バックヤード

アニメ「おそ松さん」を血を流しつつ視聴する

「おそ松さん」ドラ松CD 猫と飼い主と彼の王国の物語

「勝訴」って書いた紙を掲げて走り回りたい。

 

どーもこんにちは。

今回は、「おそ松さん」お仕事体験ドラ松CDの話をしたいと思います。

ネタバレになりますので聞いてない方はぜひ買ってください。おそ松推しと一松推しなら絶対買って損したとは思いません。すごいから!ほんともうすごいんだから!

加えて、今回はもういつものしんどい私の話なんかどうでもいい、ひたすら二人についてごちゃごちゃと語りまくる回となっております。ついでに、普段ここで言わないように抑制しているキャラ観を惜しみなく出していくかんじになっていますので、「えっ今のどういうこと??最初から説明しろよ!!」というものも増えると思います。なんというか、今回は本当におそ松担がパッションで書いてるだけのおしゃべりです。

生暖かい気持ちを持って薄目で見てください。

 

 

 

いいですか……?みんな逃げた……?

 

いっやーーーーー、とんでもなかったですね。演技脚本キャストコメントジャケットに至るまで最高でしたわ!!!

 

さてまずはこのCDとアニメとの時系列的関係について考えたいと思います。

このアニメでは兄弟同士の関係性がけっこう頻繁に変動している感があるので、このおそ松一松の二人の関係が本編におけるどのへんかというのがまず気になります。「いつ彼らが占い師体験をしたのか」というよりは、「どの時間軸の関係性をひっぱってきたのか」ということです。

完全に個人的な見解ですが、①「トド松のライン」周辺、「一松事変」以前 ②本編最終回後 の二つがありえるのではないかなと思っています。とりあえずこのCDが発売された18、19話周辺の時間軸ではない。

何故そう判断したのかというと、まず①は、「ライン」の「えらいね~社会に出てもやっていけるんじゃな~い?」「あざ~っす」をやっていたころの二人の空気感がCDの内容に最も近く、加えてそれは「事変」での一松がおそ松の陰口を聞き「殺す!」と叫ぶまでの関係性だと感じたからです。②は、「①でないのならもう見当がつかないし、アニメ全体の着地点がどこになるかもう私には想像がつかないので無限の可能性がある」というぐらいの雑な理由です。

ではこの①の時期の一松が何をしていたかというのを思い出すと、たぶん六つ子の管理人の仕事から手を引き始めていた頃だったと思います。「ノーマル四男」であることが晒された頃。なんというか、今までの危険人物に見せようとするポーズを捨て始めた頃です。

というか、彼の危険さの演出は六つ子という共同体を守るため、ひいては友達を作れない自分がその中でいつまでも暮らすためのものです。その演出が通じなくなったとき、彼が選んだ生存のための手段は長男や三男など、六つ子依存の高めな兄弟につくことでした。14話もその次の15話でも、彼はだいたい長男の横に陣取って、わりとのほほんとしています。

 

で、そんな彼が占い師をして、おそ松をお客に招きます。

いやーよくしゃべることしゃべること。(ドラマCDなので当たり前なんですが)

やっぱりなんだかめちゃくちゃ仲良しオーラが出ています。

特に、彼は好意を素直にそのまま言えない男なので(逆に死ね精神)このCDの中ではしょっちゅうおそ松兄さんを罵倒しているのですが、それがなんだかすごく楽しそうに聞こえるのはたぶん私だけじゃない。

(余談ですが、親しい人と距離感を唐突に詰めすぎて、私が何をしても彼は許してくれるはずだという謎の期待と安心感を持ってしまう人を時々見ますし、一松もその典型だと思うのですが、失敗すると悲惨なことになるので気をつけた方が良いと思います)

 

第一パートで彼が主張したのは、「俺は目的のためなら手段を選ばない男だよ」ということです。それは本編中でも察することができた彼の性質であり、彼のセールスポイントでもあります。

今まで、誰にも言わずに黙って、手段を選ぶことなく捨て身で六つ子という概念を守ってきた一松は、この辺りで機能を停止しつつありました。そんな彼が、このコミュニティの主に対して伝えたかったのがこれです。「目的のためには手段を選ばないよ、犯罪まがいの手だって使うよ」「ねっ、僕って有能でしょう?」「だから褒めてください」

自分の生存のための戦略としての、六つ子の象徴たる長男への自己アピール。

 

それではそれに対しておそ松はなんと答えたのか?

それがBパートです。

おそ松は、まず「お前の他にも新しい家族がいるんだ」と告げます。びっくり。一松が必死に守ってきた世界以外にも、俺には世界があるんだよ、という返事です。しかもそのために六つ子コミュニティを捨てることができるという。

それに対しての一松の返事は、「そんなものはいいから、手段を選ばない俺が壊すから、六つ子の中に帰ろう」。

「五人の悪魔」しかり「ライン」しかり、一松の行動は一貫しています。相手が虫であろうとコケであろうと変わりません。

 

「俺は作ろうと思えばお前ら以外にもコミュニティを作れるんだよ」という宣言にも屈しない一松に、おそ松は次の段階を見せました。

それが地下帝国であり、地底人の皆様です。

私本当にびっくりしたんですけど、今までさんざん長男のことを「六つ子社会の王」「神様」「アイドル」と言ってきて、それはもちろん比喩だったんですけど、今回なんとそれにお墨付きがもらえました!!やった!!勝訴!!おそ松兄さんは王様です!!

先ほどの虫たちは家族、おそ松もその一人でしたが、今度は国民と王様です。

彼の王国は、円満な形ではありません。謀反が起こっていますし、暗殺もされそうになっています。旗は燃やされてるし矢も飛んできます。う~んどっかの兄弟っぽいなぁ。

しかし、おそ松はそれをなんとも思っていません。

自分の国が傾いでいること、自分が国民から支持されていないこと、命の危険があることを、彼は知った上で、「別に気にしな~い」と言い放ちます。

 

おそ松から一松への本当の回答は、「俺の王国はこんなかんじに危ういし、俺の命もこんなかんじに危ないけど、俺はそれでも王様をやるよ。それでもお前は、本当に俺と一緒に王国を守っていく気があるの?」

ここまで来て初めて、一松は「一人で帰る」と言いました。

 

はっきり言っておそ松兄さんの精神構造と政治力とカリスマは特異というか、理解できないというか、普通についていけるものではありません。ほとんど驚異的な美学と言って良い。一松はノーマルであり、加えて主人公にはなりたくないしなれない人間です。自分の国が崩壊していく上に嫌われているという状況で王様をやっていられるなどという「死に至るポジティブ」についていくことはできません。

 

長男の炎上する王国の姿を見た四男は、ふいっと新しい飼い主の元を去りました。そしてふらふらと家を出て猫カフェに就職してみたりしましたとさ。

 

 

なんというか、もう「お仕事体験」「占い師」っていう枠すらも捨ててこんなトンデモ話をやってくれたことに本当に感謝しています。ありがとうございます。なんてことしてくれたんだ。最高です。長男の王国は本当にあったんや…

 

加えて、フリートークが本当に良いんですよ。キャスティングに心から感謝したい。特にイベントや13話でもそうでしたが福山さんから出るシビアなキャラ観コメントが素晴らしすぎて首をぶんぶん縦に振りながら聞いてしまいました。攻撃は最大の防御…チョロ松が一番クズ……いい話に見せかけた話…悪意…うう……語録作りたい………

 

正直に白状すると、「二人組でドラマCDやります!」って言われた時には「なんでそんな血迷ったことを…」って思ったんですが本当にすみませんでした。すごく良かったです。

 

でも一松ははっきり言ってお前甘えすぎだろう!!というのが最初の感想です。何安心してるんだよ!!そんなことだからおそ松兄さんが親切に現状を説明してくれたんだぞ!!兄さんはちゃんと家賃水道光熱費も気にしてるぞ!政府を運営するっていうのはそういうことなんだ!!お前は工場の名誉班長が性に合ってるんだよ……

 

最後を説教で締めてしまって申し訳ないんですが、本当に良いCDでした。ここまで読んでくれた人は視聴済みの方が多いのだとは思いますが、もし聴いてない人が!いるのなら!ぜひ聴きましょう!おそ松兄さんが最高に可愛いから!!!!

