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アニメ「おそ松さん」を血を流しつつ視聴する

「おそ松さん」10話 しんどい私がポリティカル・コレクトネスについて考えた話

こんにちは。

卒業論文が終わったので心置きなくエントリがかけます。

配信もあったことですし、10話Aというかレンタル彼女について書いておこうと思います。釣り堀の話は前回したので。

 

今回は、10話を見て女性というものとかなんやかやについて考えてみたよという話です。

 

そういえば私は以前ここではないどこかでポリティカル・コレクトについての考察をしたことがありまして(たしかベイマックス日本版コミカライズについて)その時のが私史上ではかつてないぐらいに拡散されましてあーだこーだと少々火の手が上がり、すわこれはキャンプファイヤーかとマシュマロを買いに行って帰ってきたら既に鎮火していたというようなことがありました。世の中いろんな意見があるし文脈を汲んでくれない人もいるし社会というのは面白いものだと思ったのですが今回も少々そういう話になります。

はい、声を揃えて! \自己責任エントリ!!/

というわけで始めます。

 

10話「イヤミチビ太のレンタル彼女」をざっくりまとめると

・レンタル彼女というビジネスを知り、女装をしてお金を稼ごうとするイヤミとチビ太

・全く売れない上に六つ子に馬鹿にされた二人はデカパン博士の美女になれる薬を飲んで美女に変身し、六つ子を夢中にさせ金を搾り取る

・薬の乱用で効果が薄れ、正体がバレ、六つ子に復讐される

というのがめちゃくちゃ雑なストーリーまとめです。

 

今回のポイントとしては、「レンタル彼女」とはどういう存在だったのかという話と、それをアニメでギャグとしてやることについてという話です。

 

最初にこの「レンタル彼女」って何なのさという話をします。

とりあえずこの世界に「レンタル彼女」という現実というか生生しさを持ち込むのがすさまじいなと思いますがまぁそれはそれ、

この話のキモは、

「男が男のために男の理想の女を演じ、それに中毒する男」

という構図のヤバさだと思います。

 

イヤミとチビ太は男性です。
男性である彼らが「女」を商品として売ろうと考えたわけです。(その女が自分であるというのがギャグなのですが)
その結果、彼らは六つ子、とにかく女の子には耐性がなく無邪気で疑いを持たない存在である彼らを虜にすることに成功しました。
なぜなら彼らは男であったから。男性が求める理想の女性像というものを的確に演じることができたのです。


そのわかりやすい比較としてトト子ちゃんという女の子が登場します。

彼女は自分が可愛いと思う格好をします。そして、それは当然褒められるものだと思っています。そしてそのズレはそれ自体がギャグになるほどすさまじい。

(彼女に対する10話以外の六つ子の感覚は置いておいて)
視聴者は、男女問わず、無意識的に「アイドル」というものに「男受け」「もしくは世間が「これが男受けするもの」だと感じるであろう要素」を要求しており、そうでないトト子ちゃんの格好を「ギャグ」「笑いどころ」として受け取ります。
本当に無意識的に、です。8話「トト子の夢」ではそうでした。

しかし、10話で彼女がシャコの格好をして出てきたとき、比較対象を得てそれは意識されるようになります。
つまり、「イヤ代とチビ美は男にとって魅力的だ、比較するとトト子はそうではない」
もちろんトト子ちゃんは可愛いんです。めちゃくちゃ可愛いんですよ。でもたぶんこの場面では「違う、ズレてる」ってなるはずなんです。

 

さらにこのアニメが確信犯的であるのは、二人のぼったくり方。
イヤミはチョロ松から、基本料、手をつないだオプション料に加え、

目があった料、周りへの優越感料、生足、おっぱいチラ見料、たぶん一生経験できない思い出料

を請求します。

イヤミは男性が美女を連れて歩くことが、男性にとってこういうことを意味している、価値が有る、とはっきり断言し、当然のごとくその分の料金を男性に請求した。

なぜなら彼は男性であるからです。男性であったからこそ美女を横に置く価値を理解し、男性であったからこそそれを主張し報酬を受け取る権利をかざした。

ヤバくないですか??

私はめちゃめちゃヤバいと思いますよ??

 

 

さて、ここからが次の話なんですが、こういう話をアニメでやるということはめちゃくちゃすごいことですよっていうことです。

 

もう一つ例を挙げます。

10話の初めに、六つ子は女装をした三人を罵倒します。
それは、「知り合いの女装のクオリティが低く、見るに耐えなかったから」ではなく、
「醜いから」というものでした。
彼らはイヤミとチビ太とダヨーンの名前を挙げることはしませんでした。
気づいていたのかいなかったのかというのは問題ではない。
「じゃーな!ブス!!」という罵声からもわかるように、彼らは人間(女)の価値を美醜で判断し、価値がなければ罵って良いと考えた。

ここは腹を立てたっていいところなんです。指を指して糾弾して良いところなんです。人の価値は見かけの美醜にはよりませんし、醜ければどんな扱いをしたっていいかといえばもちろんそんなわけはありません。それでもこういう嘲りの言葉は目にしない日はないほど現実問題溢れている。

 

でも、制作する側がその「人を醜いと言って罵るのは間違っている」という自覚を持った上で、
「これはギャグである」という体裁をとれば、そしてギャグであるという期待を視聴者が持って見れば、それは正当なギャグになりうる。

 

私たち視聴者は六つ子がその罵倒の報いを受けるということを予想して見ることができますし、実際そうなります。彼らは自分が馬鹿にした二人に金を巻き上げられる。
私の心は穏やかです。面白かったなぁ、と笑うことができる。

 

この「間違っているとわかった上で」「間違っている自分たちを嘲笑ってみせる」というものがこのアニメはめちゃくちゃ上手いんですよ。
そして何を「間違っている」とし、その間違いがどれだけ巷に溢れているかという認識がめちゃくちゃ気持ちいい。

時々槍玉に挙げられたりする様々なコンテンツって、ここがずれてるんですよ。
まず、「間違っている」という自覚を持っていない。
それから、それを「間違っている」と消費者に感じさせるのが下手。
そしてそれを「わかってやっているんですよ」というアピールが下手もしくは過剰。

 

もちろんここでいう「間違っている」のが普遍であるか本当に間違っているのかという問題は全く別の問題なのでここでは問いません。

 


私、こういう、なんだろうポリティカル・コレクトが近いけどなんかしっくりこないな、ゆるく言えば「社会的に倫理的に、今の時代のいろんな立場の人たちが楽しめるものをできるだけ目指していこうとする努力」、みたいなものに対しては、

「それがあれば良いという問題ではないし、ないものは即刻排除されるべきだとも思わない。ただこれから世に売れるものを生み出そうとするのならそのへんのセンスはほしいし、その感性があったほうが売れるという流行を察知するセンスがないというのはダサい」

というぐらいに考えています。モノ作る人ならそのへん鋭敏でいてほしいよと。
本当にポリティカルにコレクトなマインドを持っている必要はもうこの際なくていいから、それがないとか今時ハヤらないぜという感覚がほしいよと。

 

そういうことが、このアニメはめちゃくちゃすごい。
脚本や演出がすごい。赤塚ギャグというラッピングがすごい。ついでに自己責任アニメだという予防線も貼ってある。つよい。

現代で女性であるということがどういうことか、そして男性であるということがどういうことか、そしてその両方がどれだけ嘘と軽蔑と不愉快な消費に塗れているか。

これだけの情報量がたったの20分です。本当に恐ろしい。つよい。勝てない。

 

 

今回の話の結論は「おそ松さんつよい」です。ありがとうございました。

 

 

お粗末様でした。