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アニメ「おそ松さん」を血を流しつつ視聴する

「おそ松さん」19話 チョロ松ライジング感想おまけ 自意識の話

どうも、こんにちは。

前回話したりなかったので自意識ライジングの話続行します。

 

はぁ~なんでこんなに頭いいものが作れるんだろう……ほんと感動……

 

ついでなので一言、最近ここでもついったーでもしょっちゅう「これはメタファだから」とか強調して言っているんですが、なぜかというと最近の回について話すと「死んだ」とか「殺した」とか物騒なワードをどうしても使ってしまうからです。仕方ないんだ。

別に誰も死んでないから!大丈夫だから!ついでに私は青色主線等の世界観考察はしないから!ということです。そんなのわかりきってるよ!って人は聞き流してください。チキンなので保険をかけておきたいんです。

 

順にやっていきます。今回はゆるゆるいきます。

 

松野おそ松の自意識

・指先に乗るほど小さい。凹んだような跡あり。材質はよくわからないけどくすんだ赤でキラキラはしていない。ぼんやりと全体が赤く光っている。

「見た目は酷いけど、でも扱いやすい」

 

私は「プライド」の高低と「自己肯定感」の有無は必ずしも比例しないと思っています。後で扱いますが例えば一松はプライドは高いですが自己肯定感は皆無です。それとは逆に、おそ松はプライドはありませんが、自己肯定感はしっかりと持っています。

自分の夢を「カリスマ、レジェンド、人間国宝」と語り、躊躇なくナンパができる彼は、別に自分を「社会的に、他と比較して」すごい存在だと考えているわけではありません。ただ、彼にはそれが叶わなかった際、失敗した際に傷つくプライドが存在しないだけです。

普通、人がビッグマウスを叩けないのは、「実現する自信がない」からだけなく、「失敗した際に自分が傷つくのを見越して恐怖を感じる」からです。おそ松にはその恐怖がありません。

彼は自分を社会的に、他と比較して偉大な存在であるとはさほど思っていませんが、自分自身を自分自身なりにすごい奴である、主人公であるとは思っています。

 

彼はおそらく、元々もう少し大きなサイズの自意識の球体を持っていて、それが様々に傷ついたり、縮んだりして今のサイズに落ち着いたのではないかと思います。

18話において、「おそ松は「くん」後半で一度死んでいる」という話をしました。そして彼は死んだことで自由になりました。彼はもう、自分がどう見られているか、どう見られたいかということに頓着しません。そういった「自意識」が小さい上に、彼はその球体の存在を認知し、完全にコントロールしています。

 

前回、チョロ松について、「思ったことそのまま、生身で生きている」「過剰な自意識という鎧を着込んでいる」と表現しました。ちょっと矛盾に見えるね、言葉が足りませんでした。すみません。別にミスではありません。

彼は「過剰な自意識という鎧を早々に着込み、それを分厚くしていったせいで、その中身はいつまでも柔らかなままでいられた」ということです。うん、すっきり。

 おそ松はこの鎧がないに等しい。その代わりに彼は傷つくたびに自分自身を硬く、修正していきました。見た目と言動は小学生ですが、実際のところは生まれたままなんかでは全然ない。

 

 そして彼はきちんとした言語化能力ときちんとした状況判断力と分析力、きちんとした「なぜ自分は自分をコントロール下におけたか」についての自覚があるので、チョロ松を処刑することができました。

責任感を持って部下をきちんと始末してくれる、よくできた上司です。最高だな。

 

 

松野カラ松の自意識

・片方の手のひらにちょうど収まるサイズ。水晶玉のように曇りなく透き通っていてつるつる、青く光っている。

それを片手に持ってフリーハグ

 

こんな自意識を持っている人間がナルシストであるというのが本当に最高だと思うのですが、彼はプライドの高さはそこそこ、むしろ低めというレベルで、しかもサイズ的に「どう見られているか、どう見られたいか」へも、おそ松ほどではないにしろ案外無頓着です。

カラ松は、自分の自意識の形についてきちんと把握しています。きちんと把握した上で、「すごい!これ綺麗!大好き!」とやっているわけです。彼は「私はこういうのが良いと思ってるんだけど皆はそうは思わないかもな、これ素敵でしょって言ってみんなから否定されたらどうしよう怖い、でも見てもらえないのは寂しいしなぁ、あーーーどうしよう、わーんつらいよ~」しません(一松はします)。

