっきり言いました。

彼の自意識は肥大化し、有害です。

加えて彼は、自分の自意識の形、状態、場所、そもそも存在を把握していません。

 

 

 さて、それでは松野チョロ松とはいったいどういう男なのか。

私がこのブログで彼について過去に語ったのは、

・彼はおそ松を長男として担ぎ責任と意思決定を担わせ、以下の兄弟たちを平等に保つことで六つ子という共同体を守りそのマネージャーとして自分の居場所を作っている

・自分を六つ子の中の「正義」だと認識している。

・作品中において比較的「信頼の置ける語り手」。モノローグが口からそのまま出ている。

というあたりだったと思います。そういえば彼について本腰入れて語ったことなかったんではないか、ぃやったー!チョロ松くんについて語るぞ!!

一番目は前にそれなりに説明したので省きます。

今回問題なのは、二番目と三番目です。

 

彼は基本的に、思考のパターンが外向きです。

 

男だけの六つ子という環境下で、彼にあっただろう本来の(ライジングする以前の)そこそこの勝気さとそこそこのプライドを持って生きるのはかなり大変なことです。私がチョロ松を見たときにぼんやりと常に感じていたのは「こいつめっちゃ次男!!っていう性格してるなァ」ということでした。

弟持ちの長女かつ幼馴染のほとんどが二人以上の兄弟持ち(東京来て一人っ子という存在にびっくりししました。地方差についてとやかく言う気はないけど少なくとも私の学生時代において一人っ子はかなりマイノリティーです)という私は思うのですが、多人数の兄弟というのは規模は違えど競争がおきます。大抵次男が幾分かよく言えば活発、悪く言えば攻撃的に育つというのはままあることです(異論は認めます)。

彼は六つ子の真ん中として生まれ、生きていく中で他の兄弟より抜きん出るためにどうすれば良いかという生存競争に適応しました。結果、彼は強気に出たり、相手を言い負かしたりする機能に特化しました。自分を弁護し、正しかろうが正しくなかろうが自分の意見を通す。彼は外部から認識されるための手段と技術を駆使することにかけては一流です。

「おそ松くん」時代はそれだけでした。おそ松の悪さの片棒を担ぐ、六つ子の中では目立つ方の存在。暴君。それまでは良かった。まぁそのぐらいの次男を私は何人も知っています。

問題は、彼の場合、そこに「僕が正しい」「僕が常識人でいなければ」というのが絡んできたということです。

 

おそらくこの部分は、「おそ松くん」後、つまり他の兄弟がそれぞれの個性を獲得した後に、連鎖的に彼についたものだと私は踏んでいます。

なぜなら、彼が「常識人」「一番まとも」でなくてはいけなくなったのは、他の兄弟が「まとも」ではなくなったから、だからです。

ある兄弟はナルシストをこじらせ、ある兄弟は暗く無口になり、ある兄弟は奇行に走っています。皆元々どちらかといえば真面目で気弱だった奴らです。次々とバランスを欠いていく奴らを見ているチョロ松に一つの呪いがかかります。

「ぼくはまともでいないと」

相手のマウントを取るプロフェッショナルに、この一種の正義感がプラスされるというのは、有害以外の何者でもありません。

結果彼は、

「自分の承認欲求を満たすために相手のマウントを取る。そのための理屈はめちゃくちゃでも、彼にはその理屈が「正解」として認識される。結果、そのための手段も正当化される。従ってその行為が自分のためのものであることを自覚していない」

という歪な構造を持つようになりました。

 

彼は外向きの力だけにステータスを極振りし、そこに「正義」という思考停止の呪いがかけられたために、自分の内側を向く機会がまったくありませんでした。内省、というものと彼の人生は無縁です。内省だけで生きる四男とは完全に対照的です。

 

彼は「信頼のおける語り手」です。彼は考えたことをそのまま話しますし、そのまま表情に出します。

エスパーニャンコ」において、「じゃあ、これが一松の本当の気持ち…」と言う彼の声は少しはずんでいるように聞こえます。彼は本当の気持ちが晒されることに対して何の拒絶も示しません。彼にとって、本当の気持ちがわかることイコール良い事です。それによって傷つく人がいるということを彼は理解できません。

なぜ彼がそういうふうなのかといえば、彼は自分の考えたことが「正しい」「まとも」であると考えているため、隠したり偽ったりする必要がないからです。

加えて、反論を受けた場合でも、彼は自らの技術によってその反論をたたきつぶす、もしくは中和することが可能なため、決定的な挫折や、「本当の気持ち」によって徹底的に傷ついた経験を味わったことがないからです。

 

本来、「思ったことをそのまま言うと角が立つかな」「ここでそれは言うべきじゃないな」「彼はきっと黙ってて欲しいと思うだろうな」というようなものは、経験則で身につくはずなんです。誰かを傷つけた経験、誰かから傷つけられた経験、それらを反省して、上手い下手はともかく何かしら掴んで人は大人になります。

つまり、チョロ松はあの6人の中でも、決定的に子どもなんです。

普通は、人は思ったことそのまま、嘘もつかずに生身のままで、なんて生きていけないんですよ。現実に「信頼できる語り手」なんてものは存在しません。いや、しないことがそもそも前提なんです。誰も完全に信頼がおけないことを前提に、それなりのところを模索していくのが大人というものです。

 

彼は自分の中身を全く把握も理解もしていません。そのため彼の自意識は彼の手の届く範囲にはありません。

「プライドの亜種」本当に名言です。プライドは自己認識の高さからくるものです。チョロ松は自己認識の時点から怪しい。彼の中身はほとんど手つかずの荒野、外向けの思考ばかりがどんどんと肥大化していきます。

