バックヤード

アニメ「おそ松さん」を血を流しつつ視聴する

「おそ松さん」25話 そして私のしんどさはチャラになったのかという話

満足だ、おそ松さん!

 

はい、最終回を迎えてしまいました!みなさまいがかお過ごしでしょうか!!

 

初めてかもしれないな、リアルタイム進行でこんなにも楽しみ続けられたアニメは……もうこの先もないと思うので個人的にものすごく記念すべき作品になりました。

まぁそんなまとめはまたこんど改めてすることにして、今回は25話の分のまとめをしてしまいたいと思います。

重たすぎる24話を経て、どのように落としてくれるのかと考えていたところでしたが、まぁ台無しまでは予想できてもちょっと台無し具合がもうね、人類最後のギミックによるカラミティレベルの破壊力だったのでね、もう大の字になって笑うしかありません。

本当になぁ……スタッフの勇気を讃えたい……ありがとうございました……全力バタンキューすぎだろ……

 

今回の話は、構造から言えば18話型、全体の物語と進行は同じ世界、しかし起きるのは全くの非現実的出来事、という構造になっています。加えて、一つのゲームフィールドが用意され、優勝するとメリットがあり、そのために競い合うという、これも18話と同じストーリー構成ですね。

 

恒例のあらすじまとめです。

・ひとり家に残るおそ松の元に届いた手紙は、彼らが「センバツ」に選ばれたという通知だった。ちなみにチョロ松がおそ松に宛てて書いた手紙は何故か燃えていた。「センバツ」のために散っていた六つ子は呼び戻される。

・松蔵が何の「センバツ」なのか判読できないまま、開会式が始まる。宇宙人のような人物が謎の言語で挨拶。分からないと叫んだ聖沢庄之助は射殺される。

・試合が始まるが、上手くいかず拗ねるおそ松、チアガールにポンコツになるチョロ松、野球にはしゃぎすぎた十四松の暴走などによって松野家はコールド負けする。

・それから一年後、彼らは強くなって、もう一度センバツに出場、ライバルたちに次々と勝利し、決勝に出場するため宇宙へと旅立つ。

・決勝の相手の第四銀河高校の宇宙人たちの攻撃によって9回裏、チビ太やイヤミ、今まで登場したキャラクター達が次々と死に、松野家はピンチに陥る。

・そんな時トト子ちゃんがいきなり全裸になり、勝者に自分と一発できる権利を与えると叫び、六つ子はやる気を出すが、結局第四銀河高校に負ける。

・四銀高校歌が流れる中、六つ子たちは宇宙に散り、終了。

 

すごい!!文章にしてみても全然わけがわからない!!でもこれ以上どうにもならない!!どうやったらこんなトンチキなものが生み出せるんだ!!!!

 

前回ですね、24話についてまず最初に彼らの成長について、次に赤塚マンガの世界というメタ視点のアニメにおける展開について、というふうに二本でまとめました。

今回の25話というのは、彼らの成長と生き方についてと、赤塚マンガの世界を現代に蘇らせることについて、という二本の軸を成り立たせていたのだと私は思っていて、自分で言うのもなんですが前回の私をちょっと褒めたいです。

 

まず、メタ的な視点についての話です。

24話で、おそ松は赤塚マンガの主人公になれないことに辛さを感じていたと読みましたが、25話は元の、いえいままでの「おそ松さん」以上にナンセンスギャグに振り切った回でした。彼らのなごみの魔法は復活し、それに覆われた狂った世界がまた実現しました。

おそ松は、元々、この赤塚先生の作った国を維持することが自分たちの義務であると考えている節があります。そのため、「働くこと」「家を出ようとすること」、つまりは赤塚先生の意思から脱出することを「贅沢だ」と考えます。

そして彼は、六つ子の離散に悩んだ末に、やはりこの世界を赤塚先生のものにすることを選びます。なごみ探偵があの世界を狂気で包んだように、彼はもう一度、魔法をかけ直し、このアニメが始まった日に彼の、そして赤塚先生の世界にヒビを入れた聖沢庄之助を、今度こそ射殺します。

しかしながら彼だけでは赤塚先生の世界を作り出すことはできませんでした。今回の物語には共犯者がいます。チョロ松の手紙を燃やし、24話から25話への可能性の分岐を捻じ曲げた存在がいます。それはこのアニメの制作者たちです。

センバツ大会の競技場の後ろに、大きなガスタンクがありました。書いてある文字は「藤田ガス」。藤田と言えばもちろん、このアニメの監督藤田陽一さんです。

私はずっと、このアニメにおける灯油、火を「暖かい場所、自分の居場所」と言ってきました。それではおそ松たちにとっての居場所であり暖かい場所はどこだったのかと言えば、もちろん松野家、それに加えて、この「おそ松さん」という舞台そのもの、そしてそれを楽しんでいた読者たちでした。作者が亡くなり、アニメも終わって27年が経った彼らに、もう一度、暖かい場所、つまりは舞台とスポットライトと観客を用意したのは、藤田監督、そして制作スタッフです。

彼らはおそ松と共に、もう一度正しく赤塚先生の世界を作ることを実現しました。結果、彼らはわけがわからない大会にいきなり出場し、誰のものかわからない墓参りもするし、突飛な手を使って敵をやっつけます。誰もその世界にツッコミを入れることはありません。聖沢庄之助という18話で主人公となった真理の象徴を射殺したからです。主人公はまた正しくおそ松のもとへ戻ってきました。それが良いことか悪いことかは置いておいて、そういう大きな改変が起こった。世界にはもう一度火がもたらされたのです。それは良いことでも悪いことでもありました。

今回は、一つの制作スタッフが何をやりたかったのか、ということだったのだと思っています。今回のアニメというのは言ってみればセンバツ2年目、赤塚ヒーローになりそこねたおそ松へ与えられた再チャレンジのチャンスです。その上で制作サイドの彼らは、恩や義理やしんみりしたムードなんか捨てて墓石を蹴り倒して生きろと言った。それでこそヒーローなのだと言った。

 

前から言っていますが、このアニメはなんというか本当に「リバイバル」「リメイク」の最高の形だったと思います。なんというか青い花ちゃんの言葉を借りれば「縮小再生産」じゃない。それでいて、全くの別物でもない。それが最終回できっちりと実を結び形になりました。

 

 

さて、それではその物語の中で六つ子たちはどうなったのか?ということが問題になってくるわけです。

以前書いたとおり、六つ子たちは24話かけてそれぞれ自分の汚さを知ったりこの世の無意味さを知ったりと、それこそ踏んだり蹴ったりな勢いで揉まれ、それを通してなんだかんだ何かを掴もうとしました。その結果が24話という一つのエンディングです。やはりあのアニメはあそこで一つの決着をつけていました。今回は18話型、連続性があるようなないような、浮いた時間軸です。

私は25話をエクストラステージとしての全体の総括と見て、負けて一年たって戻ってきた二年目のセンバツを、このアニメ本編の一種の再現だったと見ます。成長し個性という武器を手に入れてカムバックした彼らは、それなりにこの世と渡り合っていく術を持ち、悪であることに開き直っていますが、それではまだ弱い。

彼らが二年目のセンバツで手に入れて、そして最強の敵の前で失ったものは、彼らを愛してくれたもの、愛したかったもの、そして同時に虚像でもあったものたちです。ニャーちゃん、彼女、青い花、神松、アイダとサッチン、石油王、ダヨーン族の少女……それらが次々と殺されていく様は、本編と重なります。

それらを全て失って、裸にされて残ったのは彼らが「童貞」であることでした。

このアニメにおいて正しい定義から外れて使用されている「ニート」という言葉を「無条件の愛の保護下にあり生きるための闘争のない状態」とするのならば、「童貞」も何かに読み替えられると考えられます。それはおそらく「性行為経験がないこと」だけを指すのではない。言うなれば「子供であること」「無垢であること」「経験したことのないものを夢見ていられる頃」です。彼らに残ったのはそれだけで、それだけで最強の敵に立ち向かおうとしました。

そして、「無理なものは無理!」と叫んで宇宙に散りました。生まれたまま、「童貞」のままで、です。何が無理なのか?といえば、最強の敵、まあつまるところこの世界というものに勝利し「童貞」を捨てることでしょう。

 

僕たちは純粋無垢な子供だ。子供であるが故に自分を愛してくれる虚像に夢を見て、それが死ぬこの世界の怖さと汚さを嘆くのだ。それでも死ぬ気でやってみて、でもやっぱり限界はある。僕らは子供であることから逃れられない。

 

それではそんな事実をこのアニメは嘆いているのか、讃えているのか、と言えば、やっぱり賞賛しているのではないかと思います。

ここは「センバツ」。何のセンバツかは全くわかりませんが、明らかに元ネタは選抜高校野球です。それは高校生たちが命を懸ける青春の舞台です。そして、彼らが今まで命を懸けてきた青春というものを讃える場所です。

私は高校時代を部活漬けで過ごしていた学生で、まぁ目指せ全国大会で頑張っていたので一種のセンバツだったわけですが、本当にあの頃の自分はどうかしていたと思います。朝から晩までそのこと考えて、生きるのに直接関わらない、めちゃくちゃ小さい問題の解消に延々時間使って悩んで、喧嘩もして、みんな狂ったような目をして、そして夢を見ていた。その時間の末に叩きつけられるのは、自分とチームの限界です。これ、私だけの経験じゃないと思うんですけど、上の大会に上がって本物の強豪校とか見たりすると、ああ、無理だわ、ってなるんですよ。いやならないで努力できる人が本物なのかもしれない。でも、悔しいとかもっと練習すれば良かった後悔とかが全部消滅して、ああ、こうはなれない、っていうのが降ってくる瞬間がある。私にはあった。