彼がこのシーンでただ逆ナン待ちをしているのではなく、チョロ松が言及したフリーハグを行っているのはおそらくその差を示しているのでしょうが、彼のフリーハグには、それをやることでどう思われたいか、という考えが全くありません。芸術家である彼にとって、美しいものを愛でるのは当然のことで、人にそれを展示して分け与えようと考えることもまた当然のことです。

そしてそれによって人が幸せになるだろうということも当然の考えです。しかしながら彼はその「人がどう思うか」についてはそれほど重要視していないので、見られなかったからといって悲しみこそすれ、さほど傷つきはしません。ガラスは割れやすいですが傷つかないのです。彼が傷つくのは「痛い」などと直接言及された時であって、そこまでいくと自意識に関する問題とはカテゴリが違う問題です。

 

もう才能と言う他ありませんが、彼は一点の曇りなく美しい自分と向き合い続けてきた芸術家です。もし彼が何らかの表現手段をきちんと手に入れたなら(今のとこ歌か舞台が向いているとは思いますが)相応の評価を受けられる場所が見つけられるのではないかなと思います。

 

 

松野一松の自意識

・両手で抱えるサイズ。黒くくすんでいる。光はない。少しゆがんでいるのか凹んでいるのか、毛が生えているのか、とりあえず完全な球体ではない。傷のような模様のような、線が三本。

それを彼は周囲に気を配りながら近所の公園に埋め、土をかけて踏みしめる。

 

私の一松事変あたりまでの一松への評価は「プライドは高いが自己肯定感が低く、自分を見つめすぎたが故に、卑屈になることでそれに蓋をしている」でしたが、だいたい間違っていなかった気がします。

ひとつ上の兄弟チョロ松が外向きの思考回路を持つ人間であるのと対照的に、彼は内向きの思考回路を持ちます。彼は内省し、自分の良いところ悪いところ、それを踏まえてどう振る舞うべきか、をきちんと考えています。

 

18話において、チョロ松は「認められたい」、一松は「褒められたい」と叫びました。この二つの差がそのまま二人の思考法の差です。

「認められる」は「認めさせる」と言い換えることができます。チョロ松は相手への働きかけによって相手に願った評価をさせることを考えます。

対して、「褒められる」ことを求める一松は、何かしら自分が変化したり努力したりしたことによって、結果的に願った評価をもらうことを考えます。

 

しかし彼はきちんと考えたが故に、彼は自分に外から与えられる評価についても気にせざるを得ません。そこがカラ松との違いです。一松は周囲からの目線に拘泥します。「私はこういうのが良いと思ってるんだけど皆はそうは思わないかもな、これ素敵でしょって言ってみんなから否定されたらどうしよう怖い、でも見てもらえないのは寂しいしなぁ、でも寂しい!って言うのも恥ずかしい!あーーーどうしよう、わーんつらいよ~」します(私もします)。そして彼はそんなふうにぐるぐる迷い、しかもそれを表現することもできない自分を嫌っています。

結果彼は、「どうでもいい」というポーズ(本当は全然どうでもよくないんです)でその自意識をひた隠しにします。注目されたくない彼の自意識は光りもしません。そこそこサイズ感のある球体を土に埋め、誰にも、自分にすら見えない場所に彼は自分の自意識を葬ります。

 

元々真面目な彼は、真面目に自分と向き合った結果、自分嫌いになりましたが、プライドはあるので評価されないことにも傷つく面倒くさい奴です。

彼が自意識を埋めたのは近所の公園。その気になればすぐに掘り出せるし、すぐに見つかるような場所です。

「どうでもいい」と言いつつ、その実全然どうでもよくなく、ちょっぴり誰かに、できれば自分が言わなくても、それに気づいてもらいたい気持ちもなくはない一松くん。

本当に面倒くさい上にここまでの文が全部私にブーメランだよ。

 

 

松野十四松の自意識

・宇宙空間に浮かぶシャボン玉。中に十四松自身が浮いている。

屋根の上でそれを見上げる十四松。

 