それが臨界点を超えた時、彼は本当に外側だけの生き物と化しました。

巨大化、触手、これはカラ松の花と同じ暴走のモチーフです。自意識が手元になかったせいで何の対処もできず、チョロ松はその暴走を許しました。

 

 

この死刑宣告を言い渡し処刑を行うのがおそ松とトド松であるというのが本当に憎い。彼らはこれらをきちんと把握し、人に説明できるステージにあります。

元々彼らは最も信頼のおけない語り手、つまりは最もコントロールされた対外装備を持つ二人です。冒頭での「まじ信頼できるわ~すき~」という明らかに真意の伴っていない会話を楽しめることからもよくわかります。それは彼らの自意識のあり方そのものです。彼らはその点においてきちんと大人です。おそらく挫折と傷をきちんと受けて人に与えて生きてきた結果です。

後のメンバーもそれぞれの形でそれを把握してはいますが、彼らが言語化できるかといえばおそらく無理でしょう。

 この二人によって、チョロ松は何がダメなのかという指摘、更にそのダメさを完全に自覚するための機会までお膳立てされました。

「はやく死んでこいよ」

その死がこのアニメにおいて何を意味するかは明白です。このパートのタイトルは「チョロ松ライジング」。名前入りの回は各人のお仕置き回です。彼はここできちんと死んで、もう一度蘇らなくてはならなかった。もしくは死体として死体らしいあり方を模索しなければならなかった。そのために絞首台は用意された。

 

しかし、彼がうまく死ねたのかというと、疑問が残ります。

彼が至ったのは、ぶっちゃけ使いたくない表現ではありますが、発狂です。彼はダンボールで作ったマシンを前に、スーツを着、カフェでノマドをし、いもしない相手と電話をします。予告では「兄弟に否定されてばっかだから」キャラチェンジしました。今の彼には「なんか否定されてる」という認識しかありません。彼は外身だけの虚です。

彼はそもそも、過剰な自意識、過剰な対外装備を着込んでいました。そういう人間を、その鎧ごときちんと綺麗に折ろうというのはかなり難しい。

やっぱり彼は綺麗に死ねなかったのではないかと考えています。例えばバイトを経て、自分のキラッキラしている自意識を受け入れたトド松のように、それなりに愛していくとか、そういうところまで至れなかった。かといって十四松のように痛みに浸って泣き喚くこともできなかった。

ビッグバンを起こした自分の自意識に、指摘されて初めてやってみた内省によって飲み込まれた結果、彼は発狂しました。彼は綺麗に死ねなかった。やり方が間違っていたわけではありません。ただ彼の自意識ライジングが治療の難しいレベルまで来ていたというだけです。

 

次回の彼がたいへん気になります。

 

私はずっと「彼は処刑されるべき」「どうやって殺そう」「はやく楽にしてあげてください」って考えていましたがそれがきちんと行われてしまってもうどうしたらいいかわからないんだ。どうしよう。

あと今回の話は全ての肥大化した自意識を持つ皆さんへも同時に行われた処刑でしたね。私は綺麗に死ねたかな。

あとそれぞれの自意識の形の話をもっとしたいんですけど長すぎるので一旦切ります。たぶん今回の話はまた書きます。今回情報量が多すぎ…たのしい…

 

 

お粗末さまでした。

しんどい女の子と「じょし松さん」の話

昔々あるところに、女の子がいました。

 

彼女はスポーツが好きで、木登りが好きで、スカートが嫌いでした。

ズボンにショートカットで、男の子と遊んでいた女の子は、いつも男の子と間違われていました。

彼女は男の子が好きでした。

それは早いうちから、単純な、遊び相手であり、なりたい自分としての「好き」から、恋や愛というラベルのついた「好き」へと変わりました。

なぜなら、女の子は小さい頃から絵本が好きで、読書が好きで、お姫様と王子様のお話をたくさん知っていたからです。そこにはいつだって夢と希望にあふれた恋愛がありました。

幸いなことに、女の子の周りには男の子がたくさんいました。女の子の世界はおおむね順調でした。彼女は全ての人を愛していれば、全ての人に愛してもらえると信じていました。それが良い子の条件というものでした。そしてその通りに世界は動いていました。

 

しかし、しばらくすると、女の子はあることに気がつきました。

ある程度の、好きな人間と嫌いな人間がいたほうが、味方がたくさんできるということ。全ての人を愛するということは、誰も愛していないのと同じであるということ。

皆が気が付いていくそのことに、女の子は出遅れました。彼女の世界はあまりにもうまくいっていたからです。

 

お姫様と王子様の世界を失った女の子に、もう一度、お姫様と王子様の世界を見せてくれる、もうひとりの女の子が現れました。女の子は喜んでその手を取りました。彼女はその美しい世界を守るためにいろいろなものを捨てました。

放課後の学校の屋上で、隣に座った、王子様でもありお姫様でもあるその子が、クラスのみんなや先生の名前を並べて、みんな死んでしまえ死んでしまえと呟き続けるのを黙って聞きながら、女の子は自分の美しい世界が少しずつ死んでいくのを感じていました。

 

美しい世界がなくなったその後も、女の子は、全ての人を愛することをやめませんでした。それが良い子の条件だったからです。彼女は良い子であることからは逃れられませんでした。女の子はふわふわと生きることに決めました。

同じような女の子と友人になりました。大きくなってから覚えたSNSという場所に行くと、そういった女の子は思っていたよりもたくさんいました。良いタイミングで絵本の世界から出られなかった女の子たち。出口でつまづいてしまった女の子たち。絵本に裏切られた女の子たち。

そんな女の子たちは、時々、つまづかなかった女の子たちのことを見ては、自分を蔑むのですが、同じくらい、つまづかなかった女の子たちを馬鹿にすることもあります。何も考えていない馬鹿な女の子たちだと。自分に嘘をついている卑怯な女の子たちだと。世界の嘘に気づいていない愚かな女の子たちだと。