じゃあ練習しなくてもいいのか、しゃかりきにやるのは無駄だったかっていうと、そうじゃない。その「無理」はベストを尽くした上にやってくるものだという気がするんですよ。てきとーに頑張っていたら、きっとただ悔しかったり、卑屈になったりしていたんじゃないだろうか。

 

最後にセンバツという舞台を用意したこのアニメは、その彼らが「童貞」であること、愛や理想の死を経験すること、そして訪れる限界の自覚、それらを「青春」として讃えます。「童貞」であることを謳歌しようよ、どんなに愛や理想が死んでも夢を見ようよ、どんなにくだらない憧れでもいいよ。それが叶わないことに思い切り悩もうよ。そうやってバタンキューするぐらい全力で子供でいようよ。

 

それでいいのだ。

 

彼らは優勝しません。彼らのダメだった過去はなんにもチャラになりません。それはいつまでもそこにあるもので、就職しようがしなかろうが変わりません。

24話で彼らがしていた就活や就職やバイトや放浪、そして「赤塚先生の世界を実現すること」で何が解決するかって、やっぱり何も解決しません。たぶん奴らは働いていたっていつまでも寂しいし、いつまでも夢を見ていて、いつまでもどこか対人関係に問題を抱えるでしょう。きっとしんどいままです。でもそれはこのアニメが讃える「青春」の形であるという点において25話と何も矛盾しません。彼らは考えて考えて、全力で本気出して悩み続けることを決めたのです。そこからまた「無理」を知る旅が始まります。本気で生きなければ見つからなかった限界です。

 

やっぱり半年使って考えたけど、私だって一瞬で生き方変わることなんてないし、変わってたらこんなに悩んでないし、 やっぱりどこまでいったってしんどくて、それはチャラにはならない。それはきっともう私の一部です。しみじみするほど。

でも、そのためにちゃんと全力で悩め、決してムダなんかじゃない、そしてそれはきっと美しいことだ、そしてたぶん、誰もがきっとそうだ、というのは、本当にありがたい言葉だと思います。

ありがとう。追いかけ続けてよかったなと思います。

 

というわけで、今回の感想を締めさせていただきたいと思います。

本当に今までお付き合いありがとうございました。総括する記事をもういちどまとめとして書きたかったんですが25話があまりにも総括だったからな……枝葉はだいたいついったーで喚いてるし…でもきっと何か書きます。しばらく忙しいのでいつになるかわかりませんが、近いうちに。

 

 

お粗末様でした。

 

「おそ松さん」24話B それでもヒーローになりたいしんどい長男の話

どうでもいいことですが、引っ越しました。チョロ松とおそろい。

まさかのテーブルを忘れたので、ダンボール箱の上にPC乗っけてこれを書いてます。本当にどうでもいいね。
はいどうも、前回の続きです。

 

24話の長男について考えたいと思います。
いや、わかってはいるのです。今後の展開やおそ松の心理についてなんてどうせいくら考えても明日の深夜には答えが出てしまうんです。
たぶんいくら考えてもひっくり返されるんです。ですので、「今後はこうなるぞ!」ではなく、「今までのことは今回の情報を加えるとこんなふうに読めるのではないか」
という方針でいきます。まぁ通常運行です。

ついでにこれだけは踏まえておいてもらいたいというか、これが弟たちと長男の感想を分割した理由でもあるのですが、
私は以前から言っているとおりおそ松推しの人間です。
おそ松について自分なりにめちゃくちゃ考えてきた自信はありますが、残念ながら同時に情報を取り入れる目が曇っている自信もあります。かなりあります。
ですのでこっちの感想はまぁ、ああオタクがまーた何かほざいてやがるというぐらいの気持ちで読んでください。ただの妄想です。

 


さて、24話の長男おそ松ですが、ちょっと見ているだけで胃が痛くなるような痛々しい感じでした。
弟たちが次々と独立、それに対して彼は、不機嫌になるわ八つ当たりはするわ蹴るわ殴るわ、しまいには一人ぼっちで黙って口を引き結んだまま。
いつもへらへらと笑い弟たちに絡みふらふらとパチンコに出かけていた彼がこうなる、というのは、落差が激しすぎて本当に辛い。

とはいえ、私が予想していたよりもその間の彼の表情がほとんど描かれていなかったのも事実です。

私は彼を最も信用のおけない語り手だと思っており、恋する十四松では言いたいことを飲み込み、一松事変では最後までどちらとも判断のつかない仕草をし、とその辺のコントロールは大したものだと思っているので、万一、万一ですよ、彼があえてああいったふうに振る舞い、六つ子のコミュニティ崩壊を加速させ(彼がチョロ松就職を素直に喜んでいたらトド松の独立はもう少し遅れ、伴ってカラ松以下の家出も遅れていた可能性は十分にあると思います)次回で「やったぁ念願の一人っ子だ!!」と2話の回収をするなんてことがあったとしたら最高なんだけどなぁと思っているのですが、まぁそれは考えても結論が出ないことなので置いておきます。

 

私が印象的だと思ったのは、今回久しぶりにきちんと画面に映った、「赤塚先生」の存在です。

松野家の居間には赤塚不二夫先生の額が飾ってあります。それは1話に登場してから、時折言及されていました。
興味深いことなのですが、彼らは自分たちが赤塚不二夫という漫画家の被創造物であることを初めから認識していて、しかも彼が死んだことも認識して、そのうえで好き勝手に動いていたんですよね。

六つ子にとって、「赤塚先生」は、創造主つまりは父であり神様であって、言ってみれば彼らはそういう信仰の元に生きています。恋する十四松で、告白の成功を祈願する際に中央に額があったように、一話で良いタイミングで落下した額に彼らが頭を下げたように、あの世界では作者が一種の神としてしっかりと示されています。

それを踏まえると、24話で、沈みきったおそ松が最後に赤塚先生の額に向かい合ったことには意味があると思う。

あれはただただ居間の中央に座ったのではなくて、額の前に座ったのだということは、カメラワークで強調されているように見えます。
弟たちが全員独立し、独りきりになって、彼は自分の創造主に黙って向かい合った。

なぜそうしたのか、彼は赤塚先生に何が言いたかったのか、ということを考えることを通して、松野おそ松という男が今まで何を考えてきたのかという仮説を立ててみたいと思います。次回どうなるかではありません。今まで何をしてきたか、です。

 

さて、私は以前は、おそ松は六つ子という集団を維持しようとしている、それは彼が「長男」という居場所を得るためであると考えていました。

しかし、18話を見て、「こいつ長男として居場所を作るために良いオニイチャンやるようなそんな殊勝な奴じゃないな」と思い、ちょっとわからなくなったのでした。
それでは彼が18話で弟たちを殺した上ででも勝ち取りたかった、守りたかったのはなんなのか、今回の情報を加えると見えてくる気がしました。
それは、「おそ松くん」の主人公の座、つまりは赤塚マンガの主人公の座です。

彼が正当な赤塚先生の息子、赤塚マンガの主人公になることを目標としていたと考えれば、いろいろなことに説明がつきます。
私は18話のレースの彼らを、「自分自身の主人公として生きたい人々」というふうに捉えましたが、彼は、本当にこの物語の、赤塚マンガの主人公になりたかったのです。そしてそのために、彼はずっと、創造主の描いたマンガの世界を保ち続けようと動いてきました。

困ったときのなごみ探偵回ですが、あれを見ると、彼が狂った世界の元凶であることは明白です。殺人、辛い現実、それらを覆ってさぁバカになろうバカになってしまおうと世界に働きかけてきた張本人はおそ松です。


例えば赤塚マンガのヒーローと言えば、もちろん天才バカボンのパパですが、赤塚不二夫先生はバカボンのパパについて、
「別にラクして生きてるわけじゃない。どうすれば家族を幸せにできるかを考えながら一生懸命ガンバってる。そのためには体ごとぶつかっていってる」
そういうバカだと評してるんです。おそ松はそういうバカになりたかった。「知性とパイオニア精神に溢れたバカ」になりたかったんです。
そのための舞台として、「おそ松くん」のように一つ屋根の下で均質な存在として暮らす「六人で一つ」の六つ子が必要だった。彼はそうやって、懸命に赤塚先生の望むバカをやっていたんです。

 

これは余談なんですが、こういう「創造主に愛されたかったキャラクター」という、メタを折り込んだ設定というのは私以前に見たことがありまして、「エピックミッキー」というゲームに出てくるオズワルドというキャラクターが、これをきちんとストーリーとして持っています。
実際にあった自社のキャラクターの権利問題を該当キャラクターのトラウマとして本当に設定するというウルトラCをやってのけている非常に面白い作品ですので興味があればとりあえずググってみてください。松みがあります。

 

「タイトルはおそ松」でありながら、主人公の座を奪われた少年であった彼が、
「変わらなくていい、みんながバカになればいい」とバカをやって、今度こそきちんと赤塚マンガの主人公として認めてもらいたいと願っていたとしたら、今回の六つ子の独立、不可逆の変化はとんでもない痛手です。加えて、彼は弟たちの離脱に対して、いつもの計算されたバカとしての表情と態度を作ることができませんでした。


