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アニメ「おそ松さん」を血を流しつつ視聴する

「おそ松さん」16話 しんどい私が「腐媚び」言説について考えた話

こんにちは。みなさんいかがお過ごしでしょうか。

というわけで、いつものように16話について語りたいところなんですがちょっと待ってね

私は普段すごく狭いついったーランドで良識のあるふぉろわーさんたちに恵まれクリーンで暖かなネット環境を維持してきて、本当にありがたいなと思って生きております。

ので近所では何も起こっていないのですが、何やら?遠くの方で?今回の放送の内容によって各所キャンプファイヤーの周りでの学級会が起こっているというような?噂が流れてきました。

 

私の素晴らしきついったー環境からはそういうものは「探しに行かなければ見えない」ので私が「探しに行くか行かないか」によって問題は消えたり現れたりします。ネット社会では見えないものは存在しないのに等しい。ですので私は普段取捨選択自分の好みに合わせて、キャンプファイヤーを眺めに行ったり、踊りに行ったり、踊る人に話を聞きに行ったり、後から「こんなのあったよ」ととぅぎゃなどという名の写真を見せてもらったりしているわけです。それなりに楽しいインターネットライフです。本当に申し訳ないですが、ある種のエンターテイメントです。

 

しかしながら問題は、火元がすごく好きなものや譲れないものであった場合、「燃えているのも踊っている人もしんどいから見たくない」「しかし参加せねば自分の好きなものが自分の知らない場所で変質するかもしれない」「それは嫌だ」「好きなものは常に自分の問題にしておきたい」「でも見たくない」「あーあー存在ごと知らなきゃよかったのになぁ」というような、大変複雑な心情が起こります。とてもつらい。ほどほどに好きなものなら真っ先に踊りに行ってついでに裏拳で二三人殴っておこうかというノリなのに。

 

長々お前は何を言っているのかという感じですが、つまりは、今回の私は「何やらおそ松さんについてキャンプファイヤー開催のお知らせを見つけたけれどしんどいから行きたくない、しかしここで踊っておかなければおそ松さんクラスタとしての沽券に関わるし、ついでに二三人殴っておかなければ敬愛する関係者の皆様とともに歩むクラスタの皆さんに申し訳が立たない気がするので踊らなければ、しかし見にはいきたくないので自分の家の前あたりで踊ります誰か見てくれ俺の魂のダンスだ」ということです。

 

本当はこんなこと書いてる場合じゃないし、書きたくなかったし、早いとこ普段の感想喚き散らし作業をしたいんだ!!しかし私は踊らなければならない!!いつも読んでくださるみなさんありがとうございます!!読みたくない方はどうぞどうぞ今回は飛ばして、感想をもう少々お待ちください!!

 

今回も自己責任エントリです。よろしくお願いします。

 

はい、長すぎる前置きでしたが、今回のテーマは、どん

「公式の「腐媚び」について」

 

あーもうこの言葉使いたくないよ~~~でもこれが一番短くて端的に伝わると思うから使っちゃうけど、整理すると、

 

16話の内容が「腐女子(腐男子ももちろん含みますけど)から見て」とても

「自分たちが普段している妄想に近い」

「世の中で「腐女子が好む」とされているものに近い」

ものであったために、公式が

「私たちのために(私たち受けを狙って)制作した」

のではないかという発想を持ち、またそれに類する発言を始め、それに対して

「公式はそういうことをするのをやめてほしい」

「公式がそういうことをしていると考える人たちが騒いでいてうるさい」

などと感じた人たちが、

「目に見えたり誰かを攻撃する形でそれを発信」

しだし、あらゆる意味でそれを良しとしない人たちが殴り合いを始めた。

 

なるべく言葉をきちんと選んで厳密に言うということなんだと理解していますが合っていますか?残念ながら家の前で踊っているんだちょっとずれていたらごめんな。

 

 結論から言うと

「作者が客層サーチをするのは当たり前に認められる行為であり、俺のためにそれが用意された!と考えるのも自由であり批判されるものではない、しかしその「俺向け」にする努力に物語と作者が使役されているように断定するのは物語と作者に対して不誠実だ」

ということになるのですが、これからそれを噛み砕きます。

 

まず、製作者による客層のサーチについて。

これはこの時代(本当は時代なんて問わないんだけど特にこの時代)当たり前に認められる要素であって、何ら問題はないと思う。

 

「おそ松さん」が女性人気を意識したかどうかなんて私には全然わからないけれど、とにかく現在、天秤の傾きはあるにせよ男女どちらかしか見ていないアニメ、漫画なんて存在しないことだけは確かであって、「どちらかだけを、少なくとも疎外しない」ように作品を作ろうとするのがトレンドになりつつあるように思う。いい時代です。

ぶっちゃけ未だにどちらかを疎外したがるファンは多いけれど、制作者サイドがそれをやるのは商業的なチャンスを逃しているっていうことは自明。

 

それを踏まえた上で、手段を駆使して、どのあたりの層が見ているのか、どのあたりの層が一番お金を落とすのか、どのあたりの層に働きかけるのが新たな消費者を生み出しやすいか、という傾向を探るのが必要なことだ、というのはエンタメだけに関わらず商業目的があるものにとってはフツーのことだと思う。