 

「それでもね」

 

「じょし松さん」を見ながら、女の子はつぶやきました。

 

「わたし、本当はあの子達がうらやましいの」

 

「わたし、あんなふうになりたかったの。自分の好きな服を着て、男の子にモテたいと思ったらそんなふうにして。どっちにしろ自分の好きなように選んで。うまくいかないときは愚痴を言って。時には喧嘩をして、そのあとは私たちは親友だって言い合って、泣いて。わたしもそんなふうに生きたかったの。ほどよく諦めて、ほどよく諦めないで。だってわたしずっと、何も持ってないのに、何か持ってるふりをしてるもの。あの子たちは六つ子と違って作中ではクズだって言われてないはずよ。だってクズじゃないもの。きっとあの子たちは女の子である自分がきっと好きよ。わたしと違って」

 

「わたし、あんなふうにやり直したいの」

 

「それは無理だよ」

 

黙って聞いていた、女の子の側にいつもいる男の子が返事をします。彼は女の子の美しい世界が消えた頃からいつもいます。無口ですがいいやつです。

 

「どうして?」

「それは楽園のリンゴみたいなものなんだよ。不可逆なんだ。いや、一度食べたら戻れないっていう意味ではザクロかな」

「藤田監督の写真ね」

「リンゴを食べる子もいれば、一生食べない子もいる。誰かに無理やり口の中に押し込まれる子もいれば、自分から食べる子もいる。ぐちゃぐちゃに味と形を変えられて、食べたことに気がつかないでいる子もいる」

「砂糖で煮込んで、潰してジャムにして、トーストか何かに塗りつけてしまって」

「そう。でもリンゴ自体は別に正しくも悪くもない。ただのリンゴだ。でも食べなかったことにはできない」

「じゃあどうしたらいいの」

「ぼくに聞かれても」

 

男の子は肩をすくめました。

 

「これからなんとか落としどころを見つけるしかないんじゃないか」

「落としどころ」

 「とりあえずはそうやって深夜にアニメを見てる自分のことを好きになるところから始めたらどうだい」

 

そうでした。女の子はアニメが好きですが、アニメを見ている自分のことが、実のところ、ほんのちょっと嫌いでした。根拠のない罪悪感が、いつも肩のあたりに張り付いていたものですから。

 

「……そういえばお知らせがあったわ」

「なんだい?」

 

男の子は面倒くさそうに耳を掻きながら聞きました。

 

「来週はおそ松さん19話をリアルタイムで見れないの。木曜日に見る予定」

「ふーん」

 

男の子はどうでも良さそうに、女の子の後ろ頭に向かって返事をしました。

 

「それはそれは」

しんどい私の大好きなディストピアの話とやっぱり「おそ松さん」の話

こんにちは。毎度ありがとうございます。元気に生きてます。

 

私は以前から「松野家ディストピア説」を提唱し前回は「ひゃっほう!世界が滅んだ!!」とヨロコんでいましたが、私はディストピアが好きです。ほとんど性癖です。

私は本を読んでは、「これはよいディストピア」音楽を聴いては「ディストピアみある」などとかなりカジュアルな評価軸にこの言葉を使います。世の中のエンタメはディストピアものかそうでないかです。わりとフィーリングです。

 

あまりにもフィーリングなので、よく「どういう判断なんだ」「どのへんがそうなんだ」「しっかり説明せぇよ」とお叱りを受けます。ごもっともです。すみません。

というわけでここらで、「お前の好きなディストピアとはなんぞや」という話を一度ゆるーいかんじでしておこうと思います。

 

えーとまずきちんとした語義からいきましょうか。ウィキペディア先生によると

ディストピアまたはデストピア(英語: dystopia)は、ユートピア(理想郷)の正反対の社会である。一般的には、SFなどで空想的な未来として描かれる、否定的で反ユートピアの要素を持つ社会という着想で、その内容は政治的・社会的な様々な課題を背景としている場合が多い

ということです。語の初出は、ジョン・スチュアート・ミルが1868年に行った演説とのこと。主な特徴は

平等で秩序正しく、貧困や紛争もない理想的な社会に見えるが、実態は徹底的な管理・統制が敷かれ、自由も外見のみであったり、人としての尊厳や人間性がどこかで否定されている

 という描写があること。

ちなみに、混合しがちですが、世界の終末後の世界を描くジャンルのことは「ポストアポカリプス」と呼ばれて区別されるそうです。

しかし、世界崩壊後に反ユートピア的な社会が建設されるというのであればジャンルとして両立することもあります。ふむふむ。

 

というわけで基本的なお勉強は終わりです。

ここからはこれらが本当に厳密にこのジャンルが好きで研究している人に殴られる感じの話をします。

私は前述したポストアポカリプス、終末ものも大好きです。やったぁ滅ぼすぜ世界。行こうぜ荒野。火の七日間だイェイ。

ついでにそこを経由して築かれる反ユートピア、とはいえある視点からではユートピアでもあるというのがこの概念のニクいところなのですが、ディストピアというのは大変素晴らしいものだと思っております。ハンバーグに目玉焼き乗ってるかんじです。

しかし、私がどんなに目玉焼きハンバーグが好きでも、「終末もの」好きを主張するのではなく、「ディストピア」が好きだ、と主張するのは、この点の違いにおいてです。

 

「世界が崩壊しても、理不尽な社会でも、とりあえず生きてはいける。ご飯が食える。」

 

ここです。ここが重要なんです。

世界が崩壊した、食いもんと住む場所がねぇ、戦わねば!生きねば!というのが終末サバイバルものです。

世界が崩壊した、理不尽な世界だ、でもとりあえず当座の食物はある、家もある、なんか生きてる!というのがディストピアものです。私にとっての。

 

うーんと何か例をだそうと思って、一番広く知られててわかりやすいのって何だろうと思ったんですけど、そう、私の大好きな映画にピクサーCGアニメーション映画『ウォーリー』があります。

そうだ!『ウォーリー』を語ろう!やったー!!

