「おそ松さん」としんどい私と「裏庭」の話
おそ松さんを好きな理由と、しんどい世界をしんどいまま生きていくわたしについて
http://bkyd.kill.jp/bkyd/?p=70bkyd.kill.jp
おそ松さん感想のリタイアについてと架空の鹿のための追悼文
http://bkyd.kill.jp/bkyd/?p=251
察してください。
よくわからない、という方は今回のエントリは本当に読まなくても大丈夫です。
本当に大丈夫です。
前回も言ったとおり、ネットの世界では見えない問題は存在しないのに等しく、そして見るか見ないかを選ぶのもまた自由です。
まさか16話感想に行く前にもう一つ書かねばならぬことができるとはなぁ。
今回は、私は本当に私の自己満足のために文を書きます。
こちらを見ていただければわかるとおり、私のブログは冒頭の記事を読んだために、こういった形で公開されました。
私たちは自由です。考えるか考えないか、そしてそれを文字、絵、その他諸々のかたちにするかしないか、そしてそれを他の誰かに見せるかどうか、その選択をすることができます。
私は、おそ松さんの2話を見て、自分にはこのアニメから感じたことの言語化をしなければならないと感じました。そしてしました。
しかしそれを、人々に見てもらうかどうか、という段階には迷いがありました。
ネットの海に言説を放流するということは、本来勇気を必要とすることです。今は大概お手軽になってしまいましたが、本来そういうものです。いや、ネット如何に関わらず、形にして世に晒すということはそれ自体が勇気でしょう。
そして、私の書いた文章は、晒すとしたらネットの海が一番適していた。なぜなら、読んでいただいた方は察せられると思いますが、これは身内と友人には読ませたくない文章だからです。
そんな時に、前述のエントリを読み、ああ、こういう意見も公開して良いのかもしれない、いや、そもそもこれはただの誰も傷つけない感想なのだから悩む問題でもないのだ、誰かに見てもらおう、そうすれば何か、チラシの裏に書いていたときとは違う新しいことが起こるかもしれない、そう思い、私はこのブログを始めました。
そして、その結果、私は人から見ればささやかな量かもしれないですが、わかるよ、同じことを思ったよ、いい文章だったよ、という言葉を受け取ることができました。
もちろん、そうは思わないなぁ、そんなに考え込むもんでもないじゃないか、という言葉も飛んできました。それでも、私はこのブログを始めたことを後悔していません。
私へと飛んできた、多くはレスポンスを期待しない反応は、私にとって、チラシの裏の頃には得られないものでした。
私はこの数ヶ月間、それ以前には考えられない量の不特定多数の人からの言葉を得ています。
そしてそれは、私の勇気に見合うものだったと思っています。
私の文章は、私とできるだけ、関係のない人に届いてほしいものでした。そこに橋をかけるには、勇気と跳躍が必要でした。おそ松兄さんも言った。あなたと私の苦しさには、全然関係がない。その通りです。でも、だからこそ、そこに何かを生み出せたら、それは素敵なことなんじゃないか。
と、ここまで説明しておいてだ、私は今、とても怒っています。
私と前述ブログの管理者様とは、全く関係はありません。おそらく私のこともご存知ないでしょう。私は、今自分と関係のない人のために悼み、怒っています。
私は、ここで感想を書き続けることをやめません。
私はあのエントリで、全く関係のない私が「わかる気がする」「私もこういうことを書いて良いのかもしれない」と感じたことにはとても価値があったと思う。だから、私はそれを意味がなかったことにはしたくない。してはならないと思う。
私はこれからも、ここでどこかの私と関係のない誰かが見てくれるかもしれない場所に考えたことを投げ続けます。そこに何か価値が見つかるということを証明したいから。この世界がどんなに醜悪な悪意に満ちていようが、キラキラと光る「意味のある瞬間」があることを諦めたくないから。
私のブログの題名、「バックヤード」は、梨木香歩の「裏庭」からとっています。
私の大好きな小説、しんどさを感じた時に読み返す小説であり、「バックヤード」は元々、ツイッターでの私の裏アカウントの名前でもありました。
そしてあの物語は「傷を直視し、傷と向き合い、傷を自分に引受けることができるようになるまで」の物語です。私は2話を見て、ここを私の「裏庭」にしようと思いました。
前述のサイトと名前が被っていたことは、全くの偶然です。(正直、気づいたときにめちゃくちゃ焦りました)
繰り返しますが、このブログ名の間には、全く関係がありません。私と作者様にも全く関係はありません。
だからこそ、そこには意味があったのです。
本当に、ありがとうございました。