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バックヤード

アニメ「おそ松さん」を血を流しつつ視聴する

「おそ松さん」20話 しんどい私の「なごみ」の終焉

あの肉はきっと「おそ松さん」によって死んだ私たちの肉。

 

はいどうも、こんにちは。

毎度ありがとうございます。今回も20話感想いってみたいと思います!!

いつもの自分語りに加え、今回は話の解釈や感想というよりもアニメ全体の構造の話をしたいです。わりかしその辺の方針はゆるいのがこのブログです。気楽にいきます。

 

今回は20話、特にアバンとCパート「イヤミ先生」の話になります。

私は視聴後にこんなツイートをしました。

 

 

何が言いたいのかというと、今回がとてつもなくわかりやすく「これまでのあらすじ」「要約」「お前らはなぜだめなのか説明しましょう」「この世はどこがだめなのか説明しましょう」だったということです。

 もう噛み砕く必要もないんではないかい。だってわかりやすすぎるじゃん。裏を読まなくても汲み取らなくても心が痛いじゃない。ずったずたじゃない。お腹も痛いじゃない。

私はずっと、「まぁぱっと見はギャグかもしれないけどしんどい私にはしんどいように見える!しんどい!」をやってきたし、「しんどくない人のほうが多いのか、私はしんどいけどね。まぁきっとそれでいいんだよ」と言ってきたんですが、

「ライジング」もそうなのですが、最近正直なところ「いや、これみんなしんどいだろ」「ちょっと調子に乗っていい気がするんだけど、いやこれしんどいだろ、というかしんどくさせる気満々だろ」と思ってしまうんですよ。明確に矛先が視聴者に向いてきているんですよ。

 

さて、そんな今回の冒頭に、何が起こったかを思い出してみます。

ハタ坊の追放です。

ミスターフラッグの部下たちは、「今まで何故気付かなかったのだろう」と言いながら、旗を抜き捨て、ハタ坊を追い出しました。

上の台詞からわかるとおり、ハタ坊の商売はあの世界においても「おかしい」「狂った」ものでした。(ギャグ世界線というのは「視聴者の世界の普通」と「作品世界の普通」を常に問い続けなければなりません)

そして彼らはそれに気がつかなかった。狂った世界に従属していたわけです。

 

1クールめに、同じ構造を持つ世界線がありました。

8話A「なごみのおそ松」です。

 

私は何かとなごみを例に引き、比喩として使い、何かあればなごみを参照し、なごみサイコー!という一種の「なごみ信者」なのですが、最近、このアニメの構造自体が「なごみ」だったのではないかと考え始めました。

 

「なごみ」の世界というのは、殺人が起きた時でもその凄惨さから目を背けさせます。加えてそれを一種のエンターテイメントにします。なごんだ彼らは死体の山の前で記念撮影をし、パエリアを食べます。楽しいね。

明らかに狂った世界です。その証拠に、序盤はトド松刑事がずっとその状況に異議を唱え続けています。しかしながら、気づけば彼もなごみ、死体の山を見ても何も考えなくなります。人生の教訓なんか得ちゃったりして、おおむね幸福です。そして不謹慎です。それを見ている私たち視聴者だけが、なごまずに死体の山を見ているわけです。

 

このアニメ自体が、「なごみ」の構造をしていたとしたら、つまりこういうことになります。

「元々このアニメは殺意に満ちた残酷さを含んでいた、しかし我々はそれを目の前にしつつも「なごみ」、それらの毒から目を背けさせられていた、もしくはその毒をエンターテイメントとして楽しませられていた」

元々このアニメは死体の山。ただ視聴者に対して、それが巧妙に隠され続けていただけだったのではないか。

 

私がこのアニメからすくいとって、毎回ここで叫んでいたしんどさは、そりゃあもういろんな種類がありましたが、本質的には一つに収束します。

「私たちはもう目を背けている場合ではない。笑っている場合ではない」

それはこのアニメの序盤からずっと巧妙に主張されていました。

赤塚先生が死んだ、楽園は失われた、そんな世界でモラトリアムに浸ってニートをしている彼らを、私たちはクズだと認識していました。つまり「目を背けること」の害悪をきちんと認識していたわけです。そして彼らに限らず、私たちにも同じ理屈が適用されるはずでした。

しかし、私たちはなごんだ。このアニメは元々死体の山、殺人現場でした。そこで私たちは楽しんでいたわけです。

 

 

そしてその「なごみ」の魔法は、あと残すところ4話となった今、そろそろ解け始めているのではないか。

 

理由としては、前回チョロ松のお仕置き回を迎えたことが大きかったのではないかと考えています。

私の見立てではあの六つ子を共同体として成り立たせるのに大きな役割を果たしていたのはチョロ松と一松でした。彼らが機能を失えば、六つ子が崩壊に向かって一気に舵を切るのは自明です。

チョロ松が「チョロ松ライジング」によって処刑された今、彼らの居心地のよい地獄は大きく変質するでしょう。もしくは、「それでも変質しない」ことの残酷さを見せ付けられるというオチもありうるかもしれません。どちらにしろ大きなきっかけでした。

 

それに伴って、この物語自体からも、「なごみ」の力が消え始めました。

その証拠として、ハタ坊は追放され、イヤミは視聴者に刺さりまくるナイフをオブラートに包まずに投げてきた。あの世界に赤塚先生が存在しないことを改めて見せてきた。

ハタ坊の料理していた肉(ちなみにこのアニメは全編通して魚を推してきていますがここでほとんど初めて肉が出ます)がもしも彼の部下のものだったとしたら、あの時、画面には大量殺人が映っていたわけです。とんでもないことです。でもそれは今までだってずっとそうだった。

私たちが食べさせられていたのは、巧妙に料理されてわからなくなった、なごまされていた、殺人だったのです。

 

 

 「ここはすごく痛いし辛いし暗いところなんだよ」という認識の元で、「そんなもの見ないでいようよ、狂っていようよ、楽しんでいようよ」ということをやっているのが「なごみ」ですが、それのどちらが正しいか間違っているか、良いのか悪いのか、というのは一概には言えません。

ただ、自分はどっちを選ぶのか、という選択の権利を得るためには、「ここは痛いし辛い」という現実を一度見なくてはなりません。

その上に、じゃあどう生きるか、なごむのかなごまないのか、という選択があります。

そのために、一旦ここを殺人現場に戻す必要がありました。なるべく沢山の人がそれに気づけるように。今までナイフの存在に気づいていなかった人に突き刺さるように。

 

今後どういう展開になるかは分かりません。それぞれの死を迎え「なごんでる場合じゃねぇ!」と気づいた彼らが最終的にどういう方針を勝ち得るのかは、もう見守るしかありません。とりあえず誰から見ても明らかなバッドエンドはないかなと思っていますが(ヒント:全力バタンキュー大好き人間)とにかくついていこうと思います。

加えて、8話「なごみ」においてなごんでいなかった人物は視聴者でしたが、このアニメという大きな「なごみ」においてなごんでいないポジションにあたるのは制作サイドの皆さんです。偉大だ。ありがとうございます。あと4話、楽しみにしてます。

 

 

お粗末様でした。