『ウォーリー』私本当に大好きで、毎回冒頭の曲がかかった時点で泣いてるレベルで、もう見てない人は早急に見てくれ!見る時はきちんとエンドクレジット後までちゃんと見るんだぞ!!お姉さんとの約束だ!!というかんじなのですが、あの作品、私は二種類のディストピアが見られると思っています。

見てらっしゃらない方に簡単に作品を解説しますと、BnL社という会社が支配した結果、大量消費の末に環境汚染で住めなくなり、ロボットに環境改善をさせている間避難しようと人間が全員宇宙船で旅立った後、何百年か経った地球、というのが舞台の作品です。その何百年か経ち掃除ロボット達が皆壊れてしまった中、ゴミだらけの地球でひとりぼっちでひたすらに掃除を続けていた小さなロボット「ウォーリー」君が主人公です。

重いよ、重すぎるよ。

ウォーリーくんは毎日仕事をします。ゴミを圧縮し並べていくのが彼の仕事です。毎日規則正しく出掛けてはこの仕事に精を出します。

しかしながら彼の仕事は、はっきり言ってほとんど無意味です。もっと大量に彼と同じロボットがいた時代はいざしらず、彼一人が、しかもゴミを消滅させるのではなくカサを減らし移動するだけというのは一日中頑張ったところでまぁ環境改善には至らないだろうということは明白です。

そして彼はひとりぼっちで何百年も過ごしたために、限りなく心に近いものを手に入れています。彼には夢があります。ゴミの山から見つけた映画に出てきた人間たちのように、誰かと手をつなぐこと。

しかし彼の生活は変わりません。一日中ただ誰のためなのかもわからないようなゴミ掃除をしつづけ、誰かと手をつなぐことを夢見ながらスリープします。

彼は誰かといたい、手をつなぎたい、誰かを愛したいと願いながら、逃れられない仕事に励みます。強制的にひとりぼっちでいつづけます。今ここにはいない人間にそうプログラムされたからです。そして彼はロボットです。日光で充電できます。壊れるまで、彼は何かと戦わなくても生きていられます。

 

それではその頃人間たちはどうしていたか。本来数年間で地球がクリーンになり帰還できると考えていた人間たちでしたが、環境改善が難航したために彼らは宇宙生活を延期することを選びます。全ての活動をロボットに任せ、移動する椅子に乗って宇宙船内を移動する彼らは筋力を失い、何百年の間に退化しました。彼らは何もできませんし、何もする必要はありません。オートパイロットによって統制される船内では何の問題も起きません。人間は何不自由ない生活ができています。どこか退屈さを感じることはありますが、彼らは何もしなくても生きていられます。

 

後者、「ロボットに管理された未来の人間たち、不自由のないユートピア、に見える進歩も闘争も気力もない社会」は定義的にわかりやすいディストピアです。しかし前者も、完全な社会体制が描かれているわけではなくとも私の定義でディストピアです。ウォーリーも人間たちも、生きている環境に落差はあれど、何者かに押し付けられた世界の中で不自由です。しかし生きてはいけます。戦わなくても。

ウォーリーの前に現れた美しい探査ロボット「イヴ」によって彼がなかば「うっかり」闘争の当事者になる羽目になり、彼らによって人間たちが尊厳を取り戻すまで、そして彼が愛する者と手をつなぐまでが描かれるのがこの映画です。

 

つい調子に乗って長くはなりましたが、このウォーリー側のディストピア、つまりは統制社会や国家権力やカースト、その他SFに必須ななんやかんやがなくっても、理不尽かつ人間性を失わせる現状とそれに甘んじる人間、そして甘んじていられるだけのご飯と屋根のある場所、これが揃う環境が、私は好きです。それを私はディストピアと呼びます。

 

例えば私はポール・オースターが好きですが、『ムーン・パレス』や『偶然の音楽』を私はこういう意味でディストピアものと呼びます。主人公たちには金がありません。特に強い目的もありません。石をひたすら積むとか、無意味な仕事は目の前にあります。そしてご飯と屋根があります。

 

私はそんな世界を描くものが好きで、この「好き」のカテゴリは自分の中ではジャンクフードが食べたい瞬間があるとかアルコールが好きとかそういうものに近い衝動なのですが(けなしてるんじゃなくて自分の中のカテゴリ分けがそういう分類だということ)私はそういう世界が破壊されるのを見るのも好きです。こっちはいささか私という人間のカタルシスの問題の方の「好き」です。

この世界が破壊されると、大抵は、同時にご飯と屋根が失われます。

 

先日友人に勧められてアニメ『妄想代理人』を観ました。今更ですね。アニメには明るくないんだ。すごく面白かったです。あらすじ説明しづらいのでこの先見てない人に優しくない話です。雑に読んでください。

終盤で猪狩さんと月子ちゃんが、昭和の町並みの穏やかな世界をゆく場面があります。そのころ同時に外の世界は少年バットの妄想によって破壊されています。つまりはそういう荒廃から目を背けて生きているのが現代社会だ、ということなのですが、彼に優しいまやかしの世界を猪狩さんはバットで破壊し、脱出します。

「居場所がないって現実こそが俺の本当の居場所なんだよ」

 

