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アニメ「おそ松さん」を血を流しつつ視聴する

「おそ松さん」24話B それでもヒーローになりたいしんどい長男の話

どうでもいいことですが、引っ越しました。チョロ松とおそろい。

まさかのテーブルを忘れたので、ダンボール箱の上にPC乗っけてこれを書いてます。本当にどうでもいいね。
はいどうも、前回の続きです。

 

24話の長男について考えたいと思います。
いや、わかってはいるのです。今後の展開やおそ松の心理についてなんてどうせいくら考えても明日の深夜には答えが出てしまうんです。
たぶんいくら考えてもひっくり返されるんです。ですので、「今後はこうなるぞ!」ではなく、「今までのことは今回の情報を加えるとこんなふうに読めるのではないか」
という方針でいきます。まぁ通常運行です。

ついでにこれだけは踏まえておいてもらいたいというか、これが弟たちと長男の感想を分割した理由でもあるのですが、
私は以前から言っているとおりおそ松推しの人間です。
おそ松について自分なりにめちゃくちゃ考えてきた自信はありますが、残念ながら同時に情報を取り入れる目が曇っている自信もあります。かなりあります。
ですのでこっちの感想はまぁ、ああオタクがまーた何かほざいてやがるというぐらいの気持ちで読んでください。ただの妄想です。

 


さて、24話の長男おそ松ですが、ちょっと見ているだけで胃が痛くなるような痛々しい感じでした。
弟たちが次々と独立、それに対して彼は、不機嫌になるわ八つ当たりはするわ蹴るわ殴るわ、しまいには一人ぼっちで黙って口を引き結んだまま。
いつもへらへらと笑い弟たちに絡みふらふらとパチンコに出かけていた彼がこうなる、というのは、落差が激しすぎて本当に辛い。

とはいえ、私が予想していたよりもその間の彼の表情がほとんど描かれていなかったのも事実です。

私は彼を最も信用のおけない語り手だと思っており、恋する十四松では言いたいことを飲み込み、一松事変では最後までどちらとも判断のつかない仕草をし、とその辺のコントロールは大したものだと思っているので、万一、万一ですよ、彼があえてああいったふうに振る舞い、六つ子のコミュニティ崩壊を加速させ(彼がチョロ松就職を素直に喜んでいたらトド松の独立はもう少し遅れ、伴ってカラ松以下の家出も遅れていた可能性は十分にあると思います)次回で「やったぁ念願の一人っ子だ!!」と2話の回収をするなんてことがあったとしたら最高なんだけどなぁと思っているのですが、まぁそれは考えても結論が出ないことなので置いておきます。

 

私が印象的だと思ったのは、今回久しぶりにきちんと画面に映った、「赤塚先生」の存在です。

松野家の居間には赤塚不二夫先生の額が飾ってあります。それは1話に登場してから、時折言及されていました。
興味深いことなのですが、彼らは自分たちが赤塚不二夫という漫画家の被創造物であることを初めから認識していて、しかも彼が死んだことも認識して、そのうえで好き勝手に動いていたんですよね。

六つ子にとって、「赤塚先生」は、創造主つまりは父であり神様であって、言ってみれば彼らはそういう信仰の元に生きています。恋する十四松で、告白の成功を祈願する際に中央に額があったように、一話で良いタイミングで落下した額に彼らが頭を下げたように、あの世界では作者が一種の神としてしっかりと示されています。

それを踏まえると、24話で、沈みきったおそ松が最後に赤塚先生の額に向かい合ったことには意味があると思う。

あれはただただ居間の中央に座ったのではなくて、額の前に座ったのだということは、カメラワークで強調されているように見えます。
弟たちが全員独立し、独りきりになって、彼は自分の創造主に黙って向かい合った。

なぜそうしたのか、彼は赤塚先生に何が言いたかったのか、ということを考えることを通して、松野おそ松という男が今まで何を考えてきたのかという仮説を立ててみたいと思います。次回どうなるかではありません。今まで何をしてきたか、です。

 

さて、私は以前は、おそ松は六つ子という集団を維持しようとしている、それは彼が「長男」という居場所を得るためであると考えていました。

しかし、18話を見て、「こいつ長男として居場所を作るために良いオニイチャンやるようなそんな殊勝な奴じゃないな」と思い、ちょっとわからなくなったのでした。
それでは彼が18話で弟たちを殺した上ででも勝ち取りたかった、守りたかったのはなんなのか、今回の情報を加えると見えてくる気がしました。
それは、「おそ松くん」の主人公の座、つまりは赤塚マンガの主人公の座です。

