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バックヤード

アニメ「おそ松さん」を血を流しつつ視聴する

しんどい私の大好きなディストピアの話とやっぱり「おそ松さん」の話

こんにちは。毎度ありがとうございます。元気に生きてます。

 

私は以前から「松野家ディストピア説」を提唱し前回は「ひゃっほう!世界が滅んだ!!」とヨロコんでいましたが、私はディストピアが好きです。ほとんど性癖です。

私は本を読んでは、「これはよいディストピア」音楽を聴いては「ディストピアみある」などとかなりカジュアルな評価軸にこの言葉を使います。世の中のエンタメはディストピアものかそうでないかです。わりとフィーリングです。

 

あまりにもフィーリングなので、よく「どういう判断なんだ」「どのへんがそうなんだ」「しっかり説明せぇよ」とお叱りを受けます。ごもっともです。すみません。

というわけでここらで、「お前の好きなディストピアとはなんぞや」という話を一度ゆるーいかんじでしておこうと思います。

 

えーとまずきちんとした語義からいきましょうか。ウィキペディア先生によると

ディストピアまたはデストピア(英語: dystopia)は、ユートピア(理想郷)の正反対の社会である。一般的には、SFなどで空想的な未来として描かれる、否定的で反ユートピアの要素を持つ社会という着想で、その内容は政治的・社会的な様々な課題を背景としている場合が多い

ということです。語の初出は、ジョン・スチュアート・ミルが1868年に行った演説とのこと。主な特徴は

平等で秩序正しく、貧困や紛争もない理想的な社会に見えるが、実態は徹底的な管理・統制が敷かれ、自由も外見のみであったり、人としての尊厳や人間性がどこかで否定されている

 という描写があること。

ちなみに、混合しがちですが、世界の終末後の世界を描くジャンルのことは「ポストアポカリプス」と呼ばれて区別されるそうです。

しかし、世界崩壊後に反ユートピア的な社会が建設されるというのであればジャンルとして両立することもあります。ふむふむ。

 

というわけで基本的なお勉強は終わりです。

ここからはこれらが本当に厳密にこのジャンルが好きで研究している人に殴られる感じの話をします。

私は前述したポストアポカリプス、終末ものも大好きです。やったぁ滅ぼすぜ世界。行こうぜ荒野。火の七日間だイェイ。

ついでにそこを経由して築かれる反ユートピア、とはいえある視点からではユートピアでもあるというのがこの概念のニクいところなのですが、ディストピアというのは大変素晴らしいものだと思っております。ハンバーグに目玉焼き乗ってるかんじです。

しかし、私がどんなに目玉焼きハンバーグが好きでも、「終末もの」好きを主張するのではなく、「ディストピア」が好きだ、と主張するのは、この点の違いにおいてです。

 

「世界が崩壊しても、理不尽な社会でも、とりあえず生きてはいける。ご飯が食える。」

 

ここです。ここが重要なんです。

世界が崩壊した、食いもんと住む場所がねぇ、戦わねば!生きねば!というのが終末サバイバルものです。

世界が崩壊した、理不尽な世界だ、でもとりあえず当座の食物はある、家もある、なんか生きてる!というのがディストピアものです。私にとっての。

 

うーんと何か例をだそうと思って、一番広く知られててわかりやすいのって何だろうと思ったんですけど、そう、私の大好きな映画にピクサーCGアニメーション映画『ウォーリー』があります。

そうだ!『ウォーリー』を語ろう!やったー!!

『ウォーリー』私本当に大好きで、毎回冒頭の曲がかかった時点で泣いてるレベルで、もう見てない人は早急に見てくれ!見る時はきちんとエンドクレジット後までちゃんと見るんだぞ!!お姉さんとの約束だ!!というかんじなのですが、あの作品、私は二種類のディストピアが見られると思っています。

見てらっしゃらない方に簡単に作品を解説しますと、BnL社という会社が支配した結果、大量消費の末に環境汚染で住めなくなり、ロボットに環境改善をさせている間避難しようと人間が全員宇宙船で旅立った後、何百年か経った地球、というのが舞台の作品です。その何百年か経ち掃除ロボット達が皆壊れてしまった中、ゴミだらけの地球でひとりぼっちでひたすらに掃除を続けていた小さなロボット「ウォーリー」君が主人公です。

重いよ、重すぎるよ。

ウォーリーくんは毎日仕事をします。ゴミを圧縮し並べていくのが彼の仕事です。毎日規則正しく出掛けてはこの仕事に精を出します。

しかしながら彼の仕事は、はっきり言ってほとんど無意味です。もっと大量に彼と同じロボットがいた時代はいざしらず、彼一人が、しかもゴミを消滅させるのではなくカサを減らし移動するだけというのは一日中頑張ったところでまぁ環境改善には至らないだろうということは明白です。

そして彼はひとりぼっちで何百年も過ごしたために、限りなく心に近いものを手に入れています。彼には夢があります。ゴミの山から見つけた映画に出てきた人間たちのように、誰かと手をつなぐこと。

しかし彼の生活は変わりません。一日中ただ誰のためなのかもわからないようなゴミ掃除をしつづけ、誰かと手をつなぐことを夢見ながらスリープします。

彼は誰かといたい、手をつなぎたい、誰かを愛したいと願いながら、逃れられない仕事に励みます。強制的にひとりぼっちでいつづけます。今ここにはいない人間にそうプログラムされたからです。そして彼はロボットです。日光で充電できます。壊れるまで、彼は何かと戦わなくても生きていられます。