私は一日かけてブルーレイ3枚分を再生し、このへんで東京が荒れ果てるのを眺めながら「うわ週に二度も世界が滅んでやがる…」と思い、友人の家からの帰り道ラーイヤーラライヨラとくちずさみながら考えて考えて、うむこれもディストピアだ、と判定することにしました。

 

というわけで、おわかりいただけたと思うのですが、私はこういう判断基準で、「おそ松さん」ってめちゃくちゃディストピアだと思っています。

彼らにはいろいろ欠けているものがいっぱいあって、ついでにそれは理不尽な運命やこの社会の歪みの結果としてありますが、彼らにはご飯と屋根があります。彼らは闘争ぬきに生きていくことができます。それに甘んじている間彼らは幸福です。欠落から目を背けておくことさえ可能です。

人間にはご飯と屋根が足りているから考えられることとご飯と屋根が足りているから考えられなくなることがあります。前者の方を語るのは古くは高等遊民と呼ばれる人たちが担っていました。「こころ」の先生は別です。あれはディストピア判定出せます。

ニートってすごいシステムだね。この説明が面倒くさい状況を3文字で表現できます。彼らは定義的に厳密にはニートではありませんが、この意味で正しくニートです。彼らは生きるための闘争なしに生きていられます。

 

 

そう、ここまでの話に従えば、SF的な世界観、近未来的社会、管理社会がなくったってディストピアと言えるなら、そもそもこの世界ってまるごとお前の言うディストピアじゃん、ということになります。当然そうなります。

私は「こころ」の先生はディストピア判定出せると言いました。彼は彼の世界がディストピア、明日を生きる金があり美しい妻がいる一見理想的に見える荒廃にあると気づきました。気づいたことで彼の世界はディストピアに変貌しました。それと闘う気力を持ち合わせなかった彼は彼の夢見たユートピアと心中しましたが。

 

ディストピアものが存在するのは、そこがユートピアではないということに誰かが気がついたからです。それまでは、いつまでもそこはご飯と屋根のあるユートピアです。

 

 

だから私はあの六つ子の家をディストピアと呼ぶのです。

 

 

 

お粗末さまでした。

 

「おそ松さん」18話 主人公になりたいしんどい私の話

こんにちは。

 

前回私が何を締めに書いたかっていうのを見返してみたんですけど

私イヤミに言ったんですよね。

「さぁ楽園は終わりだ!!早いとここの地を無に帰そう!!!」

 

ほんとに無に帰しやがった。

 

というわけで唖然としつつ18話「逆襲のイヤミ」の感想いってみたいと思います。

 

 

今回の話はざっくり言うと

・かつて「おそ松くん」時代に主人公であったイヤミが主人公の座奪還を狙う

・イヤミは優勝したら次回からの主人公の権利が手に入るという、カートマシンでのレースを用意し、六つ子やトト子、他の登場人物達が参加する

・参加者達はお互いに妨害しあい殺し合いゴールを目指すが、イヤミは主人公となる自分以外のキャラクターが消えてしまえば解決すると言い、原子分解光線で世界を滅ぼす

・喜ぶイヤミだったが、なぜかおそ松は生き残っており、全員を倒す手間が省けたと言いイヤミと乱闘を始める

・おそ松と改造人間と化したイヤミ、執念で復活した参加者たちがゴールを目指すが、ゴール前に力尽きる

・聖澤庄之助が優勝する

 

 といった感じです。すごい。また世界が滅んだ。

 

私は今まで、ずっと「赤塚先生の楽園は消えた。全ての価値が瓦解した。六つ子という居心地のよい地獄は崩壊するだろう。そこに何が残ると思う??」ということをずっとこねくり回してきました。

でもね、私はこの「楽園の喪失」「優しい小世界の崩壊」というのを一種の比喩、メタファ、そしてポエムとして使って語ってきました。

だから今後来るであろう「破壊」も「再生」も、例えば一松事変によって一松がカラ松に救われたように(ここもメタファですよ)、何らかの出来事によって、何らかの向こう側で、行われるだろう、それを見逃さないようにしよう、と私は思っていたわけですよ。

それをまぁ、18話は「ほらほら!皆殺し!!ほらほら!!」って地続きの世界でやりやがったんですよ。

凄まじいことですけれど、それが、それこそがギャグマンガのできることであり、アニメのできることであり、エンターテイメントのできることであったと思うんですよね。

16話についてで、「問題の可視化」についてちょっと話をしましたけど、作り手が意図したか、受け手が汲み取ったか、っていうのを別にしても、こういうことがエンタメの役割っていうか、可能性というか。それを「おそ松さん」はずぅっとやってきてる。

だって現実では、それがその人にとってどんなに素敵な王子様との出会いであっても傍からじゃ何もわかりませんからね。マンガだったら薔薇しょって星振りまいて出てこられる。これはものすごいパワーですよ。

 

さてと、本題に戻ります。ここまでも十分熱弁振るいたいところではあるんですが。

 

今回の話はまぁ~前述したメタフィクションとメタファのてんこ盛り、ってかんじだったんですが、今回の構成上の面白い点は、「普段の生活の延長上の世界での話」であるという点だと思います。

今まで、その役割は赤塚漫画のスタイルでもあったスターシステムの回「なごみ」や「面接」そして短編、そしてデリバリーコントという小規模のスターシステム劇中劇によって担われてきました。というか担われてきたというふうに私は見てきました。

今回、ほぼ全編「優勝したら主人公」というメタ極まりない上にカーレースというはっきり言って現実的でない出来事が起き続けているにも関わらず、彼らは彼らのままという世界観となっています。近いものがありました、「ダヨ~ン相談室」ですね。

 

これをどういう位置づけとしてみるか、というのがけっこう大きい違いになってきます。

今回が「なごみ」のようにパラレルとしての物語であるとすれば、この「世界崩壊ジェノサイド」の再現が、こんどは日常の松野家ライフの流れの中で行われる可能性があります。