本当に、正直1クール目の時おそ松担やってるのが割としんどくて、もう担降りしたほうが楽になれるんじゃないかレベルだったんですけれど、もう迷いません。長男サイコー。カリスマレジェンドだよ兄さん。これからも応援するからね!!

 

 

 

お粗末様でした。

「おそ松さん」21話B しんどい私はクズとして生きられるかという話

バカボンのドラマ化が本気で心配。

 

 

どうもです。

今回も21話感想いきます。

 

Aパート「麻雀」に関してはもうすごく性格そのまんまで、チョロ松は嘘をつかないとかカラ松が勝ち方にこだわってゲームに向かないとか、今回長男のモノローグがないとか、もうとにかく様々な情報に溢れていたのですが、だいたいいままでの繰り返しになってしまうのと麻雀詳しくないので人におまかせします。とりあえずめちゃめちゃ楽しかったです。

 

で、でさーーーーーーーー

問題はB「神松」なんですけれど。

以前19話感想で、チョロ松が処刑されたという話をしました。加えて20話感想で、「このアニメはチョロ松の死によって転換を始めた」というようなことも言いました。

今回、本当にそれがやってきてしまったという感じがありました。

 

Bパートの簡単なあらすじです。

・銭湯でチョロ松が働きたくない、自分もダメ人間であるということを認め宣言する。

・十四松は隣に六つ子そっくりな謎の男がいることに気づく。六つ子の話にさりげなく加わっているのだが誰も気がつかない。

・就寝直前にやっと全員が彼の存在に気づく。彼は「神松」と名乗り、自分は六つ子からこぼれ落ちた善の心が集まって生まれた、7人目の兄弟だと言う。

・神松は六つ子たちの望むことをし、就職をし両親にお金を渡す。両親は喜び、さらにはこれが普通だったのかもしれないと、今までのニート養育を省み始める。

・追い詰められた六つ子たちは神松を抹殺する計画を立てるが、その悪巧みによってこぼれ落ちた善の心で神松がパワーアップし、トト子ちゃんも奪われてしまう。

・(いろいろあって)六つ子のクソな部分が集まって生まれた「悪松」によって神松が殺される。悪松は「己のクソさに自信を持て」と言い六つ子の中へと戻る。

 

今回は、「開き直って生きるということはどういうことなのか」という話だったと思っています。

私はこのアニメが、きっと「この世に意味はないし全くもって絶望的なものだと気づく過程」と「意味はない絶望的なこの世をそれなりに生きていく方法論」

(「おそ松さん」1クールを終えてしんどい私は何を考えたかという話 - バックヤード)

をやってくれるのではないかと考えていました。

そして前者は順調に繰り広げられ、お金や女の子とか見栄とか労働とかってみんな嘘じゃんという「この世界はクソ」も「俺はクソ」も目に見える形になって現れたわけです。今回で、最後の一人だったチョロ松が「俺はクズです」と宣言して、それは完成しました。

そして彼らは、「開き直り」という力を手に入れました。

チョロ松が顕著すぎるので彼を例に挙げます。発狂した後に何があったのかは知りませんが、彼は「僕もダメ人間」と認めるに至りました。きちんと死んだわけです。

別に今まで意図的に嘘をついていたのではありません。「麻雀」でもはっきり言われた通り、彼は嘘をつけない人間です。彼は今まで、自分が働きたくないと考えているということに無自覚でした。彼はビッグバンを経て、それに気づいた。そして認めました。「僕もダメ人間」という言葉のとおり、六つ子はこれで全員が「ダメ人間」になりました。

それに対して、彼らは開き直って笑いました。いーじゃんクズで。それが俺たち六つ子なのだから。そのクズっぷりを僕は愛してる!彼らの多様性が生まれた結果の産物であるチョロ松が死に、彼らは一周して元の「六人で一つ」に戻ってきました。揃ってクズ、これでいいのだ!!

 

正直なところ私は、このアニメはここにたどり着いて終了だと思っていました。クズでいいじゃん。それはもう事実だから、それを肯定して生きていこうよ、と。めでたしめでたし、と。

 

しかし、このアニメはまだ終わりませんでした。

ずっと「これでいいのだ!」に対して、「もう、これでいいのだとは言っていられない事態に僕たちは来ているんだよ」と言い続けてきたこのアニメは、今回もちゃんとカウンターを打ってきました。

 

神松は、一応は六つ子の良心であったチョロ松が死んだことによってこの世に生まれた存在です。完璧かつ理想、加えて無欲です。彼は圧倒的な善です。彼は就職をし、お金を払い、トト子ちゃんと、アイドルと信者としてではなく恋人として付き合うことができます。

彼はその力によって、両親を「正気に戻し」ました。つまりは、両親はずっとニート6人を養うという狂った環境になごまされていたわけです。なごみの魔法は、お金という現実的な方法で解けました。

これが決定的な引き金となって六つ子は仲良くほがらかに神松抹殺を計画するわけですが、つまり、つまりですよ、彼らの開き直りというのは、いまだに彼らのぬるま湯世界を維持するための道具にとどまっているんですよ。

 

最終的に(いろいろあって)彼らは彼らのクソな部分の集合体「悪松」を呼び出して神松を殺します。呼び出したとはいえ、悪松の立場は六つ子よりも上。彼を呼び出したとき、六つ子は空っぽになって転がっています。

悪松は六つ子たちが手にした鋏や銃などとは別格の力を持っています。一瞬で神松を叩き潰せます。そして言います。「舐めるな」「己のクソさに自信を持て」

悪松は「自分がクズであることへの開き直り」が可視化できるようになったものです。それは大きな力を持っていますが、おぞましい姿をしています。それを使いこなすには、六つ子はまだまだ足りない。

 

「わかりましたよ、はいはい俺はクズですよ。いーじゃんそれで。これでいいのだ!」と言えるようになった六つ子に今回叩きつけられたのは、「全然よくねーよ」「甘いんだよ」「本当にクズとして生きるっていうのはこういうことなんだよ」「で、お前ら本当にそれでいいの?」

 

「神による地獄」とおそ松は言いました。正確には神松によって、自分たちがぬくぬく生きていられる世界が破壊されゆくことを指して地獄と言っているわけです。

彼らの開き直りは、まだ現実逃避の域を出ていません。一松の卑屈さに近いものがあります。はいはい、どうせ俺はゴミですよ、と言ってそれに安心しているレベルです。

本当の悪というのは、もっともっと危険なものなんだよ、で、お前はそれに耐えていけるの?そんなんじゃまだ足りないよ、それでもその路線でいくの?お前らの安易な開き直りなんて、なんの役にも立たないんだよ。

 

それを告げられるのって、すごく苦しいし辛い。何も考えていなかった頃から、現実を直視して苦しんで、いいよそれでもと言えば今度は楽しく暮らせるかと思ったら、「お前それでいいの?」

わかってるよそんなこと。もういいよ、私そんなに強くないもの。本当に胸を張って悪人としては生きられないもの。私にはこの辺でいいでしょう?許してよ。

 

それでも、それを言ってくれたことについて、私は当初想定していたよりもずっと、このアニメは誠実で親切だと思いました。「これでいいのだ」を掲げる赤塚イズムの世界において、それに挑む視点としてこんなに丁寧で真面目なものはないと思う。

「これでいいのだ」に「よくねーよ」とこのアニメが言っているのは、その哲学の否定ではなくて、「これでいいのだ、はそんな甘い安易なものでは断じてない!」ということだったんですよ。それってすごくまっとうで、かっこいい姿勢だと思いません?