 

それではその頃人間たちはどうしていたか。本来数年間で地球がクリーンになり帰還できると考えていた人間たちでしたが、環境改善が難航したために彼らは宇宙生活を延期することを選びます。全ての活動をロボットに任せ、移動する椅子に乗って宇宙船内を移動する彼らは筋力を失い、何百年の間に退化しました。彼らは何もできませんし、何もする必要はありません。オートパイロットによって統制される船内では何の問題も起きません。人間は何不自由ない生活ができています。どこか退屈さを感じることはありますが、彼らは何もしなくても生きていられます。

 

後者、「ロボットに管理された未来の人間たち、不自由のないユートピア、に見える進歩も闘争も気力もない社会」は定義的にわかりやすいディストピアです。しかし前者も、完全な社会体制が描かれているわけではなくとも私の定義でディストピアです。ウォーリーも人間たちも、生きている環境に落差はあれど、何者かに押し付けられた世界の中で不自由です。しかし生きてはいけます。戦わなくても。

ウォーリーの前に現れた美しい探査ロボット「イヴ」によって彼がなかば「うっかり」闘争の当事者になる羽目になり、彼らによって人間たちが尊厳を取り戻すまで、そして彼が愛する者と手をつなぐまでが描かれるのがこの映画です。

 

つい調子に乗って長くはなりましたが、このウォーリー側のディストピア、つまりは統制社会や国家権力やカースト、その他SFに必須ななんやかんやがなくっても、理不尽かつ人間性を失わせる現状とそれに甘んじる人間、そして甘んじていられるだけのご飯と屋根のある場所、これが揃う環境が、私は好きです。それを私はディストピアと呼びます。

 

例えば私はポール・オースターが好きですが、『ムーン・パレス』や『偶然の音楽』を私はこういう意味でディストピアものと呼びます。主人公たちには金がありません。特に強い目的もありません。石をひたすら積むとか、無意味な仕事は目の前にあります。そしてご飯と屋根があります。

 

私はそんな世界を描くものが好きで、この「好き」のカテゴリは自分の中ではジャンクフードが食べたい瞬間があるとかアルコールが好きとかそういうものに近い衝動なのですが(けなしてるんじゃなくて自分の中のカテゴリ分けがそういう分類だということ)私はそういう世界が破壊されるのを見るのも好きです。こっちはいささか私という人間のカタルシスの問題の方の「好き」です。

この世界が破壊されると、大抵は、同時にご飯と屋根が失われます。

 

先日友人に勧められてアニメ『妄想代理人』を観ました。今更ですね。アニメには明るくないんだ。すごく面白かったです。あらすじ説明しづらいのでこの先見てない人に優しくない話です。雑に読んでください。

終盤で猪狩さんと月子ちゃんが、昭和の町並みの穏やかな世界をゆく場面があります。そのころ同時に外の世界は少年バットの妄想によって破壊されています。つまりはそういう荒廃から目を背けて生きているのが現代社会だ、ということなのですが、彼に優しいまやかしの世界を猪狩さんはバットで破壊し、脱出します。

「居場所がないって現実こそが俺の本当の居場所なんだよ」

 

私は一日かけてブルーレイ3枚分を再生し、このへんで東京が荒れ果てるのを眺めながら「うわ週に二度も世界が滅んでやがる…」と思い、友人の家からの帰り道ラーイヤーラライヨラとくちずさみながら考えて考えて、うむこれもディストピアだ、と判定することにしました。

 

というわけで、おわかりいただけたと思うのですが、私はこういう判断基準で、「おそ松さん」ってめちゃくちゃディストピアだと思っています。

彼らにはいろいろ欠けているものがいっぱいあって、ついでにそれは理不尽な運命やこの社会の歪みの結果としてありますが、彼らにはご飯と屋根があります。彼らは闘争ぬきに生きていくことができます。それに甘んじている間彼らは幸福です。欠落から目を背けておくことさえ可能です。

人間にはご飯と屋根が足りているから考えられることとご飯と屋根が足りているから考えられなくなることがあります。前者の方を語るのは古くは高等遊民と呼ばれる人たちが担っていました。「こころ」の先生は別です。あれはディストピア判定出せます。

ニートってすごいシステムだね。この説明が面倒くさい状況を3文字で表現できます。彼らは定義的に厳密にはニートではありませんが、この意味で正しくニートです。彼らは生きるための闘争なしに生きていられます。

 

 

そう、ここまでの話に従えば、SF的な世界観、近未来的社会、管理社会がなくったってディストピアと言えるなら、そもそもこの世界ってまるごとお前の言うディストピアじゃん、ということになります。当然そうなります。

私は「こころ」の先生はディストピア判定出せると言いました。彼は彼の世界がディストピア、明日を生きる金があり美しい妻がいる一見理想的に見える荒廃にあると気づきました。気づいたことで彼の世界はディストピアに変貌しました。それと闘う気力を持ち合わせなかった彼は彼の夢見たユートピアと心中しましたが。

 

ディストピアものが存在するのは、そこがユートピアではないということに誰かが気がついたからです。それまでは、いつまでもそこはご飯と屋根のあるユートピアです。

 

 

だから私はあの六つ子の家をディストピアと呼ぶのです。

 

 

 

お粗末さまでした。