「俺たちは変わらねばならない」という流れの中で、変わっていく兄弟、変わっていく自分の舞台、消えてしまった「六つ子」、もうバカではいられなくなってしまった自分と黙って向き合い続けて(背景や服装から考えて一年近く経っている可能性もあります)、またもやヒーローになれなかったままで彼は「赤塚先生」と向き合った。

もうだいぶ前に死んだ、もう直接声をかけてくれることは決してない人の写真の前で、彼は何を考えていたんでしょうか。

 

もしも本当にこういうことだったとしたら、私はもういいよと彼に言いたい。もうやめようよ。誰かに認められるために頑張るのってめちゃくちゃしんどいことだよ。赤塚先生はもう死んだんだよ。君が好きに生きたって誰も文句言わないよ。「タイトルはおそ松さん」で、もうそれは絶対に変わらないんだから。弟が出て行ったらそうやって笑うことができなくなる君が、主人公も先生も関係ない「松野おそ松」なんだよ。

でも、それを簡単に放り出すわけにはいかないことは、私にはものすごく、痛いほどわかります。

「赤塚先生」を「親」「世間」に置き換えれば簡単にわかることです。

アダルトチルドレンのタイプの一つに「ヒーロー」があります。期待に応えようとするのをやめられない、期待に応えることが自分の価値、応えられない自分を許せない…

しんどいねぇ、どうしたらいいのかねぇ…

 

2話で彼の「関係なくない?」を聞いて、彼が私を救ってくれるかも知れないと思い視聴を決めたわけですが、ここへきて、私たちはだいぶ近いところでのたうっていたのではないかという気がしてきました。でも、たとえそうでなかったとしても、私は彼に救ってもらおうとはもう思っていません。自分の暖かい場所は、自分で作るんだもの。

 

私はオープニングの「満足だ、おそ松さん」が成就することを信じて疑っていません。最終回、見届けたいと思います。おそ松担の妄想に付き合っていただきありがとうございました。

 

リアルタイムで見れない地方の辛さ!!!!

 

 

お粗末様でした。

「おそ松さん」24話B しんどい世界でしんどい私はそれでも前に進むのかという話

そして一人だけになった。

 

はい、いつもありがとうございます。

24話、観ました。

みんな元気?大丈夫?お腹壊してない?大丈夫?私は無理。

 

私は2話からずっと、この自己責任アニメを、主人公として生きられなかった子供たちが楽園を失ってそれでも生きなければならないという事実にどう立ち向かうかという話をしていると考えて、それにくっついて走っていこうと思って見続けてきました。気づけば半年です。結構な時間を奴らと過ごしています。

そして序盤「家庭問題?自立?そういうふうにも受け取れるかもね」ぐらいだったギャグとストーリーは、18話からその「なごみ」を取り払って正面から「俺たちはこのままではアカンのとちゃうか」ということを扱うようになりました。ずっとこうやって騒いできた私にも予想外なほどの直球です。

それのゴール地点が、今回の「手紙」であり来週やってくる最終回(死にそう)だったと思っています。次回が今回のゴールの延長なのか、また別のゴールの見せ方をしてくるのか、それはまだわかりませんので楽しく怖がるしかないのですが、今回が一区切りだったのは間違いないわけです。

 

今回は本当に綺麗に様々なことの回収がなされた回で、今まで半年走り続けてきた人々ならああと納得し感慨を覚えるような仕掛けが様々に施されていたと思います。というわけで感想を今回もつらつらと語っていこうと思います。

 

以下24話Bパート「手紙」恒例の雑なあらすじです。

・チョロ松の就職が決まり、プレゼントを贈り盛り上がる一家に対し、おそ松は終始不機嫌。騒いで彼にぶつかり寿司を落とした十四松を蹴り飛ばす。カラ松はおそ松を殴り倒す。

・そんな一幕があった後、チョロ松がイヤミの車で会社の寮へと旅立つ。おそ松は見送りに来なかった。

・長男と喧嘩をし、トド松は家を出ていく。

・続いてカラ松がチビ太の家に居候しつつ就活することを決め、十四松がバイトを始めてデカパンに家を借り、一松も家を飛び出す。 

・それぞれが新しい場所で生活する中、おそ松だけが一人、表情を無くし、トト子ちゃんにデートに誘われても無言なままでいた。

・そんな中、おそ松にチョロ松からの手紙が届いた。

 

というところで終わる今回。つらい。何のアニメだっていうレベルでギャグアニメを捨ててきています。すごいぞ。こりゃお墓が建つぞ。

 

今回どういうふうに感想をまとめていこうかなぁってずっと考えていたんですけれど、それぞれにパチンパチンとピースがハマるように今までの回収をしていっていた気がするので、一人ずつコメントをつけていく方式にしようかなと思います。

 

まずはチョロ松。就職おめでとう。本当に立派になったな君は。

彼の今回のポイントは3つあります。

一つ目は、「父さんの知り合いの会社」に就職したこと。

あまりにも今までの苦労は何だったんだっていうレベルのスピード就職だなと思ったら、どの程度かは分かりませんが何らかのつてを頼っての就職だったようです。

つまりはですよ?彼は、想像の範囲でしかないですが、父松蔵に本気で就職したいと告げてそういう運びになったわけです。トド松は「気楽だ」と言いましたがそんなことはない。むしろ逆です。父親の何らかの縁で紹介された仕事をどう扱うべきか考えられるぐらいの常識が彼にはあります。一人で適当な時間にハロワに行くよりもよっぽど「もう戻れない」「なかったことにできない」選択をしたんですよチョロ松は。それって、今までのチョロ松に一番できないことでした。言うだけ言って、やらない。安牌を狙って思い切ったことをしない。そういう誤魔化しじゃない本当の覚悟を人に告げられるところまで成長してるんですよ。

二つ目は、彼が嘘をついたこと。

カラ松がチョロ松ににゃーちゃんのグッズをプレゼントとして渡すシーンがありました。彼はあの時、ちょっと躊躇った表情をしてから、ありがとうと言ってそれを受け取りました。

あの時のチョロ松は確かに、「自分にはもうこれはいらない」という気持ちを抱えてからそれを抑えて、「ありがとう」と言いました。「欲しかったんだよ」とまで言った。彼は今まで「オープンリーチ」、モノローグがそのまま口から出る男でした。以前の彼だったら、何かしらツッコミを入れるなり、文句をつけるなり、少なくとも正直に自分にはもう必要ないことを言ったと思います。もらうもらわないは別にして。ついでに相手は、わりとぞんざいに返答しても大丈夫という位置にいるカラ松です。おそらく本編で初めて、チョロ松が「相手のことを考えて、思ったことを抑え、隠して嘘をついた」瞬間だと思います。ライジング回感想で語ったように、ここは彼の問題の一つでした。彼ちゃんと成長してるんですよ…

三つ目は、彼がイヤミの車の中で泣いたことです。

イヤミは彼を送る途中言います。「仕事なんてすぐに投げ出すのがオチだ、人間は変われない生き物、希望は捨てろ」その時チョロ松は黙って歯を食いしばるように涙を流していました。

「調子が狂うザンス」その通りです。以前のチョロ松だったら、絶対何かしら言い返していたんですよ。私はここでチョロ松が泣いたのは、イヤミの言葉が正しく反論の余地がないことを、彼が痛いほど思い知っていたからだと思います。彼はやるべきことを投げ出してしまうクズなダメ人間である自分を認識しました。この世に希望がないことも知っていました。そして彼はそれを怖い、悲しい、辛い、しんどいことだということも感じました。

しかし私は、彼がそのしんどさを思い知った上で、それでも、後戻りはできない場所へ進もうとすることをとても美しいと思う。ものすごく価値がある行為だと思うんですよ。チョロ松にとってライジングも神松の出現もダヨーン族との邂逅も全然無駄じゃなかった。何一つ無駄なことなんてなかったんですよ。

彼は無条件の愛と、アイドルと、同じく彼のアイドルであった長男を捨てて、松野家から物理的にも精神的にも離脱しました。それはものすごく痛いことだけれど、ものすごく勇敢な答えであるように思います。

チョロ松くんだけで長々やってしまいましたが彼は成長譚としてのこのアニメの主軸だからね仕方ないね。ごめんなさい。

 

続いてトド松。

彼は既に精神的にも最も自立に近いところにいたと思うので、「ひとり暮らし。僕はそこから始める」という選択はとても正しいと思います。彼は今まで、最も自立しながらも、兄弟から妨害をうけるのに加え、気楽だから、家族を見捨てられないから、自分が兄弟にとって有用だと思いたいから、などなどの理由での環境への依存を捨てきれなかったが故に、松野家で生きていました。無理矢理にでも環境を変えれば何かが変わることは明らかです。

印象的なのは、おそ松と殴り合ってから家を出たことでしょうか。彼はおそらく熱海旅行のパンフレットで長男を殴りました。(たぶん)10話で長男が言い出した熱海旅行ですが、それで彼はチョロ松の見送りに来なかったおそ松を責めた。この部分がサイレントなのでトド松が何を考え何を問題視してどういう意図でおそ松を殴ったのかは全くわからないわけですが、私はこの旅行を「現実逃避」と見ます。トド松がおそ松に言いたかったのは、「ちゃんと現実見ろよ、ふてくされて八つ当たりしたってなにも変わらないだろ」その上での家出、「一緒にいないほうがいい」だったとしたら、彼はドライモンスターだなんてとんでもない、最後まで兄弟思いだったと言えるでしょう。