 

あと残り3話、まだまだこんなところでは物語は着地しません。

すごいなぁ本当に……。次回も楽しみにしてます…。

 

 

 

お粗末様でした。

 

 

「おそ松さん」3.5話 しんどい女としんどい男の話

はいどーも、こんにちは。

 

今更ですが、第1松、3.5話、観ました。

そろそろ話していーい?第2松も出たしね?

ネタバレが嫌だという方は今回パスでお願いします。

 

 しかしですな……

主にBパート「童貞なヒーロー」の話をします、と言いたいところだったのですがタイトルに3.5話って入れたのが詐欺なかんじです今回。いいか!詐欺だぞ!!騙されたくなければ回れ右だ!!お互いのためによろしく!!

 

まぁ3.5話について何というか言いたいことはいろいろあって、例えば松汁ってすごく頭いいなとか、ああここで成功したからトド松はトッティになってしまったんだなとか、一松は自分の感情が僻みであることを当時既に最も自覚していたんだなとか、それこそ大量なんですが、今回は、これ今話さなかったら次いつ話す機会がわからないから思い切ってこっちにいっちゃいます。

 

 

ジェンダー系の話はやるとすぐに喧嘩を売られるのがわかっているのですが、これだけは放送が終わるまでに書いておきたかったんだ。石を投げないでくださいね。

 

私、ずっと疑問で、ずっとわからなくて、「おそ松さん」見てたら理解できるようになったことがありまして、それは

「どうしてネットの男の人たちは女の人が嫌いなんだろう」

という問いです。

 

私が2chやらニコ動やらはてなダイアリーやら、匿名でわちゃわちゃできる場に触れるようになったのはそんなに昔のことではないです。それでも、ちょっとそういう場所に足を踏み入れると、そこには女性を中傷する性的なスラング、ちょっとどころでなく下品なので絶対書きたくないんですが、そういうのにしょっちゅうぶつかります。えっ今そういう話してなくない?っていうところにも、ぽーんと投げ込まれる。

「匿名掲示板というのはある種の無礼講でありリアルのステータスに関わらず面白いことを言えば讃えられつまらなければ容赦なくけなされる場所である」というようなことを誰かの論文で読んだことがあるのですが、まぁそれは理解できるし確かに面白いところではあるとして、それ以上に、発言に女の気配がした瞬間にそういう言葉でこきおろす、っていう事態はいたるところにあります。いや確かに今の発言はつまらなかったけどそれは筋が違わないかと、そこは半年ROMれ的なアレじゃないかと。

それがわりとずっと疑問だったんですよ。何故なんだと。とりあえずそういうネット社会は私が知る中で最高レベルに女性嫌いの空間です。だって同じ発言リアルで聞かないもの。いやもちろん分母やその空間にいる人と私が出会う率の問題はわかっています。わかっているけど、それに疑問を持ちたくなるほど前述の状況に出会うことは多いんだもの。

ついでにさらに疑問を深めていたのは、その同じ空間にいる人々の多くが、完全に女の子なんていらないんだ、というスタンスをとらないということです。女の子が出てくるアニメの話をしたり、アイドルなんかもそこそこ好きだったり、街をゆく可愛い女子高生にはそれなりに興味があったり。どっちなんだ。貴方が言うそのごにょごにょと可愛い○○ちゃんは同じ種の生き物なんだぞ!!何故なんだ!!

 

それでまぁその問題について、私が六つ子見ててなんとなく理解したことは、

「男性だけのコミュニティは女性嫌いだ」

ということです。単純にもうそれだけです。

 

六つ子というのはほとんど完全なる男性社会です。双子ぐらいなら大丈夫ですが流石に同い年の成人男性六人が同じ部屋に暮らしているっていうのは普通に考えてそうそうない濃度です。男子寮とかでもない密度。

それであいつらって、やっぱり女性嫌いなんですよ。

そんなことないだろって?女の子大好きだろって?違うんですよ。彼らが好きなのはその前述したネット社会(冒頭で挙げたような場は実際の利用者割合はもう偏りがないとしても未だに男性社会です)で言えばアイドルや二次元キャラクター、例えば電車で見つけた見知らぬ可愛い女子生徒、その他彼らが好む世の中の「女の子」という何か、なんですよ。ニャーちゃんでありトト子ちゃんでありアイダとサッチンでありレンタル彼女なんですよ。

なんて言うんだろう、こういうふうに書くと世間のアイドルやニャーちゃんが何かに不足している存在のような感じになりますがそうではありません。トト子ちゃんとか最高じゃないですか。彼女は自分がきちんと好きで、自分のしたいようにするのが好きで、男の子に褒められることも怒ることもできる、NOも言えるまっとうな女の子です。

そういう女の子を、ある一定の視点から見えるものと自分に与えられるものだけをすくい取って愛し、それ以外を嫌うか「見なかった」「見えていない」ことにするようになっていく、ということです。

まぁアイドルや二次元の女の子ってそういう「すくい取って愛す」のに向いています。(二次元に至ってはなんせ主体が仮想的なので)

客体と主体、って言っちゃえば簡単なんですけど、なんとなく皮膚感にあわないのでぐちゃぐちゃと書いています。

 

主体的な女性、と書くとなんとなくこう、能動的で活発先進的な、みたいなイメージが勝手にくっついてくるような気がするので言い換えよう、よし「私が私であることを思索する存在」としての女性、をその「存在」ごと愛する、愛さなくてもこの際良いよ認める、というのは当たり前のことなんですが、この部分って習慣がないと案外忘れがちになりますし、そこそこ骨も折れるのでどんどん面倒になります。

その面倒くさい作業をしなくても良い環境、もしくはしなくても責められない環境に置かれた時に、人はその目線を隠さなくなります。「存在」の方はどんどん鬱陶しくなっていきます。

 

あのアニメにはそういう「存在」ごとの愛され方をされるように設計されている女の子が出てきません。おそらく意図的にです。

2話のカラ松がわかりやすい例です。彼はそこにただ立っているだけの女の子を見て、自分に注目している、と考えます。そしてそれは「キモい」行為だと断言されています。

トト子ちゃんはその存在きっちりと丸ごとが描かれていますが、それを六つ子たちはただ崇めます。それを受け入れて楽しむだけの度量が彼女にはあるので問題はないのですが、あれが明らかに狂っていることは、作中でも指摘されていますし、見ている視聴者にもよくわかります。

 

彼らはクズです。その前提は絶対に崩れてはならないし忘れてはならない。そして何が彼らをクズたらしめているのかを見極め損なってはならないと思っています。

私は彼らほど「的確に」ポリティカル・インコレクトな存在はないと思っていて、それを描けるという点でこのアニメはすごいと考える。

 

なんで「童貞なヒーロー」を良い機会としてこんな話をしているのかというと、あの話で「俺たちは間違ってない」→「いややっぱり間違ってるわ俺ら」を繰り返し、結論として「間違っている」に行き着いた上での、「新品」という表現にひっかかったからです。

「新品ブラザース」めちゃめちゃ笑ったんですけど、あれって童貞を新品と言い換えているわけじゃないですか。その目のつけどころが面白くって、でもそうするとすぐに考えてしまうのがその逆なんですよ。「新品」の反対、すなわち「中古」っていうと、 それこそ私が前述した数ある言いたくない下品なスラングのうちのひとつなんですよね。わかんなかったらわかんないままでいてください。制作サイドが作る際に意識したかなんてわかりませんけど、知っているんじゃないかな。

これってものすごく非対称で面白い話で、男は「童貞」であることはマイナス要素の一つで、女性は「非処女」であることがマイナス要素なんですよ。

加えて、女性のことは「中古」っていう明らかなモノになぞらえた呼び方をする割に男の「新品」の方はあんまり聞かないというかその新鮮さが一種のギャグになるレベルには見ません。(たぶん。とりあえずグーグルさんに聞くと「新品 男」と「中古 女」で全然結果が違うので面白い(全然面白くないけど))

 これって、すごく興味深いことだと思いません?