彼はもう既に「概念」の自己認識関連で既にごちゃごちゃ語ったので話すことはそんなにないです。

彼も自意識の存在の形は把握済みです。「自己認識や自我はどうでもいいこと、「僕が十四松だ」と言うことが十四松を規定する」という境地にいる彼の自意識はとても曖昧で、不定形で、消えてしまいそうなぐらいの不確かさです。

加えてチョロ松と違い彼は球体の存在を把握はしているものの、チョロ松と同じように自分の手の届く範囲にはありません。一松は近所の公園というお手軽なところに自意識を置いて手放しましたが、十四松の自意識はそんな生ぬるい距離感にはありません。宇宙空間です。

 

彼はもう自分がどう見えるかにこだわる気も、自分をどう見せるかということを考えるのもやめました。たぶん昔はあったんじゃないかな、高校入るころかな、自分をどう見せるかをひたすらに考えた日々が。

もしかしたら、彼はとっくの昔に静かなビッグバンを迎えていたのかもしれません。誰にも知られずに、ひっそりと。

その結果があの十四松、明るい狂人、巨大化もするし、触手の真似もしてみせる十四松であったのだとしたら。

 

そんな彼が長い年月をかけてたどり着いたのが「僕が十四松」であり、宇宙空間であったのだとしたら、それなら私はもうその解決法の善悪正解不正解を問う気はありません。それは確実に自意識の奴隷から抜け出す一つの方法です。

彼の自意識が彼の手元に戻ってくる日が来るのか、そしてそれは彼にとって幸せを意味するのか、それは今はとりあえず置いておきましょう。

おめでとう、お疲れ様、十四松。

 

 

松野トド松の自意識

・サッカーボールより一回り大きいぐらいのサイズ。ミラーボールのように輝いている上に、ピンク色に光を放っている。

「痛いほどキラッキラしてるけど、こうして自分の手元にあるから!扱えてるから!」

「迷惑かけたとしても、家族か友達くらい」

 

自分で説明してくれているので改めて話すことがない。優秀。末っ子の彼はプライドも高いし、目立ちたがりです。ついでにその自分の自己主張、勝ち戦しかしないプライドの高さには多少害がある、時に迷惑であることをも自覚しています。しかし、彼はそこも含めて、自分を愛することができます。今はね。

彼もおそ松と同じく、ダメージを負い、また人にダメージを与え、そういった中できちんと自分を把握してきたタイプでしょう。スタバァの一件はそこそこでかいダメージだったのだろうと思いますが、彼はもうそれの処理を終えて笑うことができます。

 

また、ある意味では彼の自意識はカラ松の自意識のレプリカであるとも言えるかもしれません。輝いていて、美しい自分の自意識を、トド松は愛していますし、誰かに見てもらいたいとも考えています。

とはいえ、その究極形であるカラ松になるのには、ある種の才能が必要です。はっきり言ってあそこまでいくのは無理です。というより別にああなるべきではない。トド松は「どう見られるか、どう見せたいか」を気にすることを捨て去ることはできません。そのため彼は自分を演出する努力をします。つまりはあざとい、お洒落で甘え上手で嘘が上手な青年ができあがります。

 

彼もまた、言語化能力に長けていますし、また自意識の肥大化という点ではチョロ松の状況も自分の問題と同一のものとして理解できたはずです。だからこそ彼は苛立った。迷惑な自意識でも、それをコントロールすれば、ついでにそれも自分として愛すことができれば、それなりに生きていけるよ、ということをチョロ松に教えるために、彼はまず自分の自意識と闘う次元に至れよと言いました。

 

 彼はきちんと大人ですし、状況さえ変わればなんとでもなりそうです。本当に強い子に育ったな君は。ありがとうチョロ松兄さんに忠告してくれて。お疲れ様でした。

 

 

改めてすげーアニメだなこれ。図解よくわかる「意識高い系」と「意識高い系批判という意識高い系の亜種」と「ナルシスト」と「プライドの塊」と「自己愛」の違い。頭がいい。血反吐吐きそう。楽しい。制作者の皆様本当にありがとうございます。これからもついていきますよろしく。

 

 

お粗末さまでした。