「おそ松さん」14話B しんどい私にはラインがわからないという話
いえーーーーーーい!!!!!!
13話について書いている場合じゃなくなった!!!14話!!!!
よくやったトド松!!!今日が俺たちのインディペンデンス・デイだ!!!!
おめでとう!!今夜は最高!!さぁ踊ろうぜ!!やっほーーーーい!!!
以上が私の14話の感想なんですが、これで終わりにするわけにもいかないので何か書きます。
えーっと、14話Bパート「トド松のライン」についてです。
あらすじをまとめるとこう。
・トド松がジムに行こうとしていることを見つかる
・彼がジムに通っていることを知らなかった兄弟達が問いただすと、他にも、彼が兄弟に黙って囲碁クラブに通い、富士山に登っていたことがわかる。
・おそ松とチョロ松によって兄弟会議が開かれ、どこまでが兄弟に報告しあうラインかについて話し合う。
・怒ったトド松は自分のことを先に全部知ってもらえば解決すると、自分の全てをプレゼンすると言い出し、自分の好きな兄弟のランキングを発表すると言う。
・それに怯えた兄弟達は話し合いを切り上げ、チョロ松はなんの報告の必要もないとトド松に告げる
・その後銭湯に行こうとしたその時、十四松が株式について電話をしているところを目撃し、俺たちお互いのことを何も知らない、とおそ松がつぶやく。
今回AパートBパート同じ部屋の中でだけで会話だけで面白く話を回すのって本当に演出と脚本が凄まじいなと思いました。
さて、ストーリーの中では、トド松は兄弟に言うべき「ライン」がわからない、ドライモンスターである、ということになっていました。つまり、あの場での異常分子はトド松であったわけですが、
本当にそうなのか?
むしろ、「ライン」がわかっていないのはおそ松とチョロ松の方なのではないか?
このブログでは趣旨が違うので説明してないんですが、私の松野家ディストピアサバイバル家族ゲームとしての捉え方の中では、
六つ子という概念そのものであり神であるおそ松、長男をトップに置き平等な五人の弟を維持するマネージャーチョロ松、二人の思惑に従って他3人をあるべき場所に縛る実働部隊名誉班長一松
がこのゲームの回し手であるという視点で見ているので、今回はこのあたりとトド松についての話になります。そのうち既にまとめて書いてあるのを載せるかもしれない。
というかこの話がまんまその構造をしていて、カラ松と十四松は今回の会議でもほぼ空気なのでこの二人は置いておきます。
さて、やつら六つ子がクズである理由の一つには「六つ子という概念に縛られ、お互いを地獄の足かせと思いつつ離れられないこと」があるわけですが、それをトド松はよく知っていました。
彼らがこの居心地の良い地獄(ここが居心地のよい地獄であることは実松さんが説明しました)から離脱するには、相互依存から抜け出し、個人になるしかない。「僕はみんなで僕たちは僕」していてはいけないわけです。
しかし、トド松はそれを知りながら、六つ子に帰ってくるしかない男だったわけです。パチンコ警察でわかるように、彼は帰りたくないけれど、帰る以外の選択肢を考えることができなかった。
トド松はこれまで、高いスペックを持ち、兄弟をうんこな地獄の足枷と思いつつも、自分の帰る場所がそこにあると思っていたから、おそ松を立て、可愛がられるように振舞ってきました。
しかし、13話で彼は「要らない存在」と言われた。三男のその言葉に誰も異議を唱えてくれなかった。
もう、彼が「六人で一つの存在」である必要はなくなりました。
彼はその気になれば一人でもやっていけました。その気になっただけです。
そして、彼は他の五人との間に、暴力的に「ライン」を引いた。
俺はお前らとは違う存在なんだ、全部を共有し合って分かり合えるなんていうのは幻想だ、そしてそれを願うのは気持ち悪いことだと、彼ははっきり言った。
正確に言えば、「引いたことを見せつけた」です。