 

性的な非対称っていうのはこのアニメのいろんなところにあります。

最近の「おそ松さん」はなごむのをやめたため、「男はこういうところがダメだ」に加えて、「まぁとは言っても女もこういうふうにダメだよね」もやり始めているのですが(松野松楠とか本当にダメだあれは)それもやっぱりダメさのポイントが違うんですよ。

そのどちらが幸福かなんてことを私は問いたくはありません。ただ、別ベクトルにダメであることは確かであって、事実としてここにある。ひどいとか、見たくないとか、あるべきでないとか、そういうの全部うっちゃって、ある。

 

それらがめちゃくちゃ面白くて、全然面白くないんですよ。笑ってる場合じゃないんですよ。実際のところ。

でもお笑いって、本来そういうものじゃないですか。それがギャグのできることじゃないですか。事実をなごませて見せてくれることがエンターテイメントの重要な要素です。私たちは搾取された女の子達の肉を食べてるわけですよ。パンに挟んでね。

 

いやぁ、謎が解けましたわ。でも解けたからって何が変わるわけでもないんです。なんというか、「分かったからって何が変わるわけじゃない」っていうのは自戒として持っていないといけない。そうじゃないとチョロ松のようにイヤミ先生にボコられるわけです。

でもきっと、わかんなかった時よりだいぶマシになる可能性が出てくるんですよね。その気になれば。もしくは何らかの馬鹿馬鹿しい事態を避けられる可能性も生まれるんですよ。

少なくとも私はそのへんに自分の中で自分なりの決着がついて良かったと思っています。とりあえず、あの日のえええ?なんでこんなことを目にしなければならないんだ?という変な傷つきの分は取り返した気がします。

 

そんなわけで、個人的な気づきの発表会をして今回は終わりです。次回を震えながら待ちます。

 

 

 

お粗末さまでした。

 

 

「おそ松さん」20話 しんどい私の「なごみ」の終焉

あの肉はきっと「おそ松さん」によって死んだ私たちの肉。

 

はいどうも、こんにちは。

毎度ありがとうございます。今回も20話感想いってみたいと思います!!

いつもの自分語りに加え、今回は話の解釈や感想というよりもアニメ全体の構造の話をしたいです。わりかしその辺の方針はゆるいのがこのブログです。気楽にいきます。

 

今回は20話、特にアバンとCパート「イヤミ先生」の話になります。

私は視聴後にこんなツイートをしました。

 

 

何が言いたいのかというと、今回がとてつもなくわかりやすく「これまでのあらすじ」「要約」「お前らはなぜだめなのか説明しましょう」「この世はどこがだめなのか説明しましょう」だったということです。

 もう噛み砕く必要もないんではないかい。だってわかりやすすぎるじゃん。裏を読まなくても汲み取らなくても心が痛いじゃない。ずったずたじゃない。お腹も痛いじゃない。

私はずっと、「まぁぱっと見はギャグかもしれないけどしんどい私にはしんどいように見える!しんどい!」をやってきたし、「しんどくない人のほうが多いのか、私はしんどいけどね。まぁきっとそれでいいんだよ」と言ってきたんですが、

「ライジング」もそうなのですが、最近正直なところ「いや、これみんなしんどいだろ」「ちょっと調子に乗っていい気がするんだけど、いやこれしんどいだろ、というかしんどくさせる気満々だろ」と思ってしまうんですよ。明確に矛先が視聴者に向いてきているんですよ。

 

さて、そんな今回の冒頭に、何が起こったかを思い出してみます。

ハタ坊の追放です。

ミスターフラッグの部下たちは、「今まで何故気付かなかったのだろう」と言いながら、旗を抜き捨て、ハタ坊を追い出しました。

上の台詞からわかるとおり、ハタ坊の商売はあの世界においても「おかしい」「狂った」ものでした。(ギャグ世界線というのは「視聴者の世界の普通」と「作品世界の普通」を常に問い続けなければなりません)

そして彼らはそれに気がつかなかった。狂った世界に従属していたわけです。

 

1クールめに、同じ構造を持つ世界線がありました。

8話A「なごみのおそ松」です。

 

私は何かとなごみを例に引き、比喩として使い、何かあればなごみを参照し、なごみサイコー!という一種の「なごみ信者」なのですが、最近、このアニメの構造自体が「なごみ」だったのではないかと考え始めました。

 

「なごみ」の世界というのは、殺人が起きた時でもその凄惨さから目を背けさせます。加えてそれを一種のエンターテイメントにします。なごんだ彼らは死体の山の前で記念撮影をし、パエリアを食べます。楽しいね。

明らかに狂った世界です。その証拠に、序盤はトド松刑事がずっとその状況に異議を唱え続けています。しかしながら、気づけば彼もなごみ、死体の山を見ても何も考えなくなります。人生の教訓なんか得ちゃったりして、おおむね幸福です。そして不謹慎です。それを見ている私たち視聴者だけが、なごまずに死体の山を見ているわけです。

 

このアニメ自体が、「なごみ」の構造をしていたとしたら、つまりこういうことになります。

「元々このアニメは殺意に満ちた残酷さを含んでいた、しかし我々はそれを目の前にしつつも「なごみ」、それらの毒から目を背けさせられていた、もしくはその毒をエンターテイメントとして楽しませられていた」

元々このアニメは死体の山。ただ視聴者に対して、それが巧妙に隠され続けていただけだったのではないか。

 

私がこのアニメからすくいとって、毎回ここで叫んでいたしんどさは、そりゃあもういろんな種類がありましたが、本質的には一つに収束します。

「私たちはもう目を背けている場合ではない。笑っている場合ではない」

それはこのアニメの序盤からずっと巧妙に主張されていました。

赤塚先生が死んだ、楽園は失われた、そんな世界でモラトリアムに浸ってニートをしている彼らを、私たちはクズだと認識していました。つまり「目を背けること」の害悪をきちんと認識していたわけです。そして彼らに限らず、私たちにも同じ理屈が適用されるはずでした。

しかし、私たちはなごんだ。このアニメは元々死体の山、殺人現場でした。そこで私たちは楽しんでいたわけです。

 

 

そしてその「なごみ」の魔法は、あと残すところ4話となった今、そろそろ解け始めているのではないか。

 

理由としては、前回チョロ松のお仕置き回を迎えたことが大きかったのではないかと考えています。

私の見立てではあの六つ子を共同体として成り立たせるのに大きな役割を果たしていたのはチョロ松と一松でした。彼らが機能を失えば、六つ子が崩壊に向かって一気に舵を切るのは自明です。

チョロ松が「チョロ松ライジング」によって処刑された今、彼らの居心地のよい地獄は大きく変質するでしょう。もしくは、「それでも変質しない」ことの残酷さを見せ付けられるというオチもありうるかもしれません。どちらにしろ大きなきっかけでした。

 

それに伴って、この物語自体からも、「なごみ」の力が消え始めました。

その証拠として、ハタ坊は追放され、イヤミは視聴者に刺さりまくるナイフをオブラートに包まずに投げてきた。あの世界に赤塚先生が存在しないことを改めて見せてきた。

ハタ坊の料理していた肉(ちなみにこのアニメは全編通して魚を推してきていますがここでほとんど初めて肉が出ます)がもしも彼の部下のものだったとしたら、あの時、画面には大量殺人が映っていたわけです。とんでもないことです。でもそれは今までだってずっとそうだった。

私たちが食べさせられていたのは、巧妙に料理されてわからなくなった、なごまされていた、殺人だったのです。

 