 

カラ松くん。本当にお前は凄い奴だ。本当に。すごい。すごいよ。最高。

無い語彙力を駆使して何とかしようと思います。おそ松が沈黙する中、代わりを務めるようにチョロ松を讃え家族の音頭を取るという選択、荒れるおそ松を殴ってから外に連れ出した処理能力、今回の彼には正しく居場所があり、それを理解していました。トド松の言葉に続くように、「このままじゃダメになる」と彼はとにかく家を出てチビ太の家に頼み込んで居候し、就活をすることにしました。

私はこの回は、9話Aのアンサーであると感じました。

9話A、私本当にあれ「地雷です!」って感じなんですけど、今回で本当に救われた気がします。一方的な親切心でマウントを取ろうとするチビ太に、なんの対処も反論もできず「話を聞いて」「出来るわけない!」「怖~~~!!」と叫んでいたカラ松はもういません。今回の彼は、100%自分の意志でチビ太に助けを求めました。そしてチビ太もあの時のチビ太ではありません。おでんと自分の愛着問題について考えた後のチビ太です。花からそれぞれ学んだ二人がここできちんと個人同士の新しい関係を持てるとしたら、それは本当に尊いことだと思います。

9話の時点のカラ松、そして六つ子はまだ「俺があいつで俺たちが俺」。しかし今回のカラ松は、「俺たち六つ子は…いや、俺は」と言い直しました。私はこれも大きい変化だと思っています。「あいつがダメになるかは知らないが俺はダメになる、それは確かだ」と言っているわけです。他の5人を自分と同一視することをやめた。「私たちは~」と意味もなく主語をでかくする、Royal Weなんていう言い方もありますが、他人の考えを自分が勝手に設定するのって、本来失礼なことなんですよね。六つ子は生まれてからずっとそれでやってきた。ここで彼が「俺は」と言ったのは自分自身を誰にも自由にさせない個人として認めるだけでなく、チョロ松やおそ松兄弟達をも自由な個人として認めることにつながります。

誰にも俺を自由にさせない、という意志を持つという準備を整えて、彼は以前から確かに手を差し伸べてくれた人の手を自分から取りました。ものすごい進歩です。そして9話トラウマの解消を本当にありがとう。

 

十四松。

彼は工場でのアルバイトを始め、デカパン博士が住むところを貸してくれました。

彼の難関として描かれたのが実際の工場労働の方ではなくバイトに採用されるところから、というのは納得がいくところです。4話の電話の取り方との対応が今回の電話の受け答えにあります。工場労働の方はブラック工場できちんと働けたように問題はありません。問題は、彼が家の外で「十四松」という一人の存在として誰か別の個人と向き合えるかというところにありました。周囲の雰囲気によってふわふわと形を変える十四松。今回機嫌の悪いおそ松につかずに多勢の盛り上がりに加担したことでもそれはわかります。それでも彼は17話のような思索の末に「僕は十四松」という真理を手に入れました。もう彼は十四松として外に出ることができます。

また、今回ハタ坊も同じ工場にいることがわかりました。もうなごんだ死体を売ることもやめた彼は、社長を辞めて工場で働いています。ハタ坊と十四松は「無垢で無邪気(に見える)な圧倒的力」という共通点がありましたが、個人的にここについてはもうちょっと考える余地が有るなと思うので保留です。ただ、社長とその友人、ではなく十四松とハタ坊として、フラットにまた付き合うことができる、というのは十四松にとって嬉しいことだったのではないかと思います。

 

一松。お前な~~~~~~~~~~~!!!大好きだよ。

彼はおそ松にこれでいいんだ、と告げて家を出ます。何のあてもなく本当にただ家を出ました。

夕食の席でチョロ松を馬鹿にすることなく讃え、荒れるおそ松を外に出したカラ松の意思を汲むなど、六つ子の維持に努めてきた彼はもういません。次の飼い主にしたように見えたおそ松の肩を持つこともしません。それは彼の諦めでもあり、出てゆく兄弟達への思いやりでもありました。六つ子を維持することを通して自分のエゴを見つめてきた彼はそれに向き合い、全てやめました。今まで「そっちのほうが楽だから」という理由で、つまりはそれも自分のエゴで付き合いつづけてきた猫に別れを告げ、彼は一人で出ていきます。

猫カフェの面接に出向く頭と力は持っているのになんでそのまま出ちゃうかなぁっていうのが疑問だったんですが、逆にすごい選択だったんじゃないかと思えてきました。彼は本来頭のいい子です。そして、ずっと自分が「賢い」ことに振り回されてきました。人の裏切りや言葉の裏に気づいてしまう、卑屈になって猫と戯れてもそれが誤魔化しであることもちゃんと知っている、馬鹿な周囲の人間を馬鹿だなと笑いながら、自分が馬鹿になることはできず寂しい、でもそれって全部自分のエゴ、そして自己嫌悪、ループ、ループ…そんな奴が、何のあてもなく外に出るのは無茶だということを考えなかったわけがないんです。それでも彼は家出をして、言わばホームレスになった。一世一代の馬鹿をやったんですよ。計算とエゴを捨てた。あれはそういう家出だったのだと思います。

その結果まあ当たり前に彼は飢えるのですが、そんな彼を救ったのはいつかのカップルでした。ラーメンをおごられた彼は、ここでやっと、「他人から面倒をみられて生きるのはどういうことか」ということを認識したのではないかと思います。人から、見返りなしにご飯をもらう、これは今までの彼の生活と同じだったはずです。しかし、依存体質の彼にとって、親は他人ではなかった。他人として家族を認識していなかった彼はやっと、ニートであることに向き合ったのだと思います。そしてきちんとお礼を言いました。依存しているときって、相手の行為もどこまでも自分なので、何がお礼を言うべきところなのかがわからなくなるんですよね。

一杯のラーメンはもちろんとんでもなくありがたいものだったと思います。彼はそのありがたさを噛み締めたでしょう。でも同時に、プライドの高い彼にとってそれはみじめなことでもあったかもしれない、屈辱であったかもしれない、なぜ自分にこんなことをしてくれるのだろうという恐怖や戸惑いもあったかもしれないと私は想像します。でもそれは、気づいていなかっただけで今までだって等しくそうだったのです。どちらも直接描かれはしませんが。

よかったね一松くん。君が変わりたいと願ったことを、私は本当に嬉しく思います。

 

 

というわけで弟たちについてはこんな感想を持ちました。

彼らなりの、たどり着いた答えとして、本当に美しい話だったと思います。

別にニートが悪いという問題ではなく、「この世は厳しい」「避難所としての無条件の愛はいつだって存在する」「しかしその中にいるのもそれなりの苦痛を伴う場合がある」「無条件の愛を抜け出して厳しいこの世に自分の場所を自分で作れ」ということに向き合った結果、彼らにはこういう答えが出た、ということです。その結果ニートをやるのが自分には一番良いのならそうすればいい、事情によりとりあえずしばらくニートでいる必要があるというならそれでもいい、ただ認識した上で選択しろと、そういうことを言っているわけですよ。彼らにはニートはもともと向いていなかったのだと私は思います。

当たり前のように、この世は厳しい。その選択が正しいかはわからない。チョロ松は苦しいしカラ松もしんどいし十四松は痛い。それでも選択には価値があるだろと、そういうところまできちんと描いてくれたところが誠実でした。

 

ようやっと長男の話ができる!と思ったのですが明らかにすさまじく長くなるので分けます!ごめんなさい!ここまでスクロールありがとうございました!しばしお待ちを!

 

 

お粗末様でした。

「おそ松さん」23話 しんどい私が作る暖かい場所の話

旅行から帰ってきたらTLがお通夜だったときの私の心境を簡潔に述べよ。

 

 

はいどーも、おひさしぶりです!!

今回も23話について語っていこうと思います。今更だ!!