今回が日常の延長にある話だとすれば、今回起きたことも反映された物語が今後展開されると考えられます。

なぜ私がこんなことをちみちみこだわって気にしているのかというと、

今回、全員が全員「あまりにもむき出し」だったから。

そしてやっぱり「世界が崩壊」したからです。

 

六つ子たちを、「大人になれなかった大人、「見られ」足りていないこどもたち」として捉えていた私にとって、今回の「主人公になりたい」というテーマはメタ的な意味以上に重くのしかかりました。

「六つ子」そして「その他のみなさん」つまりは私たちは、みんな本当は主人公として生きたいのです。

主人公になりたい。なんていうんだろう、自分自身の主人公として生きたい、というか、自分を主人公だと、少なくともそう思って生きていたい。誰かの人生を生きていたくない。それが当たり前のようにできる人と、できない人がいます。けれど、それが苦痛を伴うことであったとしても、普段はすでに諦めているようなポーズをしていても、やっぱり私は主人公として生きていきたいのです。

 

そして、彼らは終盤、その執念のために死から蘇り、人を殴り倒しながら、ゴールを目指します。スタート地点でスタート前から棄権状態、中盤で自分からリタイヤした一松さえも、「褒められたい!!」と叫びながらハタ坊を殴ります。

 

なぜ彼までもそう言えたのか?一度死んだからです。世界が滅んだからです。

正確には、イヤミという男が滅ぼしたからです。

 

ほとんど初めてイヤミという男について書くんですが、彼は「おそ松くん」時代のスタァです。私の家には、今考えて到底そんなことをするようには思えない若い頃の祖母と、幼い母が彼のポーズをとって写った写真があります。びっくりだね。とにかくそれはとんでもないレベルだったらしいぞ。私がリアルタイムじゃないのでこのぐらいにしておきますが。

しかしまぁ現在彼のことを若い子が知ってるかっていったら知らないしイヤミのポーズで写真撮る人がいるかっていったらまぁいないですし(あの頃のようにって意味だよ)そういう、彼が旧時代のヒーローであることは本編中でもはっきりと残酷に描かれています。

つまり、彼の世界は既に、赤塚先生の死とともに滅んでいました。いや、実際は同時に六つ子たちの楽園も失われていたのですが、それをイヤミは目に見える形で骨身に染みる程、叩き込まれていたわけです。

イヤミはこのアニメが始まった時から既に死んでいたのです。

 

一度死んだイヤミは蘇ります。また「主人公として生きたい」という執念のために機械仕掛けのサイボーグとして蘇ります。結果、彼はアニメ序盤から、作品中でほとんど唯一、「くん」時代のことを盛んに口にし、「主人公になりたい!!!」と叫び続けることができるキャラクターになりました。

 

そして彼は「世界が滅ぶ」ということがどういうことかを知っています。よって的確に他のライバルたちを殺すことができます。

彼はスイッチを押しては、彼らの前に「欲しいもの」そして正確には「本当に欲しいもの」ではない幻想を用意し、それを破壊してみせます。

客体としての女、安定した老後、アイドル。

それらが幻想であることは、今まで18話かけてこのアニメが描いてきました。

そして一松にとっての猫、カラ松にとっての花。

作中で語られたように、それらはある種の代用品、消耗品でありながら、彼らが本物だと信じたがっていたもの達です。

それらを、イヤミは破壊します。それこそが、私たちにとっての世界の崩壊、つまりは価値観の崩壊です。世界は焦土と化しました。

 

彼の誤算は、皆殺しにした人々がやはり彼と同じように主人公になりたいという執念を持つことを予想できなかったことと、松野おそ松という男が既に彼と同じところまでいきついていたということでした。

 

 

ごめんなさい私は進行中のアニメについて書いてるんだ、あとでどんなに自論と矛盾する展開になっても絶対撤回しねぇしあやまらねぇぜと思っていたんだけど今回は謝らせてください。ごめんねおそ松兄さんお前はやっぱそんな殊勝な奴じゃなかったよな本当にごめんなさい。

 番外:おそ松兄さんへの搾取が見ててしんどいという話 - バックヤード

 

そうだよ彼は2話の段階で自分のアイデンティティであった「六つ子の長男」「俺がタイトル」「俺が六つ子」を破壊されて自分が主人公じゃないことに打ちのめされてるじゃないか。いや、もっと前だ。そもそも彼はアニメが始まる以前から、イヤミがスタァになったときから、ずっと彼にタイトルを奪われて生きてきているのではなかったか。

彼がとっくの昔に「主人公」としてリビングデッドであったとすればつじつまが合うことはいろいろとあります。彼は主人公になりたかったのです。良い兄貴たる行動を取ることもその一つの手段でもありますが、必要とあらば彼らを皆殺しにすることもできます。

個性を持った彼らは「5人の敵」なのですから。

それでこそ私が推す松野おそ松だよ。

 

二人の死者は蘇り、自分が主人公になりたいという衝動のために手段をつくして争いました。最終的には同じステージの二人が世界に残され、直接の大乱闘を繰り広げます。

しかしながら最後に勝利したのは聖澤庄之助という、新アニメで初めて名前が付いたキャラクター、まっさらな生者でした。

 

 

これこそがリバイバルと言わずしてなんと言うのか。

 

私は彼らが「主人公としてのポストを与えられながらも脇役にその地位を奪われた少年たち」を成長させて「自分の主人公として生きられない大人になれないモラトリアム青年たち」として読み替えるのもとんでもねぇなと思っていたんですけど今回を見てこのアニメはそれ以上のことをやってのけていたんだなと思いましたわ。ウルトラCだよ。とんでもねぇよ。