 

 「ここはすごく痛いし辛いし暗いところなんだよ」という認識の元で、「そんなもの見ないでいようよ、狂っていようよ、楽しんでいようよ」ということをやっているのが「なごみ」ですが、それのどちらが正しいか間違っているか、良いのか悪いのか、というのは一概には言えません。

ただ、自分はどっちを選ぶのか、という選択の権利を得るためには、「ここは痛いし辛い」という現実を一度見なくてはなりません。

その上に、じゃあどう生きるか、なごむのかなごまないのか、という選択があります。

そのために、一旦ここを殺人現場に戻す必要がありました。なるべく沢山の人がそれに気づけるように。今までナイフの存在に気づいていなかった人に突き刺さるように。

 

今後どういう展開になるかは分かりません。それぞれの死を迎え「なごんでる場合じゃねぇ!」と気づいた彼らが最終的にどういう方針を勝ち得るのかは、もう見守るしかありません。とりあえず誰から見ても明らかなバッドエンドはないかなと思っていますが(ヒント:全力バタンキュー大好き人間)とにかくついていこうと思います。

加えて、8話「なごみ」においてなごんでいなかった人物は視聴者でしたが、このアニメという大きな「なごみ」においてなごんでいないポジションにあたるのは制作サイドの皆さんです。偉大だ。ありがとうございます。あと4話、楽しみにしてます。

 

 

お粗末様でした。

 

「おそ松さん」19話 チョロ松ライジング感想おまけ 自意識の話

どうも、こんにちは。

前回話したりなかったので自意識ライジングの話続行します。

 

はぁ~なんでこんなに頭いいものが作れるんだろう……ほんと感動……

 

ついでなので一言、最近ここでもついったーでもしょっちゅう「これはメタファだから」とか強調して言っているんですが、なぜかというと最近の回について話すと「死んだ」とか「殺した」とか物騒なワードをどうしても使ってしまうからです。仕方ないんだ。

別に誰も死んでないから!大丈夫だから!ついでに私は青色主線等の世界観考察はしないから!ということです。そんなのわかりきってるよ!って人は聞き流してください。チキンなので保険をかけておきたいんです。

 

順にやっていきます。今回はゆるゆるいきます。

 

松野おそ松の自意識

・指先に乗るほど小さい。凹んだような跡あり。材質はよくわからないけどくすんだ赤でキラキラはしていない。ぼんやりと全体が赤く光っている。

「見た目は酷いけど、でも扱いやすい」

 

私は「プライド」の高低と「自己肯定感」の有無は必ずしも比例しないと思っています。後で扱いますが例えば一松はプライドは高いですが自己肯定感は皆無です。それとは逆に、おそ松はプライドはありませんが、自己肯定感はしっかりと持っています。

自分の夢を「カリスマ、レジェンド、人間国宝」と語り、躊躇なくナンパができる彼は、別に自分を「社会的に、他と比較して」すごい存在だと考えているわけではありません。ただ、彼にはそれが叶わなかった際、失敗した際に傷つくプライドが存在しないだけです。

普通、人がビッグマウスを叩けないのは、「実現する自信がない」からだけなく、「失敗した際に自分が傷つくのを見越して恐怖を感じる」からです。おそ松にはその恐怖がありません。

彼は自分を社会的に、他と比較して偉大な存在であるとはさほど思っていませんが、自分自身を自分自身なりにすごい奴である、主人公であるとは思っています。

 

彼はおそらく、元々もう少し大きなサイズの自意識の球体を持っていて、それが様々に傷ついたり、縮んだりして今のサイズに落ち着いたのではないかと思います。

18話において、「おそ松は「くん」後半で一度死んでいる」という話をしました。そして彼は死んだことで自由になりました。彼はもう、自分がどう見られているか、どう見られたいかということに頓着しません。そういった「自意識」が小さい上に、彼はその球体の存在を認知し、完全にコントロールしています。

 

前回、チョロ松について、「思ったことそのまま、生身で生きている」「過剰な自意識という鎧を着込んでいる」と表現しました。ちょっと矛盾に見えるね、言葉が足りませんでした。すみません。別にミスではありません。

彼は「過剰な自意識という鎧を早々に着込み、それを分厚くしていったせいで、その中身はいつまでも柔らかなままでいられた」ということです。うん、すっきり。

 おそ松はこの鎧がないに等しい。その代わりに彼は傷つくたびに自分自身を硬く、修正していきました。見た目と言動は小学生ですが、実際のところは生まれたままなんかでは全然ない。

 

 そして彼はきちんとした言語化能力ときちんとした状況判断力と分析力、きちんとした「なぜ自分は自分をコントロール下におけたか」についての自覚があるので、チョロ松を処刑することができました。

責任感を持って部下をきちんと始末してくれる、よくできた上司です。最高だな。

 

 

松野カラ松の自意識

・片方の手のひらにちょうど収まるサイズ。水晶玉のように曇りなく透き通っていてつるつる、青く光っている。

それを片手に持ってフリーハグ

 

こんな自意識を持っている人間がナルシストであるというのが本当に最高だと思うのですが、彼はプライドの高さはそこそこ、むしろ低めというレベルで、しかもサイズ的に「どう見られているか、どう見られたいか」へも、おそ松ほどではないにしろ案外無頓着です。

カラ松は、自分の自意識の形についてきちんと把握しています。きちんと把握した上で、「すごい!これ綺麗!大好き!」とやっているわけです。彼は「私はこういうのが良いと思ってるんだけど皆はそうは思わないかもな、これ素敵でしょって言ってみんなから否定されたらどうしよう怖い、でも見てもらえないのは寂しいしなぁ、あーーーどうしよう、わーんつらいよ~」しません(一松はします)。

彼がこのシーンでただ逆ナン待ちをしているのではなく、チョロ松が言及したフリーハグを行っているのはおそらくその差を示しているのでしょうが、彼のフリーハグには、それをやることでどう思われたいか、という考えが全くありません。芸術家である彼にとって、美しいものを愛でるのは当然のことで、人にそれを展示して分け与えようと考えることもまた当然のことです。

そしてそれによって人が幸せになるだろうということも当然の考えです。しかしながら彼はその「人がどう思うか」についてはそれほど重要視していないので、見られなかったからといって悲しみこそすれ、さほど傷つきはしません。ガラスは割れやすいですが傷つかないのです。彼が傷つくのは「痛い」などと直接言及された時であって、そこまでいくと自意識に関する問題とはカテゴリが違う問題です。

 

もう才能と言う他ありませんが、彼は一点の曇りなく美しい自分と向き合い続けてきた芸術家です。もし彼が何らかの表現手段をきちんと手に入れたなら(今のとこ歌か舞台が向いているとは思いますが)相応の評価を受けられる場所が見つけられるのではないかなと思います。

 

 

松野一松の自意識

・両手で抱えるサイズ。黒くくすんでいる。光はない。少しゆがんでいるのか凹んでいるのか、毛が生えているのか、とりあえず完全な球体ではない。傷のような模様のような、線が三本。

それを彼は周囲に気を配りながら近所の公園に埋め、土をかけて踏みしめる。

 

私の一松事変あたりまでの一松への評価は「プライドは高いが自己肯定感が低く、自分を見つめすぎたが故に、卑屈になることでそれに蓋をしている」でしたが、だいたい間違っていなかった気がします。

ひとつ上の兄弟チョロ松が外向きの思考回路を持つ人間であるのと対照的に、彼は内向きの思考回路を持ちます。彼は内省し、自分の良いところ悪いところ、それを踏まえてどう振る舞うべきか、をきちんと考えています。

 

18話において、チョロ松は「認められたい」、一松は「褒められたい」と叫びました。この二つの差がそのまま二人の思考法の差です。

「認められる」は「認めさせる」と言い換えることができます。チョロ松は相手への働きかけによって相手に願った評価をさせることを考えます。

対して、「褒められる」ことを求める一松は、何かしら自分が変化したり努力したりしたことによって、結果的に願った評価をもらうことを考えます。

 