24話の内容によってTLが阿鼻叫喚、お墓乱立、お通夜、並ぶ遺影アイコン、もうとんでもないことになっていることは把握しております。

しかしながら!私は!!24話を見る前に23話について書いておきたいと思ったので!!書きます!!なぜならこのアニメが「次の回を見たらもう前回を同じ心境では見られない」質のものであるということを感じているからです。

よって今回は既にオンエアされている24話を見ずに語っています。TLは一部をミュートしました。ですので見当違いなことを言っていても許してください。23話までに提示されているものだけで考えてます。怒らないでね。

逆に当たっていたら褒めてください。

 

さて今回は題名はそれぞれついているのに時系列が完全に繋がっているというスタイルの2話構成でした。ですのでB「ダヨーン族」メインにしつつ両方の話をしたいと思います。

 

Bメインにまとめるとあらすじはこうです。

・ストーブの灯油が切れ、誰が補給に行くかという戦争に負けたチョロ松は、灯油を買いに行く途中で居酒屋に立ち寄ってしまう。帰ってこない三男を追った長男と次男も同じ居酒屋で飲み始める。

・三人が居眠りから目覚めると謎の洞窟のような場所に居た。そこには街があり大量のダヨーンが住んでおり、三人はダヨーンたちに追いかけられる。

・後を追った四男五男六男もダヨーンの口の中に吸い込まれ、兄たちと同じ場所に出る。そこはダヨーンの体内であり、ダヨーンの少女(自分で書いておいて何だそれ)とダヨーンのような姿になったチョロ松の結婚式が行われようとしていた。

・帰ろうと言うトド松に、同じ姿になった長男次男が、ここには何でもあること、ニートでいられることを説明し、チョロ松は本当は外できちんと生きなければいけないことはわかっているが、クズな自分はここで生きるしかないのだと叫ぶ。

・すると花嫁が灯油のタンクを彼に渡して、ここから出て行くよう告げる。他のダヨーンたちも彼らを追い出そうとするが、彼らが涙を浮かべているのを見て、長男次男三男も大声で泣く。

・ダヨーンたちに笑顔で手を振って見送られ、6人は船で肛門へと脱出していった。

 

今までの話で最高ランクに泣いたかもしれない。とんでもない。これが最終回でも全然かまわない。なんというか、作ってる人たちは本当の「大人」なんだと思うので本当に尊敬してます。どっちの方角に住んでらっしゃいますか足を向けて寝られない。松はすごいぞ。

 

まず、今回のあの「ダヨーン族の国」というのは何だったのか、ということが、このアニメ世界自体の構造はどういったものだったのか、という説明だったように思います。

おそ松は言います。

「ここには何でもある!全部タダで何不自由ない!それに何より、ニートでいても誰も怒らない!最初はなぜなのか不思議だった。でもわかった。みんな同じだからなんだ。顔も言葉も立場も、そこから生まれる底なしの穏やかさと安心感。それがダヨーン族の真髄だ」

1クールめのオープニングですべてを飲み込もうとしていたダヨーンの体内にあるのは、黙っていてもご飯が出てきて寝る場所がある、ニートである彼らの日常であり、同時に彼らが6人で一つだった「あの頃」です。彼は、アニメ開始時に既に失われており、にも関わらず六つ子が夢見てきた楽園を内包していました。

人々が分かり合えると信じ、何もしなくても存在だけでご飯がもらえ保護されていた頃。そしてそれを無条件に承認されていた頃。それは決して否定されるものではない。一つの愛に満ちた世界と言えます。体内という場所にあるということから言っても、それが母親的な、無条件の見返りを求めない愛情であることは示されていると思います。

 

しかしこのアニメが今まで一貫して何を主張してきたかと言えば、「無条件の愛情は、時に有害である」ということです。

それを一番明らかな形で思い知ってきたのは次男、カラ松でした。彼は個性を得、成人しても、無条件の愛を信じていました。「お前がどんな奴だって、お前を信じているし愛しているよ」しかしながら彼がそれを発揮して得た経験は、信じた兄弟から殺害されることであったり、屋根からの落下であったりしたわけです。その末に彼は他人に愛情を注ぐことへのエゴに囚われて一人ぼっちで花と心中しました。

無条件の愛の害は、現実的に例えば毒親という言葉で表される何かであったり、無条件の肯定によってDVの温床になったりと、そのあたりで具体的に見られるのですが、その後の彼はちょっとそのあたりを理解したようで、今回も(言い訳とは言え)「行き過ぎた愛は人をダメにする」という台詞まで吐けるようになりました。すごいよカラ松くん!!成長したね!!!

 

様々な台詞の中で、彼らがダメであること、の原因は「ニートだから」に集約されます。面白いことに、「ダメだからニートやってる」のではないのです。「ニートだからダメ」なのです。バイト経験もあり就活も一応している彼らは厳密にはニートではありません。この場合の「ニート」が意味しているのは、
「自分が生きるための闘争をすることなくご飯と屋根を得ている状態」だということです。

 

はい!!つまりはディストピアです!!この辺の話はもうしたのでこちらを読んでいただいて説明に代えさせていただきますが、このアニメは無条件で理由なくぼんやりと生かされている状況について否定的です。

実際のところは、切ないことに彼らの無条件の愛は既に失われており、その幻想を追っているだけなので、そもそも「無条件の愛が欲しい」という段階を描くことも含んでいるのですが(1クール目はこっちに比重があった気がする)、結論としては、「無条件の愛と承認に支えられた世界は人をダメにするよ、ぬるま湯の箱庭から出て戦わないとね」というところに行き着く。

 

今回はその、トド松の台詞「こんなところで暮らせるわけないでしょ?なんとなくわかんない?ダメでしょ!?」というような、「なんとなーく、わかんないけど、別に良いような気もするけど、でもやっぱりダメなんだと思う」みたいなところを、「なんとなーく」「理屈じゃないところで」でも「めっちゃわかる」という感覚まで落とし込んでくれた回だと思っています。そこがすごい。本当に丁寧。

 

そのキーが、チョロ松にあったように思います。

19話でライジングし発狂、21話でクズであることを開き直り、その上で神松を殺した彼は今回前半で、「自意識とのつきあい方」について学んでいます。やっと自意識の存在について気づいたチョロ松はきちんとそのことについて考えていました。「ダメ人間」であることを認めて就活をやめましたが、自分と向き合うことはきちんと始めていた。

チョロ松が最も「信頼の置ける語り手」であることは前々から言っていましたが、それはつまり最も「視聴者の味方」であることも意味します。受け取り方が素直で、ウソをつかず、モノローグをそのまま見せてくれ、加えて話の脱線も防ぐツッコミ役であることで、彼は私たちと限りなく近いところにいます。(ちなみに脚本の松原さんにとっても彼は味方だそうで「肩のあたりにいて話を聞いてくれる」そうです。)

19話で自意識の球体を見たときの「うわっ何あれ??」は私たちの脳内と重なっていたはずです。私たちは彼と同じタイミングでその存在に気づいて、考えてきました。

そんな彼が今回白旗をあげたこと、本当は外で生きていたい、でもこの楽園の中にいたい、と泣き叫んだ重さは、すとんと私のところに降りてきます。

本当にそうだ。本当はきちんと生きてみたい。せめて人並みに、認めてもらえるように。きちんと生きるってことがどういうことかっていうこともよくわかってはいないけれど。それが就活という形をしているかなんていうことは実際のところどうでも良くて、とにかく生きていきたい。でもそんなふうにはうまくいかなくて、しんどい。だからこの楽園にずっと暮らしていたい。駄目だなんてわかっているけど、でももう嫌だ。もう嫌だ!!これが僕の限界!!!

 

しかし身の振り方を考えてきたチョロ松の自棄、楽園との結婚という一種の自殺は、退行でもなんでもなく、進化だと私は思いますし、それは私たちをも丁寧に救います。

 

これが進化であるという理由の1つめは、彼が進むためには一度こうして泣き叫ばないといけなかったからということ。

自分の楽園が失われていたこと、自分のしんどさにもっとも無頓着であったチョロ松は、頭では理解しはじめていたとはいえ、それに対してきちんと悲しんで、涙を流し、惜しむことをしてきませんでした。楽園、舟、川、宗教的祭儀とくれば役者が揃いすぎていますが、あれは一つのお葬式です。子供だった「あの頃」をきちんと葬らなければ、彼は前に進むことができませんでした。

加えて、あれは大きな物語自体のお葬式でもありました。「おそ松くん」という物語の死、赤塚先生の死、昭和という時代の死。その悲しみに彼らは今まで向かい合ってこなかったのではないでしょうか。事実に向かい合うことと、悲しみや苦しみに向かい合うことが揃って、それは受容されます。彼らはそれを放置して、だらだらとモラトリアムを継続し昭和90年になるまで続けてしまった。

今回みんなで泣いて、お葬式を行ったことによって、楽園の残骸とモラトリアム、昭和は終了しました。次回以降はそれを一掃し、現在を建設する時間に突入するはずです。

 

2つ目は、楽園からの追放が、乱暴に蹴り出されるようなものでは決してなかったということです。

ダヨーン族の少女は、震えながら灯油タンクをチョロ松に押し付けました。そしてその上で、涙を流し、彼に笑えと言った。

彼がここを出て行った先は吹雪です。寒く辛く、そして標識が示すように、おそらく二度と帰れない。それでも彼女は帰れと言う。

「あなたのことがすきだよ。でもあなたのために、あなたはここにいちゃいけないんだよ。あなたのあたたかい場所はあなたがつくってね。いってらっしゃい」

これを愛と呼ばずしてなんと呼ぶのか。「あなたがすきだから私のそばにいて」でも「あなたがすきだから寒いところへ行かせたくない」でもない。彼女はこれで灯油を入れてここではない別のどこかに暖かい場所を作れと言った。

火を手に入れるというモチーフは2クールめのオープニングにも出てきます。火は幸せな場所の象徴であり、同時に戦争、闘争の象徴でもあります。ディストピアを出れば、自動的にご飯と屋根が失われます。寒くひもじいそこを、弱く汚れた体で戦うために、彼らには火が必要です。

寒い場所を、汚いものを引き受けて、それでも生きていく覚悟を決めてね。そのために油をあげるよ。これがあれば大丈夫。頑張ってね。

 

寒いところに汚れきって、でも火を携えて出ていけたチョロ松はもう大丈夫だと思います。何か悪いことが起こったとしたって、ダヨーンの中で暮らせばよかったと本気で後悔する日はもう来ないんじゃないかな。もう自分で暖かい場所を作れるんですから。

 

すごいよ!!!!!とんでもないよ!!!!どういう愛が有害でどういう愛が有益なのか!!!!どうやったら人が前に進めるのか!!!こんなに的確な表現を私はしらない!!!