彼が正当な赤塚先生の息子、赤塚マンガの主人公になることを目標としていたと考えれば、いろいろなことに説明がつきます。
私は18話のレースの彼らを、「自分自身の主人公として生きたい人々」というふうに捉えましたが、彼は、本当にこの物語の、赤塚マンガの主人公になりたかったのです。そしてそのために、彼はずっと、創造主の描いたマンガの世界を保ち続けようと動いてきました。

困ったときのなごみ探偵回ですが、あれを見ると、彼が狂った世界の元凶であることは明白です。殺人、辛い現実、それらを覆ってさぁバカになろうバカになってしまおうと世界に働きかけてきた張本人はおそ松です。


例えば赤塚マンガのヒーローと言えば、もちろん天才バカボンのパパですが、赤塚不二夫先生はバカボンのパパについて、
「別にラクして生きてるわけじゃない。どうすれば家族を幸せにできるかを考えながら一生懸命ガンバってる。そのためには体ごとぶつかっていってる」
そういうバカだと評してるんです。おそ松はそういうバカになりたかった。「知性とパイオニア精神に溢れたバカ」になりたかったんです。
そのための舞台として、「おそ松くん」のように一つ屋根の下で均質な存在として暮らす「六人で一つ」の六つ子が必要だった。彼はそうやって、懸命に赤塚先生の望むバカをやっていたんです。

 

これは余談なんですが、こういう「創造主に愛されたかったキャラクター」という、メタを折り込んだ設定というのは私以前に見たことがありまして、「エピックミッキー」というゲームに出てくるオズワルドというキャラクターが、これをきちんとストーリーとして持っています。
実際にあった自社のキャラクターの権利問題を該当キャラクターのトラウマとして本当に設定するというウルトラCをやってのけている非常に面白い作品ですので興味があればとりあえずググってみてください。松みがあります。

 

「タイトルはおそ松」でありながら、主人公の座を奪われた少年であった彼が、
「変わらなくていい、みんながバカになればいい」とバカをやって、今度こそきちんと赤塚マンガの主人公として認めてもらいたいと願っていたとしたら、今回の六つ子の独立、不可逆の変化はとんでもない痛手です。加えて、彼は弟たちの離脱に対して、いつもの計算されたバカとしての表情と態度を作ることができませんでした。


「俺たちは変わらねばならない」という流れの中で、変わっていく兄弟、変わっていく自分の舞台、消えてしまった「六つ子」、もうバカではいられなくなってしまった自分と黙って向き合い続けて(背景や服装から考えて一年近く経っている可能性もあります)、またもやヒーローになれなかったままで彼は「赤塚先生」と向き合った。

もうだいぶ前に死んだ、もう直接声をかけてくれることは決してない人の写真の前で、彼は何を考えていたんでしょうか。

 

もしも本当にこういうことだったとしたら、私はもういいよと彼に言いたい。もうやめようよ。誰かに認められるために頑張るのってめちゃくちゃしんどいことだよ。赤塚先生はもう死んだんだよ。君が好きに生きたって誰も文句言わないよ。「タイトルはおそ松さん」で、もうそれは絶対に変わらないんだから。弟が出て行ったらそうやって笑うことができなくなる君が、主人公も先生も関係ない「松野おそ松」なんだよ。

でも、それを簡単に放り出すわけにはいかないことは、私にはものすごく、痛いほどわかります。

「赤塚先生」を「親」「世間」に置き換えれば簡単にわかることです。

アダルトチルドレンのタイプの一つに「ヒーロー」があります。期待に応えようとするのをやめられない、期待に応えることが自分の価値、応えられない自分を許せない…

しんどいねぇ、どうしたらいいのかねぇ…

 

2話で彼の「関係なくない?」を聞いて、彼が私を救ってくれるかも知れないと思い視聴を決めたわけですが、ここへきて、私たちはだいぶ近いところでのたうっていたのではないかという気がしてきました。でも、たとえそうでなかったとしても、私は彼に救ってもらおうとはもう思っていません。自分の暖かい場所は、自分で作るんだもの。

 

私はオープニングの「満足だ、おそ松さん」が成就することを信じて疑っていません。最終回、見届けたいと思います。おそ松担の妄想に付き合っていただきありがとうございました。

 

リアルタイムで見れない地方の辛さ!!!!

 

 

お粗末様でした。