しかし彼はきちんと考えたが故に、彼は自分に外から与えられる評価についても気にせざるを得ません。そこがカラ松との違いです。一松は周囲からの目線に拘泥します。「私はこういうのが良いと思ってるんだけど皆はそうは思わないかもな、これ素敵でしょって言ってみんなから否定されたらどうしよう怖い、でも見てもらえないのは寂しいしなぁ、でも寂しい!って言うのも恥ずかしい!あーーーどうしよう、わーんつらいよ~」します(私もします)。そして彼はそんなふうにぐるぐる迷い、しかもそれを表現することもできない自分を嫌っています。

結果彼は、「どうでもいい」というポーズ(本当は全然どうでもよくないんです)でその自意識をひた隠しにします。注目されたくない彼の自意識は光りもしません。そこそこサイズ感のある球体を土に埋め、誰にも、自分にすら見えない場所に彼は自分の自意識を葬ります。

 

元々真面目な彼は、真面目に自分と向き合った結果、自分嫌いになりましたが、プライドはあるので評価されないことにも傷つく面倒くさい奴です。

彼が自意識を埋めたのは近所の公園。その気になればすぐに掘り出せるし、すぐに見つかるような場所です。

「どうでもいい」と言いつつ、その実全然どうでもよくなく、ちょっぴり誰かに、できれば自分が言わなくても、それに気づいてもらいたい気持ちもなくはない一松くん。

本当に面倒くさい上にここまでの文が全部私にブーメランだよ。

 

 

松野十四松の自意識

・宇宙空間に浮かぶシャボン玉。中に十四松自身が浮いている。

屋根の上でそれを見上げる十四松。

 

彼はもう既に「概念」の自己認識関連で既にごちゃごちゃ語ったので話すことはそんなにないです。

彼も自意識の存在の形は把握済みです。「自己認識や自我はどうでもいいこと、「僕が十四松だ」と言うことが十四松を規定する」という境地にいる彼の自意識はとても曖昧で、不定形で、消えてしまいそうなぐらいの不確かさです。

加えてチョロ松と違い彼は球体の存在を把握はしているものの、チョロ松と同じように自分の手の届く範囲にはありません。一松は近所の公園というお手軽なところに自意識を置いて手放しましたが、十四松の自意識はそんな生ぬるい距離感にはありません。宇宙空間です。

 

彼はもう自分がどう見えるかにこだわる気も、自分をどう見せるかということを考えるのもやめました。たぶん昔はあったんじゃないかな、高校入るころかな、自分をどう見せるかをひたすらに考えた日々が。

もしかしたら、彼はとっくの昔に静かなビッグバンを迎えていたのかもしれません。誰にも知られずに、ひっそりと。

その結果があの十四松、明るい狂人、巨大化もするし、触手の真似もしてみせる十四松であったのだとしたら。

 

そんな彼が長い年月をかけてたどり着いたのが「僕が十四松」であり、宇宙空間であったのだとしたら、それなら私はもうその解決法の善悪正解不正解を問う気はありません。それは確実に自意識の奴隷から抜け出す一つの方法です。

彼の自意識が彼の手元に戻ってくる日が来るのか、そしてそれは彼にとって幸せを意味するのか、それは今はとりあえず置いておきましょう。

おめでとう、お疲れ様、十四松。

 

 

松野トド松の自意識

・サッカーボールより一回り大きいぐらいのサイズ。ミラーボールのように輝いている上に、ピンク色に光を放っている。

「痛いほどキラッキラしてるけど、こうして自分の手元にあるから!扱えてるから!」

「迷惑かけたとしても、家族か友達くらい」

 

自分で説明してくれているので改めて話すことがない。優秀。末っ子の彼はプライドも高いし、目立ちたがりです。ついでにその自分の自己主張、勝ち戦しかしないプライドの高さには多少害がある、時に迷惑であることをも自覚しています。しかし、彼はそこも含めて、自分を愛することができます。今はね。

彼もおそ松と同じく、ダメージを負い、また人にダメージを与え、そういった中できちんと自分を把握してきたタイプでしょう。スタバァの一件はそこそこでかいダメージだったのだろうと思いますが、彼はもうそれの処理を終えて笑うことができます。

 

また、ある意味では彼の自意識はカラ松の自意識のレプリカであるとも言えるかもしれません。輝いていて、美しい自分の自意識を、トド松は愛していますし、誰かに見てもらいたいとも考えています。

とはいえ、その究極形であるカラ松になるのには、ある種の才能が必要です。はっきり言ってあそこまでいくのは無理です。というより別にああなるべきではない。トド松は「どう見られるか、どう見せたいか」を気にすることを捨て去ることはできません。そのため彼は自分を演出する努力をします。つまりはあざとい、お洒落で甘え上手で嘘が上手な青年ができあがります。

 

彼もまた、言語化能力に長けていますし、また自意識の肥大化という点ではチョロ松の状況も自分の問題と同一のものとして理解できたはずです。だからこそ彼は苛立った。迷惑な自意識でも、それをコントロールすれば、ついでにそれも自分として愛すことができれば、それなりに生きていけるよ、ということをチョロ松に教えるために、彼はまず自分の自意識と闘う次元に至れよと言いました。

 

 彼はきちんと大人ですし、状況さえ変わればなんとでもなりそうです。本当に強い子に育ったな君は。ありがとうチョロ松兄さんに忠告してくれて。お疲れ様でした。

 

 

改めてすげーアニメだなこれ。図解よくわかる「意識高い系」と「意識高い系批判という意識高い系の亜種」と「ナルシスト」と「プライドの塊」と「自己愛」の違い。頭がいい。血反吐吐きそう。楽しい。制作者の皆様本当にありがとうございます。これからもついていきますよろしく。

 

 

お粗末さまでした。

 

「おそ松さん」19話 しんどい私とチョロ松の処刑についての話

「プライドの亜種」を名言として額に入れて飾りたい。

 

どうも、こんにちは。19話感想です。

リアタイ勢が軒並み死んでいるのを眺めてからの視聴だったんですが,

 

とんでもねーーーーー!!!!!!!

 

こりゃみんな死ぬわな!なんか普段「六つ子面白い!だいすき!」って言ってるみなさんも死んでるし!そりゃそうだなんだこれ!

というわけで今回は「チョロ松ライジング」について語ります!語らせてくれ!

 

このアニメは自己責任アニメですが、私はそこからあーこいつらこういうふうにダメなんだな、精神構造欠陥ぼろっぼろの奴らがちょっとずつ何らかのブレイクスルーを経て生きていく話なんだなと思いながら、そう見えるところをすくってきたわけです。ぶっちゃけそれに関しては今までアニメからはっきりとそう言われたことはなかった。それはきちんと自覚してます。私はそう見えてしまったというところから考えるのを始めて、なるべくそこに収束するように情報を恣意的に拾ってきた。全ての読解は恣意的です。もちろんそれがこのアニメをギャグとして日常系ほのぼのとしてもしくはそれ以外として楽しんでいる人も同様に恣意的であることは言うまでもありません。

 

でもさぁ、今回だけは許してくれない?やっぱこのアニメそういう話してるよね?