なんだろう、自分にとってのこのアニメがダヨーンたちだと思って良いのかもしれない。あの少女よりもうちょっと攻撃的で、灯油タンクを胃の辺りに投げつけられたような感じですけれどね。痛いよ。つらいよ。ありがとう大事に使います。

 

嫌だ嫌だと言っている間に迫る最終回!!その前に24話!!!来週もまた会いましょう!死んでると思いますがお花をそなえに来ていただければ幸いです!!

 

 

お粗末様でした。

「おそ松さん」22話A しんどい私とトド松の使命の話

飴ガチャでホワイトデーチョロ松が出ない。

 

はいどーも!こんにちは。

残念ながら今週からネット配信組と相成りました。地方住まいの悲しみです。

てなわけで今更ですが22話感想です。

 

私は2週間ほど前、20話の感想にて、「もうなごみの時間は終わった。このアニメは本質にあった殺人を示してきた」というようなことを書きました。

とはいえ、これを書いた頃はもちろんその後の展開なんてわかりませんから、「今回はなごみやめる宣言として読めるよと言ったところで、実を言うと次回は全然違う話かも知れないし、もっともらしいこと言っておいて全然自信ないし、まぁ可能性の一つだよ、次回超なごんでたら、そんな疑問は徹底的に知らんふりー!!してごまかそう、ガハハ」というあたりが書いていたころの感覚だったのですが(ひどい話だ)

やっぱり、22話を見て、こいつらはもうなごんでないんだな、というような感覚を持った人は私だけではないのではないかと思います。

 

私はずっと、このアニメは個人の成長と自立の問題と家族の問題を描いていると思って見てきたのですが、今回はついにそこにきちんと踏み込んでいた気がします。それはもうぼんやりとした、汲み取れる人には汲み取れる類いのものなどではなく、えげつないほどに直接的でした。

というわけで今回はAパート「希望の星トド松」の感想を中心にしたいと思います。Bも大好きです。なんてったって世界が滅びていますし!

 

恒例のあらすじまとめです。

・トド松が合コンのメンバーを1人探しているが、気軽に話せてそれほどモテない友人がなかなか見つからないという。

・その条件に自分たちは当てはまっているはずだと5人は言い、トド松はしぶしぶ合コンに連れて行く一人を選ぶため、女装をしてオーディションを開く。

・トド松が、自分が童貞を脱しワンランク上の人間になったら迎えに来るからどうか足を引っ張らないで欲しいと演説をした上でのオーディションだったが、5人は適切に振舞うことができず、おそ松は自分たち兄5人がダメ人間であることをトド松に謝る。

・家を出ていったトド松の前に、合コンの神様が現れ、お前は兄達を見捨てられないから悩んでいるのだろうが、合コンに連れて行きたい相手は決まっているはずだと諭す。

・結局、友人のアツシくんを合コンに連れて行ったトド松だったが、女の子には「何も無し男」と呼ばれ、全く相手にしてもらえなかった。

 

なんつーかまとめててもひどい、ひどいしか言えない感じですね。最後なんてね、こんなんやられたら私だったらもう3日は寝込みますよ。

 

さて、「おそ松さん」は2クール目において時折、1クールめの、伏線回収、連続性の強調、同じモチーフの利用などが見られていましたが、今回も同じように、4話「面接」と既視感を感じるシーンなどがありました。意図的だと私は思います。Bにも伏線の回収が見られました。

というわけで、今回は「トド松と五人の悪魔」のリフレイン、というよりも、一種のアンサーに近いものであったのではないかと思います。

この二本は共通して、「ワンランク上(外部とのコミュニケーション、就労、童貞卒業、馬鹿にされない人格etc…をクリアしている人間を指す)になろうとする六男、それの邪魔になる5人の兄」という構造を持ちます。結局六男がワンランク上になり損ねるというオチも一緒です。

しかし明確に異なっている点が2つあります。一つ目は「松野家家族ゲームの存在」であり、二つ目は兄達の「故意」です。これが二つのストーリーが1クール目と2クール目にある理由としてあり、すなわちなごみの魔法が消えたことを明確に感じさせる点としてあります。

 

というわけで、そこについて考えるためにも、トド松という人間について考えたことをつらつらと書きたいと思います。

トド松という子への22話までの私の評価はこうです。

「六つ子の中でも高いコミュニケーション力を持ち、空気を読むことが上手。兄弟たちを地獄の足枷と感じ脱出を試みるが、松野家家族カーストゲームでの他の兄弟のルールに触れるため全力で阻止される。普段は長男に同調し発言力を持つが、実質は下位。環境によって思考停止させられていたが、「ライン」回周辺でカーストから離脱することに成功。プライドは高いが自己肯定感もそこそこ持っている。」

 

松野家家族ゲーム観については以前のものを参照いただくとして、とりあえずはトド松はこの家族において弱い位置にいました。なぜなら、この六つ子は最近まで、主に三男と四男によって保たれてきた均衡のなかにあり、彼はそれを崩しかけては粛清されていたからです。

そのために彼は、パチンコで勝ったことを隠したいと思いつつも何もできなかった。思考停止状態にあったわけです。

 

そんな彼の枷であった松野家の家族ゲームは、いまや完全に停止しました。四男は自分を危険人物として演出し兄弟を管理することを放棄し、三男はダメ人間であることを認め六つ子の正義の座から降りました。松野家は大きく変質しました。

その結果、彼は今回、「足をひっぱらないでほしい」ときちんと告げることができ、兄弟たちはそれに異議を唱えませんでした。ものすごい変化です。とんでもない変化です。

彼をとりまく状況はずっと改善していると言って良い。彼はもう迫害の対象ではない、希望の星です。

 

しかしながら、この変化によって、彼は同時にとんでもなく残酷な現実を叩きつけられることになります。

それは、「お前の兄弟はクズだ」ということ、「しかしお前が最下層にいるのは、兄弟だけが問題だったのではない」ということ、そして「お前は外の世界では大したことのない、何も持っていない男だ」ということです。

 

「五人の悪魔」では、完全に兄弟が悪者でした。そしてあれはわざとやっていた。ゲームのルールに反した弟を制裁するために彼らは店を荒らしました。あれを見た視聴者も、トド松自身も、彼が自立してうまくやっていけないのは兄弟が足を引っ張っているせいだと感じたはずです。そしてトド松があの中で最もまともな、最も自立できる可能性のある人間だということも明白だと思えるようにできていました。

しかし今回、兄弟たちは(おそらく)素です。家族ゲームが崩壊したあの時点で、うまくいけば女の子と知り合えるチャンスを台無しにしてまで悪ふざけをするメリットはありません。

5人がとんでもないクズっぷりをここぞとばかりに披露してくれたわけですが、それを目の当たりにした上で、トッティは「でもそんなのはお前のダメさとは関係ないよ」と言われるわけです。もう兄弟たちのせいにはできません。彼が呼んだのはアツシくんであって兄弟の誰でもなかった。あの場でトド松が相手にされなかったのは彼に原因があります。

 

しかも、今回わかったことですが、彼が合コンをセッティングし、面子を集め、なんとしてもそれを成功させようとしていた理由は、もちろん彼の意志はありますが、それに加えて「義務感」がありました。

以前三男の話をしましたが、彼もまた、六つ子という集団が変化していく中で、「僕はちゃんとしていなきゃ」という意識を背負わされていた人間でした。

ただ彼の場合は、自分というものを理解し、自分の特技や長所を把握し、六つ子の状況を把握した上での「ちゃんとしなきゃ」でした。「ルックス担当誰がやんの?」という台詞からもわかるように、彼は「六つ子の中での自分の立ち位置はどういうものか、どういうものであるべきか」という視点を持っていました。彼は自分が兄弟の中で比較的、コミュ力が高く空気が読め目立つのが好きで愛想が良い、平ったく言えば社交的であると考えた上で、その「六つ子を社会的に存続させる」任務を負うことを引き受けました。

 

つまり、つまりですよ?あの神様の言うことが正しければ、トド松は六つ子の存続という使命感を持って動きながらもその方法が原因で粛清され最下層にいた、ということになるんですよ?すんごい可哀想。ものすごく可哀想。

「こんな兄ちゃん達で、ごめんな」「恨んでるよな」という長男の言葉(あまりにもど直球に家族問題に踏み込んできてびっくりしたのですが)を聞いていたトド松の内心はものすごく複雑だったことでしょう。

 

というわけで、そんな希望の星トッティが一人きりで合コンという社会的な場で叩き潰されることは、六つ子を救える価値ある存在であるという自負、そのために迫害に耐えた過去、加えてそれの根本にあった社交的であるという自己認識、すべてを無に帰してくる大事故だったわけです。

 

こんな残酷なことがあるだろうかって感じです。彼を相手にしない女の子から与えられた名前は「何も無し男」。たぶんあの時のトッティは「そんなことないよ」と反論する気力はなかったことでしょう。彼の陥っている状況はわざわざ言われなくてもその事実を痛感させるものでした。

もう彼には「兄弟が足を引っ張るから」という誤魔化しは効きません。みんなのために、という苦しくも甘い使命も効きません。なごみの時間は終わりました。彼は一人きりで「何も無し男」から再出発しなければなりません。

 