 

今回、彼らが全員一旦正式に死者になり欲求を叫べる存在になったことが、今後引き継がれるのか、それとも引き継がれない、別の形で再現されるか、というのが次回からのポイントだと思います。

 

しかも全員お互いの主張を聞いちゃっていますからね。

見ていて思ったんですがチョロ松くんはやっぱり作中では「信頼のおける語り手」で、そのまんま考えたこと口から出すし行動してるんだなと思ったんですが(そしてやっぱトド松くんは嘘つきなのでよりいっそう)、だとすると彼が兄弟の支持を受けて号泣していたのは本心でしょうし、そんな彼が「認められたい」って叫んでいたのは印象的でしたね。

彼に真っ先に存在してるのは「認められたい」。就活もレンタル彼女も、彼にとっては、きちんとした男だと認められるための手段、なんですよね。そのへん行動の一貫した動機として今回で納得できました。

 

でも私が一番共感したのは、一松くんかなぁ。

注目されたくないし、主人公になるのはとんでもなく怖いことだけれど、レースには参加したいし。

こんなに頑張って生きているんだから、誰かが褒めてくれたっていいのに。それだけでいいのになぁ。

 

 

今後もまだ六つ子としてやつらは生きていけるのかなぁ。今回を引き継ぐのならかなり微妙なところだと思います。

 

 

「主人公になりたい!!」と叫ばなくても生きていける、なぜならいつでも「十四松だよ」と言うことができるから、そして人にこう言える十四松くんが、何かを変えてくれるかもしれません。

 

 

「主人公は、あなたです」

 

 

 

お粗末さまでした。

 

「おそ松さん」17話 しんどい私は私でしかないという話

どうも、こんにちは。

マクラにしたかったことは先日書いてしまったので本題に入ります。

「十四松まつり」です。

 

いやはや、衝撃的でしたな。

今回、正直「哲学」なのでかなり文章がとっちらかっていますがご了承ください。

 

今回は、短編オムニバス形式なので、あらすじは置いておきますが、

私はこの短編の並びは意図的なものだと思っておりまして、その話をするためにも、まず最初に全体を二つ、(正確には三つ)に分けます。

 

「十四松と概念」以前と

「十四松と概念」以後、というように分割、加えて

「十四松と概念」です。

 

 そうです、今回は前編を通して、十四松の「自己認識の話」でした。

それを、「概念」以前と以後に分けて語っていきたいと思います。

 

 

私は9話感想、そして番外編で述べたように、十四松についてこのように考えていました。

彼は誰の地雷も踏まないように、誰の条件にもひっかからないように生きることで居場所と承認を得ている。そのために誰の内部にも踏み込まない。彼はなごみ世界における鑑識(固有の名前を持たず、他にも大勢おり、代役も可能)、つまりはモブである。彼はその「誰にも踏み込まない、踏み込めない」生き方を選んだ代償として、彼女とはお互いに責任を取り合う大人としての関係を築けなかった。

 

それは15話での面接、今回でも同じです。彼はまっとうな思考力を持って、ああいった態度をとっています。「言えばやめてくれるッ!」は最高に好きな台詞ですが、その通り、彼は言えば通じますし、ふざけはするけれど積極的に誰かを傷つけようともしない。彼は人が望むままに形を変える、不定形の生命体です。(その方法が大変に突飛で人知を超えすぎている、というかもう人間なのかも疑問なレベルだから面白いのですが)

 

 

十四松とカラ松がパチンコに行った際ですが、彼はおそらくカラ松の言うことを理解していたでしょう。あれはその上でふざけて遊んでいたと考えられる。他の兄弟たちが出払っているということを何らかの方法で察していた可能性もあります。私の見立てですが、カラ松は松野家家族ゲームからすでに抜けている状態にありますので、十四松としては楽な遊び相手だと言えるでしょう。

彼が本当のところ、真面目に言えば、「兄さんがパチンコに勝ったことを言えば兄さんが集られる可能性がある、だからみんなには言わない方がいい」と考えていたことは自明です。だから彼はトド松に問い詰められたとき、迷った。

「嘘をつかない」「報告は必ず」は他数人の地雷に抵触するルールです。六人全員を前にしては、それは守られねばなりません。しかし十四松はカラ松を即裏切ることもできなかった。

さらに不運なことには他の兄弟達は沈黙していました。他の3人が乗ってくれれば、彼はパチンコ警察とスタバァを再演してみせたことでしょう。

 

どちらにもつくことができなかった彼がどうなったか。キャパシティオーバーです。

不定形生物である彼は、常に自分の取るべき行動を周囲から察した情報から選択します。そこに自我はありません。

 

そんな不定形生物十四松が、キャパシティーオーバーを起こした後に考えることとして、この疑問はまったくもって自然です。

「僕って、何なんだろう」

 

 

「十四松と概念」です。

 

というわけで十四松と概念の話を詳しくするんですけれど、私はこれを見ながら号泣していたのでちょっと冷静な判断がつかなくなっているかもしれないのでそこのところよろしくお願いします。はぁ。

 

自然な疑問として沸いた「僕って、何なんだろう」という問い。

彼はこの大きな問題に対し、真っ向から挑みました。それはさながら、爆弾を処理するために銃弾を打ち込むような処理の方法です。

 

そうして、つきつめていった結果、彼の周囲の世界は見え方が変わってきます。声も、形も、言動さえも関係ない。そこに残るのは「僕」を思考する「僕」。

十四松は何がどうあろうと十四松なのです。その圧倒的な事実の前には、自己認識や存在意義といった悩みは不毛です。自分をどう捉えようが彼は彼以外の何にもなることはできず、存在意義があろうとなかろうと十四松はそこに存在し続けます。