 

恒例の簡単なあらすじまとめです。

・おそ松とトド松がだらだらしているところへ、チョロ松がダンボールに入れたアイドルグッズを持ってやってきて、アイドルオタクをやめると言う。

・彼は真面目に就活をし、一人暮らしを目標にすると宣言する。

・トド松はそれに対して、いちいち宣言しなくていいから勝手にやれ、宣言したことで満足しているのではないかと言う。

・その後もフリーハグ、自分探しの旅、語学留学などを並べたチョロ松に対し、二人はそれを意識高い系どころではない、「自意識ライジング」だと言い、チョロ松に窓の外に浮く巨大な光る緑色の球体を示し、あれがお前の自意識だと告げる。

・おそ松は小さい球体、トド松はミラーボールのような球体を自分の自意識だと見せ、自分の手に負えない自意識は有害だとチョロ松に忠告する。

・どうしたら良いのかと問うチョロ松を、二人は連れ出しナンパをしてこいと言う。

・おそ松が指す様々なタイプの女性に対し、ナンパをできるわけがない理由をまくし立てるチョロ松の頭上で、彼の球体は膨れ上がる。「自意識ビッグバン」だとおそ松とトド松は逃げる。

・自意識ビッグバンを見つめつづけたチョロ松が、その後、スタバァにてダンボールで作ったPCやタブレットを手に仕事をしているのを見つめる二人。

 

今までで一番まとめづらかった…

 

お分かりのとおり、今回は「問題提起」「可視化」という点において今までこのアニメがやってきたことがぎゅっと詰まっている、良い例に溢れたパートだったと思います。

私はレンタル彼女の時に、「このアニメは問題がどこにあるのか、そしてそれを問題だと思わせるように描くのがうまい」というようなことを語ったんですが、今回は本当にそれがきっちり発揮されています。

常識人でツッコミ役でドルヲタ、そんなチョロ松が、何において間違っているのか、クズなのか、それを今回のアニメは、「ドルヲタであること、女の子がからむとポンコツになることが真の彼の問題なのではない、それ以上の問題が彼にはある」とはっきり言いました。

彼の自意識は肥大化し、有害です。

加えて彼は、自分の自意識の形、状態、場所、そもそも存在を把握していません。

 

 

 さて、それでは松野チョロ松とはいったいどういう男なのか。

私がこのブログで彼について過去に語ったのは、

・彼はおそ松を長男として担ぎ責任と意思決定を担わせ、以下の兄弟たちを平等に保つことで六つ子という共同体を守りそのマネージャーとして自分の居場所を作っている

・自分を六つ子の中の「正義」だと認識している。

・作品中において比較的「信頼の置ける語り手」。モノローグが口からそのまま出ている。

というあたりだったと思います。そういえば彼について本腰入れて語ったことなかったんではないか、ぃやったー!チョロ松くんについて語るぞ!!

一番目は前にそれなりに説明したので省きます。

今回問題なのは、二番目と三番目です。

 

彼は基本的に、思考のパターンが外向きです。

 

男だけの六つ子という環境下で、彼にあっただろう本来の(ライジングする以前の)そこそこの勝気さとそこそこのプライドを持って生きるのはかなり大変なことです。私がチョロ松を見たときにぼんやりと常に感じていたのは「こいつめっちゃ次男!!っていう性格してるなァ」ということでした。

弟持ちの長女かつ幼馴染のほとんどが二人以上の兄弟持ち(東京来て一人っ子という存在にびっくりししました。地方差についてとやかく言う気はないけど少なくとも私の学生時代において一人っ子はかなりマイノリティーです)という私は思うのですが、多人数の兄弟というのは規模は違えど競争がおきます。大抵次男が幾分かよく言えば活発、悪く言えば攻撃的に育つというのはままあることです(異論は認めます)。

彼は六つ子の真ん中として生まれ、生きていく中で他の兄弟より抜きん出るためにどうすれば良いかという生存競争に適応しました。結果、彼は強気に出たり、相手を言い負かしたりする機能に特化しました。自分を弁護し、正しかろうが正しくなかろうが自分の意見を通す。彼は外部から認識されるための手段と技術を駆使することにかけては一流です。

「おそ松くん」時代はそれだけでした。おそ松の悪さの片棒を担ぐ、六つ子の中では目立つ方の存在。暴君。それまでは良かった。まぁそのぐらいの次男を私は何人も知っています。

問題は、彼の場合、そこに「僕が正しい」「僕が常識人でいなければ」というのが絡んできたということです。

 

おそらくこの部分は、「おそ松くん」後、つまり他の兄弟がそれぞれの個性を獲得した後に、連鎖的に彼についたものだと私は踏んでいます。

なぜなら、彼が「常識人」「一番まとも」でなくてはいけなくなったのは、他の兄弟が「まとも」ではなくなったから、だからです。

ある兄弟はナルシストをこじらせ、ある兄弟は暗く無口になり、ある兄弟は奇行に走っています。皆元々どちらかといえば真面目で気弱だった奴らです。次々とバランスを欠いていく奴らを見ているチョロ松に一つの呪いがかかります。

「ぼくはまともでいないと」

相手のマウントを取るプロフェッショナルに、この一種の正義感がプラスされるというのは、有害以外の何者でもありません。

結果彼は、

「自分の承認欲求を満たすために相手のマウントを取る。そのための理屈はめちゃくちゃでも、彼にはその理屈が「正解」として認識される。結果、そのための手段も正当化される。従ってその行為が自分のためのものであることを自覚していない」

という歪な構造を持つようになりました。

 

彼は外向きの力だけにステータスを極振りし、そこに「正義」という思考停止の呪いがかけられたために、自分の内側を向く機会がまったくありませんでした。内省、というものと彼の人生は無縁です。内省だけで生きる四男とは完全に対照的です。

 

彼は「信頼のおける語り手」です。彼は考えたことをそのまま話しますし、そのまま表情に出します。

エスパーニャンコ」において、「じゃあ、これが一松の本当の気持ち…」と言う彼の声は少しはずんでいるように聞こえます。彼は本当の気持ちが晒されることに対して何の拒絶も示しません。彼にとって、本当の気持ちがわかることイコール良い事です。それによって傷つく人がいるということを彼は理解できません。

なぜ彼がそういうふうなのかといえば、彼は自分の考えたことが「正しい」「まとも」であると考えているため、隠したり偽ったりする必要がないからです。

加えて、反論を受けた場合でも、彼は自らの技術によってその反論をたたきつぶす、もしくは中和することが可能なため、決定的な挫折や、「本当の気持ち」によって徹底的に傷ついた経験を味わったことがないからです。

 

本来、「思ったことをそのまま言うと角が立つかな」「ここでそれは言うべきじゃないな」「彼はきっと黙ってて欲しいと思うだろうな」というようなものは、経験則で身につくはずなんです。誰かを傷つけた経験、誰かから傷つけられた経験、それらを反省して、上手い下手はともかく何かしら掴んで人は大人になります。

つまり、チョロ松はあの6人の中でも、決定的に子どもなんです。

普通は、人は思ったことそのまま、嘘もつかずに生身のままで、なんて生きていけないんですよ。現実に「信頼できる語り手」なんてものは存在しません。いや、しないことがそもそも前提なんです。誰も完全に信頼がおけないことを前提に、それなりのところを模索していくのが大人というものです。

 

彼は自分の中身を全く把握も理解もしていません。そのため彼の自意識は彼の手の届く範囲にはありません。

「プライドの亜種」本当に名言です。プライドは自己認識の高さからくるものです。チョロ松は自己認識の時点から怪しい。彼の中身はほとんど手つかずの荒野、外向けの思考ばかりがどんどんと肥大化していきます。

それが臨界点を超えた時、彼は本当に外側だけの生き物と化しました。

巨大化、触手、これはカラ松の花と同じ暴走のモチーフです。自意識が手元になかったせいで何の対処もできず、チョロ松はその暴走を許しました。

 

 

この死刑宣告を言い渡し処刑を行うのがおそ松とトド松であるというのが本当に憎い。彼らはこれらをきちんと把握し、人に説明できるステージにあります。

元々彼らは最も信頼のおけない語り手、つまりは最もコントロールされた対外装備を持つ二人です。冒頭での「まじ信頼できるわ~すき~」という明らかに真意の伴っていない会話を楽しめることからもよくわかります。それは彼らの自意識のあり方そのものです。彼らはその点においてきちんと大人です。おそらく挫折と傷をきちんと受けて人に与えて生きてきた結果です。

