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バックヤード

アニメ「おそ松さん」を血を流しつつ視聴する

「おそ松さん」としんどい私と「旬」との付き合い方の話

どうもお久しぶりです!!ご無沙汰しております!!皆様お元気でしょうか!

 

最近冷静に考えてみて気づいたのですが、「おそ松さん」アニメ開始が10月、このブログの最初の投稿が11月、そして今が8月、ということで、あと2ヶ月ほどで放送開始から1年が経ちます。

早くないですか???もうすぐ!!!1年!!!!

まだ、気づけばグッズが出ているしイベントがあるしコラボがあるしそういえば今日はサントラアルバムのジャケット公開がありましたねうわー楽しみ、というかんじで、正直終わった気がしていない。いやいや正確に言うと地方局ではまだ「本放送」をやっているので厳密に言えばおそ松さんは終わっていないとも言えます。それに、先月あたりには、ブームが来てから企画が立ったであろう雑誌特集のラッシュがあったりなんかもして、入ってくる情報の量が衰えません。否、公式が毎週情報を出していく形式がなくなったが故に個々の情報は今の方が追いづらいと言えます。どこかで線を引かないと死んでしまうよ。

という時期になってやっとできるようになることなのですが、このあたりで1度、「おそ松さん」というものの流行について考えてみたいと思いました。今これをやるのは実はもう一つ理由があるのですが、それはとりあえず置いておいて、このブームを経験して、つまりは「おそ松さん」という社会現象を通過して私に何が起こったか、ということを書いておこうと思います。

 

おそ松さん」が受けたということ、これはもうとりあえず間違いないことだと思います。私は普段アニメをジャンルとして見ているわけではない(作品単位で見て、このクールにやっているものをとりあえず全部見てみて、というような見方をしない)ので、正直に言うと普通のアニメというものがどのぐらい見られれば、売れれば、話題になれば、当たったと評価されるのかが皮膚感としてわかりません。しかし、毎クール、「覇権」と呼ばれるような当たりアニメが大なり小なり現れますが、松はそういった中でも頭一つ以上抜けた相当なブームになったことは確かだと思います。

唐突に私の母の話をしますが、私は母に、貴方の娘は「おそ松さん」というアニメにはまっていて、そしてそれはけっこう人気なのだ、ということだけを伝えました。するとしばらくして母から、「あなたに言われたら、世の中のいろんなところでその話題を目にすることに気づいた」と言われました。世の中の情報というもの、とくにサブカル周りの情報はチューニング次第で見えたり見えなかったりします。普段チューニングを合わせていない人に届き始めたかどうか、というのがジャンル内での人気と社会的流行の分かれ目なのかもしれません。ちなみに現在でも母は何かしら街中で松を発見すると私に嬉しそうに報告に来ます。舞台化の話は母から初めて聞きました。ちょっと冷や汗。

 

閑話休題。そしてそんなおそ松さんに対し、多くの人が様々な印象や感想を持ったわけですが、私はそういった人々を見て、わかったことがあります。

それは、「人間は“流行”というものに対して大変に無防備になる」ということです。

 

アニメに限らず、何でも今の旬はこれ!これが流行り!これがナウ!というものが出現すると、まずはもちろんその流行に乗る、意図的、結果的問わず、流行っているものを受け入れ享受する人というのが現れます。流行っているもの、他人から高評価を受けているものは、より魅力的に人の中へと侵入します。同時に、そういった流行りのものを受け入れない人というのも現れます。単純にそれを魅力的だと思えなかった人に加え、流行っているから受け付けないのだという人もいます。

もちろん流行するということには弊害もあって、それが出現したことによって自分が前から好んでいたものに影響が出た、という場合や、それが流行ったことによって何らかの問題が起きた場合、また、それを好んでいる人の母数が多いわけですから、その流行に乗っている人から何らかの被害を被る確率もまた上がるわけです。その害を嫌う人がいます。当然のことです。

さらには、流行に乗るという行為自体を嫌う人も存在します。これは根深い問題で、その旬のものを好んでいる人の中にさえ、私は別に流行りに乗っているわけではない、これが良いと思ったから、いや、流行る前からこれが好きだったのだ、と主張したがる人もいます。流行りものだと評価されるのを嫌がる人もいます。

 

何が言いたいのかというと、「何かが流行っている」という事実は、それに乗ろうが乗るまいが、その何か自体の問題を超えて、人の心のわりと面倒くさい部分をぐっちゃぐちゃにしていくということです。

 

はいここで、前述したなぜ今この話をしなくてはいけないか、という話をするんですが、それは最近「松」ではない別の流行が社会に大々的に広がっているからなんですよね。はい、ポケモンGOです。皆さん、歩いてますか?