なんというか、今回えげつないのは「兄弟のため」という概念をはっきりと出してきて、それを破壊してみせたことだと思っています。いい話に見せかけておいて、やっぱりそうはさせない。ドライモンスターと呼ばれるトッティが兄弟のことを本当はきちんと思っていた、それは確かに喜ばしいことかもしれないけれど、単純に「よかったね」で済ませていいことじゃない。そもそもトッティはレンタル彼女の時にわかっていたように、誰かに頼られては「しょうがないなぁ~」と言いながら力になってあげることに快感を覚える人間だったのですから。 

「誰かのため」に動くことを気力にしてしまいがちな人間にとっては非常にお腹の痛い話題です。私だ。

何ていうか、誰かのため、に動くのが好きで、でも実際はそれが自分の不満やら承認欲求のための道具であることも確かで、でも誰かのために、は別に嘘をついてるわけじゃなくて本当にそう思っていて…う~んスパイラル。

でも、「誰かのため」をもう使えないよ、と言われたら途端に自分の中に何もなくなってしまうという状況は非常にまずい、ということはわかっているのでなんとかしたいと思います。これからの抱負です。頑張ろうぜトド松……

 

という、最終回を目前にして二番底作ってくるとは思わなかった今回でした。

 

余談ですが、トッティが「何も無し男」扱いに合コンという場でなってしまう理由の一つには、「会話のフックがあまりにもなさすぎる」というのはあるだろうなぁと思っています。

同世代の子とこれから仲良くなるためのお喋りをしようとした時、とりあえず学生なら大学、社会人なら会社や業界の把握から入るのって順当な方法だと思います。ああこの人は自分よりこのぐらい上か、とか、共通の知人を探したりとか。車持ってるってことはこのぐらいの仕事か、とか。そこから会話を広げていったり、話し方を変えたり、そもそもこの人と話し続けるかどうかを決めたりする。そもそも相手の簡単なステータス無しに会話を繰り広げるのはかなり不安です。まともなコミュニケーションをとりたいと思う人程、相手との関係を測って適切な対応をしようと考えます。

彼は決定的にそこに欠けている上に、おそ松などと違いニートであることを誇らしく話すこともできない。彼はそれをやったら女の子は絶対にこっちを向かないことが分かっています。だから話すきっかけがない。家族のことも恥ずかしくて話せない。黙るしかない。そりゃ趣味も増えるわけです。

2話でのハロワなど相手の立場がわかっている場、今日一日楽しく過ごす軽く無責任なデートは乗り切れますが、さああわよくば今後につながるトークをしようという場では結構辛いものがあるのではないかと思います。

 

でも逆に言えば、つまりはそのステータス方面がなんとかなれば改善の余地は十分にあると思うんだけどなぁ……

まぁ彼はたくましい強い子だし、頭も良いのでそのうちなんとか策を考えてくれると思います。期待してます。

 

次回からしばらくこられないかもしれません。さびしい。

更新できない間にまだまだいろいろ考えようと思います。

 

 

お粗末さまでした。

 

「おそ松さん」ドラ松CD 猫と飼い主と彼の王国の物語

「勝訴」って書いた紙を掲げて走り回りたい。

 

どーもこんにちは。

今回は、「おそ松さん」お仕事体験ドラ松CDの話をしたいと思います。

ネタバレになりますので聞いてない方はぜひ買ってください。おそ松推しと一松推しなら絶対買って損したとは思いません。すごいから!ほんともうすごいんだから!

加えて、今回はもういつものしんどい私の話なんかどうでもいい、ひたすら二人についてごちゃごちゃと語りまくる回となっております。ついでに、普段ここで言わないように抑制しているキャラ観を惜しみなく出していくかんじになっていますので、「えっ今のどういうこと??最初から説明しろよ!!」というものも増えると思います。なんというか、今回は本当におそ松担がパッションで書いてるだけのおしゃべりです。

生暖かい気持ちを持って薄目で見てください。

 

 

 

いいですか……?みんな逃げた……?

 

いっやーーーーー、とんでもなかったですね。演技脚本キャストコメントジャケットに至るまで最高でしたわ!!!

 

さてまずはこのCDとアニメとの時系列的関係について考えたいと思います。

このアニメでは兄弟同士の関係性がけっこう頻繁に変動している感があるので、このおそ松一松の二人の関係が本編におけるどのへんかというのがまず気になります。「いつ彼らが占い師体験をしたのか」というよりは、「どの時間軸の関係性をひっぱってきたのか」ということです。

完全に個人的な見解ですが、①「トド松のライン」周辺、「一松事変」以前 ②本編最終回後 の二つがありえるのではないかなと思っています。とりあえずこのCDが発売された18、19話周辺の時間軸ではない。

何故そう判断したのかというと、まず①は、「ライン」の「えらいね~社会に出てもやっていけるんじゃな~い?」「あざ~っす」をやっていたころの二人の空気感がCDの内容に最も近く、加えてそれは「事変」での一松がおそ松の陰口を聞き「殺す!」と叫ぶまでの関係性だと感じたからです。②は、「①でないのならもう見当がつかないし、アニメ全体の着地点がどこになるかもう私には想像がつかないので無限の可能性がある」というぐらいの雑な理由です。

ではこの①の時期の一松が何をしていたかというのを思い出すと、たぶん六つ子の管理人の仕事から手を引き始めていた頃だったと思います。「ノーマル四男」であることが晒された頃。なんというか、今までの危険人物に見せようとするポーズを捨て始めた頃です。

というか、彼の危険さの演出は六つ子という共同体を守るため、ひいては友達を作れない自分がその中でいつまでも暮らすためのものです。その演出が通じなくなったとき、彼が選んだ生存のための手段は長男や三男など、六つ子依存の高めな兄弟につくことでした。14話もその次の15話でも、彼はだいたい長男の横に陣取って、わりとのほほんとしています。

 

で、そんな彼が占い師をして、おそ松をお客に招きます。

いやーよくしゃべることしゃべること。(ドラマCDなので当たり前なんですが)

やっぱりなんだかめちゃくちゃ仲良しオーラが出ています。

特に、彼は好意を素直にそのまま言えない男なので(逆に死ね精神)このCDの中ではしょっちゅうおそ松兄さんを罵倒しているのですが、それがなんだかすごく楽しそうに聞こえるのはたぶん私だけじゃない。

(余談ですが、親しい人と距離感を唐突に詰めすぎて、私が何をしても彼は許してくれるはずだという謎の期待と安心感を持ってしまう人を時々見ますし、一松もその典型だと思うのですが、失敗すると悲惨なことになるので気をつけた方が良いと思います)

 

第一パートで彼が主張したのは、「俺は目的のためなら手段を選ばない男だよ」ということです。それは本編中でも察することができた彼の性質であり、彼のセールスポイントでもあります。

今まで、誰にも言わずに黙って、手段を選ぶことなく捨て身で六つ子という概念を守ってきた一松は、この辺りで機能を停止しつつありました。そんな彼が、このコミュニティの主に対して伝えたかったのがこれです。「目的のためには手段を選ばないよ、犯罪まがいの手だって使うよ」「ねっ、僕って有能でしょう?」「だから褒めてください」

自分の生存のための戦略としての、六つ子の象徴たる長男への自己アピール。

 

それではそれに対しておそ松はなんと答えたのか?

それがBパートです。

おそ松は、まず「お前の他にも新しい家族がいるんだ」と告げます。びっくり。一松が必死に守ってきた世界以外にも、俺には世界があるんだよ、という返事です。しかもそのために六つ子コミュニティを捨てることができるという。

それに対しての一松の返事は、「そんなものはいいから、手段を選ばない俺が壊すから、六つ子の中に帰ろう」。

「五人の悪魔」しかり「ライン」しかり、一松の行動は一貫しています。相手が虫であろうとコケであろうと変わりません。

 

「俺は作ろうと思えばお前ら以外にもコミュニティを作れるんだよ」という宣言にも屈しない一松に、おそ松は次の段階を見せました。

それが地下帝国であり、地底人の皆様です。

私本当にびっくりしたんですけど、今までさんざん長男のことを「六つ子社会の王」「神様」「アイドル」と言ってきて、それはもちろん比喩だったんですけど、今回なんとそれにお墨付きがもらえました!!やった!!勝訴!!おそ松兄さんは王様です!!