後のメンバーもそれぞれの形でそれを把握してはいますが、彼らが言語化できるかといえばおそらく無理でしょう。

 この二人によって、チョロ松は何がダメなのかという指摘、更にそのダメさを完全に自覚するための機会までお膳立てされました。

「はやく死んでこいよ」

その死がこのアニメにおいて何を意味するかは明白です。このパートのタイトルは「チョロ松ライジング」。名前入りの回は各人のお仕置き回です。彼はここできちんと死んで、もう一度蘇らなくてはならなかった。もしくは死体として死体らしいあり方を模索しなければならなかった。そのために絞首台は用意された。

 

しかし、彼がうまく死ねたのかというと、疑問が残ります。

彼が至ったのは、ぶっちゃけ使いたくない表現ではありますが、発狂です。彼はダンボールで作ったマシンを前に、スーツを着、カフェでノマドをし、いもしない相手と電話をします。予告では「兄弟に否定されてばっかだから」キャラチェンジしました。今の彼には「なんか否定されてる」という認識しかありません。彼は外身だけの虚です。

彼はそもそも、過剰な自意識、過剰な対外装備を着込んでいました。そういう人間を、その鎧ごときちんと綺麗に折ろうというのはかなり難しい。

やっぱり彼は綺麗に死ねなかったのではないかと考えています。例えばバイトを経て、自分のキラッキラしている自意識を受け入れたトド松のように、それなりに愛していくとか、そういうところまで至れなかった。かといって十四松のように痛みに浸って泣き喚くこともできなかった。

ビッグバンを起こした自分の自意識に、指摘されて初めてやってみた内省によって飲み込まれた結果、彼は発狂しました。彼は綺麗に死ねなかった。やり方が間違っていたわけではありません。ただ彼の自意識ライジングが治療の難しいレベルまで来ていたというだけです。

 

次回の彼がたいへん気になります。

 

私はずっと「彼は処刑されるべき」「どうやって殺そう」「はやく楽にしてあげてください」って考えていましたがそれがきちんと行われてしまってもうどうしたらいいかわからないんだ。どうしよう。

あと今回の話は全ての肥大化した自意識を持つ皆さんへも同時に行われた処刑でしたね。私は綺麗に死ねたかな。

あとそれぞれの自意識の形の話をもっとしたいんですけど長すぎるので一旦切ります。たぶん今回の話はまた書きます。今回情報量が多すぎ…たのしい…

 

 

お粗末さまでした。

しんどい女の子と「じょし松さん」の話

昔々あるところに、女の子がいました。

 

彼女はスポーツが好きで、木登りが好きで、スカートが嫌いでした。

ズボンにショートカットで、男の子と遊んでいた女の子は、いつも男の子と間違われていました。

彼女は男の子が好きでした。

それは早いうちから、単純な、遊び相手であり、なりたい自分としての「好き」から、恋や愛というラベルのついた「好き」へと変わりました。

なぜなら、女の子は小さい頃から絵本が好きで、読書が好きで、お姫様と王子様のお話をたくさん知っていたからです。そこにはいつだって夢と希望にあふれた恋愛がありました。

幸いなことに、女の子の周りには男の子がたくさんいました。女の子の世界はおおむね順調でした。彼女は全ての人を愛していれば、全ての人に愛してもらえると信じていました。それが良い子の条件というものでした。そしてその通りに世界は動いていました。

 

しかし、しばらくすると、女の子はあることに気がつきました。

ある程度の、好きな人間と嫌いな人間がいたほうが、味方がたくさんできるということ。全ての人を愛するということは、誰も愛していないのと同じであるということ。

皆が気が付いていくそのことに、女の子は出遅れました。彼女の世界はあまりにもうまくいっていたからです。

 

お姫様と王子様の世界を失った女の子に、もう一度、お姫様と王子様の世界を見せてくれる、もうひとりの女の子が現れました。女の子は喜んでその手を取りました。彼女はその美しい世界を守るためにいろいろなものを捨てました。

放課後の学校の屋上で、隣に座った、王子様でもありお姫様でもあるその子が、クラスのみんなや先生の名前を並べて、みんな死んでしまえ死んでしまえと呟き続けるのを黙って聞きながら、女の子は自分の美しい世界が少しずつ死んでいくのを感じていました。

 

美しい世界がなくなったその後も、女の子は、全ての人を愛することをやめませんでした。それが良い子の条件だったからです。彼女は良い子であることからは逃れられませんでした。女の子はふわふわと生きることに決めました。

同じような女の子と友人になりました。大きくなってから覚えたSNSという場所に行くと、そういった女の子は思っていたよりもたくさんいました。良いタイミングで絵本の世界から出られなかった女の子たち。出口でつまづいてしまった女の子たち。絵本に裏切られた女の子たち。

そんな女の子たちは、時々、つまづかなかった女の子たちのことを見ては、自分を蔑むのですが、同じくらい、つまづかなかった女の子たちを馬鹿にすることもあります。何も考えていない馬鹿な女の子たちだと。自分に嘘をついている卑怯な女の子たちだと。世界の嘘に気づいていない愚かな女の子たちだと。

 

「それでもね」

 

「じょし松さん」を見ながら、女の子はつぶやきました。

 

「わたし、本当はあの子達がうらやましいの」

 

「わたし、あんなふうになりたかったの。自分の好きな服を着て、男の子にモテたいと思ったらそんなふうにして。どっちにしろ自分の好きなように選んで。うまくいかないときは愚痴を言って。時には喧嘩をして、そのあとは私たちは親友だって言い合って、泣いて。わたしもそんなふうに生きたかったの。ほどよく諦めて、ほどよく諦めないで。だってわたしずっと、何も持ってないのに、何か持ってるふりをしてるもの。あの子たちは六つ子と違って作中ではクズだって言われてないはずよ。だってクズじゃないもの。きっとあの子たちは女の子である自分がきっと好きよ。わたしと違って」

 

「わたし、あんなふうにやり直したいの」

 

「それは無理だよ」

 

黙って聞いていた、女の子の側にいつもいる男の子が返事をします。彼は女の子の美しい世界が消えた頃からいつもいます。無口ですがいいやつです。

 

「どうして?」

「それは楽園のリンゴみたいなものなんだよ。不可逆なんだ。いや、一度食べたら戻れないっていう意味ではザクロかな」

「藤田監督の写真ね」

「リンゴを食べる子もいれば、一生食べない子もいる。誰かに無理やり口の中に押し込まれる子もいれば、自分から食べる子もいる。ぐちゃぐちゃに味と形を変えられて、食べたことに気がつかないでいる子もいる」

「砂糖で煮込んで、潰してジャムにして、トーストか何かに塗りつけてしまって」

「そう。でもリンゴ自体は別に正しくも悪くもない。ただのリンゴだ。でも食べなかったことにはできない」

「じゃあどうしたらいいの」

「ぼくに聞かれても」

 

男の子は肩をすくめました。

 

「これからなんとか落としどころを見つけるしかないんじゃないか」

「落としどころ」

 「とりあえずはそうやって深夜にアニメを見てる自分のことを好きになるところから始めたらどうだい」

 

そうでした。女の子はアニメが好きですが、アニメを見ている自分のことが、実のところ、ほんのちょっと嫌いでした。根拠のない罪悪感が、いつも肩のあたりに張り付いていたものですから。

 

「……そういえばお知らせがあったわ」

「なんだい?」

 

男の子は面倒くさそうに耳を掻きながら聞きました。

 

「来週はおそ松さん19話をリアルタイムで見れないの。木曜日に見る予定」

「ふーん」

 

男の子はどうでも良さそうに、女の子の後ろ頭に向かって返事をしました。

 

「それはそれは」