もちろん、「俺の店には俺の料理の味がわかってくれる人だけ来ればいい」というのも自由ではあるけれど、すぐには成功しないし、これをやって何とか食っていけるのは一度ブレイクした後、広く認知された後の話じゃないかな。あとは趣味。

とりあえずアニメはそういうわけにはいかない。関わっている人数はめちゃくちゃ多いし、スポンサーはつくし、短期で成功しないといけない。10年後に「あれはいいアニメだったなぁ…」なんて言われればいいわけじゃない。言われないよりはまぁマシだけど、できる限り放映中に認知されて楽しまれて様々な手段でお金を払ってもらわないといけない。

そんな状況で、リサーチをするのは当たり前だし、それで良い、というかそうするしかないと思います。そしてその対象に、腐女子腐男子、いやいやもっと広くいこう二次創作者とその消費者たちが含まれるのもまた当たり前のことです。

 

その上で、制作者側には、そのリサーチに従うか従わないか、どの層にどのような形でアピールをしていくかしていかないか、という判断が任されているわけです。ついでに言えば、「視聴者」の中の「二次創作者・消費者たち」の中の「腐女子」を「腐女子」としてカテゴライズするかしないか、ということも任されているわけです。

 

そして、視聴者たちには、作品を見て、「自分たちが客に数えられた」と判断する自由があるわけです。その「自分たち」には「女性」「男性」「性的マイノリティー」「外国人」「腐女子」という段階から「仕事帰りにぼんやりアニメを流す人」「とにかくアニメには笑いを求める人」「ロボットのギミックにこだわりを持つ人」「毎日しんどいなぁって叫んで泣きながらギャグアニメを見る人」まであります。

その誰もが、「ああこれは私のための物語だ」と思う権利がある。そしてそれは他の消費者たちによって取り上げられて良いものではない。

「公式が俺を見たんだ!」と叫ぶのは権利ですし、「違う、地平線を見たんだ」と言うのも権利です。本当がどちらなのかなんてことは、前者にも後者にもわからない、ということを両者が認識している上でそれをやるのが自由というものです。16話のマドマパロ面白かったです。

 

 これはもうただの前提でしかない。この段階で喧嘩をしている人についてはもうはいおしまいですよよちよちと言う他ない。

その後にくる問題は、じゃあその「腐女子向けだ」と腐女子が感じた、制作者は狙ったんだ、ということについてだけで作品の価値と読みを云々することについてです。

 

はっきり言ってしまえば、私はその「私向けにしようとしたために物語が犠牲になった、製作者のやりたかったことが犠牲になった」ということが絶対に許せないし、よってそういった言説が嫌いです。

これは「あいつら向けにしてマーケティングしよう」を許す、というのと両立できます。小学生の女の子をメインターゲットにしよう、から製作者が作りたかったものを膨らませたり詰め込んだりするのは可能です。作りたかったものという言葉が指すのは制作者の趣味の問題ではなく、決められた枠の中での彼らの実現できる最善を指します。幼稚園児女児メインターゲットアニメに意地でもターミネーターを出したいとかそういう話をしてるんじゃない。

 

私たちには制作者の意図はわからない。汲み取るしかない。

ということを踏まえれば、実際がどうあれ「(任意の誰か)向けにしようとしたために物語が犠牲になった、製作者のやりたかったことが犠牲になった」と言い切ることは不可能です。それは本人たちが言わない限り我々がどうこうできることではない。

 

にも関わらず

「(任意の誰か)向けにしようとしたために物語が犠牲になった、制作者のやりたかったことが犠牲になった」

ということを盛んに言う人は、ただ単に

「私の望む物語ではなかった」

というだけなんです。それは思うのも自由だし言うのも自由だしそういうことはよくある。ただ、わざわざそういう言い方をして制作者の意図や物語のありかたを決め付け、あまつさえ批判する人には異議を唱えたい。それは傲慢で、不誠実だ。

「私好みじゃない」

とだけ言え。

 

それだけは絶対に正しい。どこにも間違いがない。

 

 

 

ついでに、もしもアニメや漫画の展開等が「急に私目線になった」「誰か目線になった」ということに戸惑いを覚えたり、上記のようなことを言いたくなったときに、いいおまじないがあります。

 

それは、「きっと私(誰か)には先見の明があったのだ」「きっと私は物語をおおむね制作者と同じような目線で捉えていたのだ」と唱えることです。

 

そうです。あなたは制作者から与えられたいままでの情報を整理した結果、そういうことになる読みをあなたの中で確立したのです。おめでとうございます。喜びましょう。

誰か目線になった?今回のこともまた新たな制作者からの情報です。いままでの情報に加えて精査しましょう。また新しい読みが生まれることでしょう。そんなあなたの話を私は聴きたい。

 

 

とんでもなく長いし、当たり前のことしか言っていないのですが、私の魂のダンスを誰か一人でも見てくれれば嬉しいです。一緒に踊ってくれなくてもいいから手拍子ぐらいしてくれれば嬉しいぜ。

 

16話についてはただの感想をまた書きます。

 

お粗末さまでした。