先ほどの虫たちは家族、おそ松もその一人でしたが、今度は国民と王様です。

彼の王国は、円満な形ではありません。謀反が起こっていますし、暗殺もされそうになっています。旗は燃やされてるし矢も飛んできます。う~んどっかの兄弟っぽいなぁ。

しかし、おそ松はそれをなんとも思っていません。

自分の国が傾いでいること、自分が国民から支持されていないこと、命の危険があることを、彼は知った上で、「別に気にしな~い」と言い放ちます。

 

おそ松から一松への本当の回答は、「俺の王国はこんなかんじに危ういし、俺の命もこんなかんじに危ないけど、俺はそれでも王様をやるよ。それでもお前は、本当に俺と一緒に王国を守っていく気があるの?」

ここまで来て初めて、一松は「一人で帰る」と言いました。

 

はっきり言っておそ松兄さんの精神構造と政治力とカリスマは特異というか、理解できないというか、普通についていけるものではありません。ほとんど驚異的な美学と言って良い。一松はノーマルであり、加えて主人公にはなりたくないしなれない人間です。自分の国が崩壊していく上に嫌われているという状況で王様をやっていられるなどという「死に至るポジティブ」についていくことはできません。

 

長男の炎上する王国の姿を見た四男は、ふいっと新しい飼い主の元を去りました。そしてふらふらと家を出て猫カフェに就職してみたりしましたとさ。

 

 

なんというか、もう「お仕事体験」「占い師」っていう枠すらも捨ててこんなトンデモ話をやってくれたことに本当に感謝しています。ありがとうございます。なんてことしてくれたんだ。最高です。長男の王国は本当にあったんや…

 

加えて、フリートークが本当に良いんですよ。キャスティングに心から感謝したい。特にイベントや13話でもそうでしたが福山さんから出るシビアなキャラ観コメントが素晴らしすぎて首をぶんぶん縦に振りながら聞いてしまいました。攻撃は最大の防御…チョロ松が一番クズ……いい話に見せかけた話…悪意…うう……語録作りたい………

 

正直に白状すると、「二人組でドラマCDやります!」って言われた時には「なんでそんな血迷ったことを…」って思ったんですが本当にすみませんでした。すごく良かったです。

 

でも一松ははっきり言ってお前甘えすぎだろう!!というのが最初の感想です。何安心してるんだよ!!そんなことだからおそ松兄さんが親切に現状を説明してくれたんだぞ!!兄さんはちゃんと家賃水道光熱費も気にしてるぞ!政府を運営するっていうのはそういうことなんだ!!お前は工場の名誉班長が性に合ってるんだよ……

 

最後を説教で締めてしまって申し訳ないんですが、本当に良いCDでした。ここまで読んでくれた人は視聴済みの方が多いのだとは思いますが、もし聴いてない人が!いるのなら!ぜひ聴きましょう!おそ松兄さんが最高に可愛いから!!!!

本当に、正直1クール目の時おそ松担やってるのが割としんどくて、もう担降りしたほうが楽になれるんじゃないかレベルだったんですけれど、もう迷いません。長男サイコー。カリスマレジェンドだよ兄さん。これからも応援するからね!!

 

 

 

お粗末様でした。

「おそ松さん」21話B しんどい私はクズとして生きられるかという話

バカボンのドラマ化が本気で心配。

 

 

どうもです。

今回も21話感想いきます。

 

Aパート「麻雀」に関してはもうすごく性格そのまんまで、チョロ松は嘘をつかないとかカラ松が勝ち方にこだわってゲームに向かないとか、今回長男のモノローグがないとか、もうとにかく様々な情報に溢れていたのですが、だいたいいままでの繰り返しになってしまうのと麻雀詳しくないので人におまかせします。とりあえずめちゃめちゃ楽しかったです。

 

で、でさーーーーーーーー

問題はB「神松」なんですけれど。

以前19話感想で、チョロ松が処刑されたという話をしました。加えて20話感想で、「このアニメはチョロ松の死によって転換を始めた」というようなことも言いました。

今回、本当にそれがやってきてしまったという感じがありました。

 

Bパートの簡単なあらすじです。

・銭湯でチョロ松が働きたくない、自分もダメ人間であるということを認め宣言する。

・十四松は隣に六つ子そっくりな謎の男がいることに気づく。六つ子の話にさりげなく加わっているのだが誰も気がつかない。

・就寝直前にやっと全員が彼の存在に気づく。彼は「神松」と名乗り、自分は六つ子からこぼれ落ちた善の心が集まって生まれた、7人目の兄弟だと言う。

・神松は六つ子たちの望むことをし、就職をし両親にお金を渡す。両親は喜び、さらにはこれが普通だったのかもしれないと、今までのニート養育を省み始める。

・追い詰められた六つ子たちは神松を抹殺する計画を立てるが、その悪巧みによってこぼれ落ちた善の心で神松がパワーアップし、トト子ちゃんも奪われてしまう。

・(いろいろあって)六つ子のクソな部分が集まって生まれた「悪松」によって神松が殺される。悪松は「己のクソさに自信を持て」と言い六つ子の中へと戻る。

 

今回は、「開き直って生きるということはどういうことなのか」という話だったと思っています。

私はこのアニメが、きっと「この世に意味はないし全くもって絶望的なものだと気づく過程」と「意味はない絶望的なこの世をそれなりに生きていく方法論」

(「おそ松さん」1クールを終えてしんどい私は何を考えたかという話 - バックヤード)

をやってくれるのではないかと考えていました。

そして前者は順調に繰り広げられ、お金や女の子とか見栄とか労働とかってみんな嘘じゃんという「この世界はクソ」も「俺はクソ」も目に見える形になって現れたわけです。今回で、最後の一人だったチョロ松が「俺はクズです」と宣言して、それは完成しました。

そして彼らは、「開き直り」という力を手に入れました。

チョロ松が顕著すぎるので彼を例に挙げます。発狂した後に何があったのかは知りませんが、彼は「僕もダメ人間」と認めるに至りました。きちんと死んだわけです。

別に今まで意図的に嘘をついていたのではありません。「麻雀」でもはっきり言われた通り、彼は嘘をつけない人間です。彼は今まで、自分が働きたくないと考えているということに無自覚でした。彼はビッグバンを経て、それに気づいた。そして認めました。「僕もダメ人間」という言葉のとおり、六つ子はこれで全員が「ダメ人間」になりました。

それに対して、彼らは開き直って笑いました。いーじゃんクズで。それが俺たち六つ子なのだから。そのクズっぷりを僕は愛してる!彼らの多様性が生まれた結果の産物であるチョロ松が死に、彼らは一周して元の「六人で一つ」に戻ってきました。揃ってクズ、これでいいのだ!!

 

正直なところ私は、このアニメはここにたどり着いて終了だと思っていました。クズでいいじゃん。それはもう事実だから、それを肯定して生きていこうよ、と。めでたしめでたし、と。

 

しかし、このアニメはまだ終わりませんでした。

ずっと「これでいいのだ!」に対して、「もう、これでいいのだとは言っていられない事態に僕たちは来ているんだよ」と言い続けてきたこのアニメは、今回もちゃんとカウンターを打ってきました。

 

神松は、一応は六つ子の良心であったチョロ松が死んだことによってこの世に生まれた存在です。完璧かつ理想、加えて無欲です。彼は圧倒的な善です。彼は就職をし、お金を払い、トト子ちゃんと、アイドルと信者としてではなく恋人として付き合うことができます。

彼はその力によって、両親を「正気に戻し」ました。つまりは、両親はずっとニート6人を養うという狂った環境になごまされていたわけです。なごみの魔法は、お金という現実的な方法で解けました。

これが決定的な引き金となって六つ子は仲良くほがらかに神松抹殺を計画するわけですが、つまり、つまりですよ、彼らの開き直りというのは、いまだに彼らのぬるま湯世界を維持するための道具にとどまっているんですよ。

 

最終的に(いろいろあって)彼らは彼らのクソな部分の集合体「悪松」を呼び出して神松を殺します。呼び出したとはいえ、悪松の立場は六つ子よりも上。彼を呼び出したとき、六つ子は空っぽになって転がっています。

悪松は六つ子たちが手にした鋏や銃などとは別格の力を持っています。一瞬で神松を叩き潰せます。そして言います。「舐めるな」「己のクソさに自信を持て」

悪松は「自分がクズであることへの開き直り」が可視化できるようになったものです。それは大きな力を持っていますが、おぞましい姿をしています。それを使いこなすには、六つ子はまだまだ足りない。

 

「わかりましたよ、はいはい俺はクズですよ。いーじゃんそれで。これでいいのだ!」と言えるようになった六つ子に今回叩きつけられたのは、「全然よくねーよ」「甘いんだよ」「本当にクズとして生きるっていうのはこういうことなんだよ」「で、お前ら本当にそれでいいの?」

 

「神による地獄」とおそ松は言いました。正確には神松によって、自分たちがぬくぬく生きていられる世界が破壊されゆくことを指して地獄と言っているわけです。

彼らの開き直りは、まだ現実逃避の域を出ていません。一松の卑屈さに近いものがあります。はいはい、どうせ俺はゴミですよ、と言ってそれに安心しているレベルです。

本当の悪というのは、もっともっと危険なものなんだよ、で、お前はそれに耐えていけるの?そんなんじゃまだ足りないよ、それでもその路線でいくの?お前らの安易な開き直りなんて、なんの役にも立たないんだよ。

 

それを告げられるのって、すごく苦しいし辛い。何も考えていなかった頃から、現実を直視して苦しんで、いいよそれでもと言えば今度は楽しく暮らせるかと思ったら、「お前それでいいの?」

わかってるよそんなこと。もういいよ、私そんなに強くないもの。本当に胸を張って悪人としては生きられないもの。私にはこの辺でいいでしょう?許してよ。

 

それでも、それを言ってくれたことについて、私は当初想定していたよりもずっと、このアニメは誠実で親切だと思いました。「これでいいのだ」を掲げる赤塚イズムの世界において、それに挑む視点としてこんなに丁寧で真面目なものはないと思う。

「これでいいのだ」に「よくねーよ」とこのアニメが言っているのは、その哲学の否定ではなくて、「これでいいのだ、はそんな甘い安易なものでは断じてない!」ということだったんですよ。それってすごくまっとうで、かっこいい姿勢だと思いません?

 

あと残り3話、まだまだこんなところでは物語は着地しません。

すごいなぁ本当に……。次回も楽しみにしてます…。

 

 

 

お粗末様でした。