それはひとつの悟りであり、彼にとっての新しい世界の見え方です。

 

 

 

さて、十四松がこれを、一つ上の兄であり「おそ松くん」時代からの「一番一緒にいる時間が長い」一松に投げかけたというのはものすごく重要です。

問いが十四松個人の思考を超えて、言葉になる、世界にたち現れるためには、一松という存在が必要でした。

 

十四松と一松のありかたは対照的です。一松は自分の存在というものをきちんと認識し、把握し、把握したが故にそのために自己否定に走ってしまっている青年です。だからこそ、そこにがんじがらめになって身動きがとれなくなっている。彼の暗さと卑屈さは誰かからの攻撃などによって形成されたものではなく、過剰なまでの自意識からくるものです。

前回、彼は、格好を変えて口調も変えてあれだけ窮地に追い込まれても、それでも馬鹿正直にはなれなくて恥をかくのが嫌で感謝の言葉も素直に言えない自分とひたすらに向き合わなくてはなりませんでした。そんな彼は、自分が変わることができない苦しみを知っていたはずです。

 

「僕は僕でしかない!!」

それはひとつの祝福であると同時に、絶望でもあります。私は私から逃れられない、その地平は荒野です。それだけであれば。

 

 

質問という言葉になったことで、「僕とは何か」という問題は「彼個人の問題」から、「世界の問題」になりました。

その結果、世界は「僕でしかない僕」「俺でしかない俺」の集合体になりました。僕が僕でしかないように、目の前にある一松兄さんも、一松兄さんでしかない。そして、違う方法でその地平にたどり着いていた一松にとっても、目の前の十四松は十四松です。

 

「私は私でしかない」ことのもたらす救いと苦痛が出会った時に、そこにはただ、別個の存在である「あなたと私」があるのみになります。

 

すさまじい世界の転換です。これにたったの5分です。

 

 

ここから先、「私は私でしかない」ステージに至った十四松は、様々にそのステージの可能性と限界を見せていきます。

 

 十四松を十四松として定義づけられるのは十四松だけであり、プロ野球選手という肩書きもテレビも看護婦さんも、それを保証してはくれません。

 

博士の薬が効いたから透明になったのか、彼が元々透明になれる人間なのか、彼が言ったことからしか真偽を判定することはできません。なぜなら私たちは別々の存在だからです。

 

十四松パンとティンカーイチは、自分にとっての「夢のある場所」が、トト子ちゃんにとっての「夢のある場所」と同一ではない可能性に悩みません。

 

 

「私は私だ」の次にやってくるものは、「あなたは私ではない」です。

それは良いことでもあり悪いことでもなく、だからこそどちらの面も持ちます。トト子ちゃんはドミニカに置き去りにされて困ったことでしょう。

しかしながらこれは高依存状態にある六つ子という思想を殴り倒す武器です。十四松が六つ子に向けてこれを直接的に使ったとき、トド松のラインの時と同じように、決定的な打撃となるでしょう。

 

 

 いやはや、もう、とんでもない話です。一話すべて十四松のために使う価値があったというものです。

十四松、そして一松は、六つ子の世界を破壊する強力な武器を得ました。静かにカウントダウンは始まっています。

 

 

 

恒例の私の話をしますが、私は小さい頃から「「本当の私」というものがどこかに存在する言説」というものが嫌いでした。そのため、真面目な十四松と明るい狂人十四松、どちらが真実かという話題にも実のところ興味はありませんでした。

 

中学生の頃、そういった言説を吐きたくなる時期というものがありますが、私は周囲のそういった言葉をさびしく聞いていました。みんな「本当の私は誰にも見せられない」なんてことを平気でいいます。今はそれが自意識を太らせ始めた子の、生きるのに必要な、悪気のないささやかなかっこつけだったことはよくわかるのです。しかしそれは時に人をひどく傷つけます。

私は生身のまま私として生きているのに、みんなは「偽物の私」を被っていて、その中身を私に見せてはくれないのだ。それは私がきっとみんなに好かれていないからなのだ。すごく親しいと思っていた友人もいきなり「本当のことを言い合える友達が欲しい」とか言う。それは私がたいして大事な友人じゃないという宣告と同じじゃないか。何がいけないのだろう。私は何か悪いことをしたのだろうか。エトセトラエトセトラ……

そのすきまに、「あなたがいないと死んじゃうの」という言葉を持つ人が忍び込んでくるのは容易なことです。

 

当時の私が言語化できなかった違和感を、一松は「ジャンル」という言葉を使って説明しました。

私がどう動こうとそれは私のバラエティのうちの一つでしかない。誰かの真似をしてしまう私も、真面目な人間だと見せかけたい私も、隠しておきたい変態な私も、そのやわらかいところを誰かにわかってほしいというただの欲求を「本当の私」という言葉で飾りたくなってしまう私も、すべて私です。すべてが私という「ジャンル」に属する切り口の一つです。それでいいのです。

 

私がね、ずっと疑問で、ずっと苦しくて、成長したことでぼんやりとわかった気になって放置してきたことをね、一松くんがスパンと言ってくれました。

すごいねぇ。ありがたいねぇ。偉いねぇ。

なんだかもう視聴中の精神が六つ子というより一松くんと共に成長する会、みたいなかんじになってきています。頑張れ一松くん。

そして君に十四松という弟がいたこと、十四松に一松という兄がいたということはものすごく幸運なことだ。どうかそれだけは、いつまでも残ってくれますように。

 

 

次回はやっとイヤミが帰ってきます。予告では花畑を誰かが刈りとっているようなかんじでしたね。

さぁ楽園は終わりだ!!早いとここの地を無に帰そう!!!

 

 

 お粗末さまでした。