彼は今まで、兄弟にいろいろなことを隠していました。
でも、たぶんそれがバレないように隠す努力をしていたと思うんですよね。たとえばスタバァにバイトに行く時は、なんか嘘の言い訳をしたり、こっそり家を出たりしていたと思うんです。ジムも囲碁クラブも、今まで誰にも気づかれていなかったわけですから。
でも今回、トド松は堂々と、みんなの前で準備をしてから出かけた。
もう隠す必要も、それを偽る必要もないからです。
なぜなら彼はもう六つ子という一つの人格ではなく、トッティ(そういえばもう松でもないな…)という一人の人間なのですから。
なんかねぇ、いやここは自分の話する場所だってことにしてあるから話すんですけど、私この辺すっごいわかるというか。
単純な例を挙げれば、私中学の頃某漫画がすごく好きになって、ちなみにそれは私が人生で初めて読んだ「リアルタイムで人気がある漫画」だったんですけどね。
でね、それのキャラクターのカードがついたお菓子がありまして、私はそれを月一ぐらいかな、時々お小遣いで買っていたんですよ。
でも私はそれを母に言えなかったんですよ。ずっと隠していた。お菓子を買いに行ったことも、カードも、友人に漫画を借りたこと自体も。
絶対に怒られると思ったからです。でも、自分でもおかしいんですけど、母にそういうものを買ってはいけない、漫画を読んではいけないと怒られたことって、一度もないんですよ。中学生がお小遣いの範囲で好きなものを買う、というフツーのことだったんですよ。一枚100円ちょっとで、私のお小遣いは一ヶ月500円とかそんなんです。いたって健全です。
ただ、きっと怒られる、怒られたくない、自分が悪いことをしている子だと思われたくない、という一心で隠していたわけです。
まぁしばらくして(ほとんど大学生になってなんですが)こないだこういう漫画を読んだよ、このおもちゃ可愛いでしょって言っても何にも問題ないんだ!!!母は怒らなかったし、しかもこれは私が稼いだお金だ!!私は自由だ!!!!わははははは!!となったんですが。
これの生き残りが、未だに時々私をしんどくさせます。誰に頼まれてもいないのに、誰に締め付けられてもいないのに、自分でもそんなことやりたくないのに、そうしないといけないような気がして落ち着かない、諸々のルール。
余談ですが、アダルトチルドレン、依存関係で使われる概念に「境界線(バウンダリー)」という概念があります。
この自他の境界が曖昧になると、自分の欲求と他人の欲求が不明瞭になり、アイデンティティを確立できなくなるそうな。共依存、DV、トラブルを引き起こす原因になります、と。
このへんでお腹が痛くなってくる感じはあるのですが、まぁ置いておいて。
この「ライン」「境界」がわからないのは、もしかしなくても、兄たちのほうなんじゃないのかなぁ。
ついでにトド松は、ゲームマネージャー三男より、「もう何も話さなくていい」つまり、「一つの六つ子」でなくても良いと言い渡されました。
いけるぞ!!いいかんじに一松も疲弊してきた!!このが崩壊するまであと少しだ!!!このままつっぱしれ!!汚物は消毒だ!!!!焼き払っちまえ!!!
とりあえずそんなかんじに拍手喝采したい14話でした。おしまい。
蛇足ですが
綺麗事っていうのは、前者の過程の間は役に立たないクズですが、後者の段階では役にたつようになります。
例えば、人権の欠片も残っていない荒廃した場所で、もうそうしなきゃ生き残れないような状況に追い込まれた時に、そんな中でも「私は人を殺さない」と叫べる人がいるとしたら、その人は真に自由であるといえるのではないかしら。
私14話見て思ったんですが、もしかしたらカラ松の「それでも俺は兄弟を愛している」は、この居心地のよい地獄が終わったあとの最後に残る綺麗事になるかもしれない。
この世界が醜悪で、誰にも愛してもらえなくても、空は青いし、風は吹くし、太陽は輝くんです。
お粗末様でした。