ポケモンGOが出てきて、ポケモンに関する思い出話をしてくださる方がいっぱいいて、私もいくつか読みました。そして、ああ、これ私だけじゃないんだ、とわかったことがあります。

流行りとうまく付き合えなかったというコンプレックスは、思ったよりも人の心に大きな傷を残す。

私は小学校の頃、徹底的な流行りに乗れない小学生でした。ポケモンをやったことがありません。ゲーム機が家にあったことがありません。マリオもスマブラどうぶつの森も経験がありません。友達の家に行って、ちょっとコントローラーを握らせてもらって、下手くそと言われてすぐに返します。ジャニーズとモーニング娘がわかりません。NEWSの下敷きを見せられて、誰が好き?と問われた時の恐怖。ポケモンいえるかなが歌えなければ人ではないという世界。唯一見させてもらっていた、学校へ行こうのありがたさ。

単純な情報の受け取りだけの問題ではなく、そこには人間関係や他者からの評価や、そこからの自己評価、ひいてはプライドの問題までもが絡んできます。あれは実はつまらないものなんだから、それも知らずに騒いでいる奴らの方がかわいそうだ、と自己防衛してみたり。この捉え方は重ねすぎるとその重みでなんというか精神の根底が歪みます。小さいことだけど、これらの積み重ねの恨みって、恐ろしいんだぞ。

私のスマホは古いので、ヴァージョンの問題でポケモンGOができません。私はまたこの流行に乗ることができません。代わりに私はこの感情の原泉と行き先を考え続けます。

 

おそ松さんは私にとって、ほとんど初めてと言っていいレベルの、流行のはじめからを、当事者として追い続けられた経験です。

私は、この作品は大きな評価を受けるに値する作品だったと思いますし、初めてアニメ雑誌を購入したり(ananも買ったので女性誌も初購入かもしれない)、巡回ショップに出向いてみたりしたことで、知らないことや場所もいっぱい知ることができましたし、アニメの見方も変わりました。ついでに言うと、こういう場所で読者を得られたのも、「旬ジャンル」について喚いていたからだというのはとてつもなく大きい。そして何よりも「私は今楽しめるものを最大限に享受している」「それを他の誰かと共有している」「この時代を生きている!!」という感覚がすごく嬉しかった。

 

おそ松さんにはまったあたりからでしょうか、私は「評判の良いものは何かしら興味深いところがある」というスタンスを持ちやすくなったような気がします。キンプリを見に行きました。やっぱりすごいなと思いましたし、いろいろなことが分かりました。Twitterで見かけた人気のバーに行きました。内装はすてきで飲み物は美味しかったです。山登りに行きました。なぜわざわざそれを趣味にしている人がいるのか、なんとなく分かりました。トッティの気持ちもわかりました。そりゃあ時にはダフることもあれど、世界にはきちんと面白いものを作ろうとしている頭の良い人と、面白いものがそこそこあります。それは、この世界も捨てたもんじゃないという一種の確認行為です。

 

ポジティブなものにしろネガティブなものにしろ、流行は人の心のむき出しなところに、大なり小なり、自覚的に無自覚的にダイレクトアタックします。流行に乗れとか乗るなとかそういうことを言っているのではない。そういうものなんだという認識と諦めと、時々の世間への信頼度確認が、SNSなどでものごとの盛衰が見えやすくなった世界を生きやすくする方法なのかなというように思います。

 

ものごとの寿命がどんどん短くなっていく昨今、しがみつける間はしがみついていようというような気持ちでいます。今踊るか、踊らないのか、そういう自由が、小学生の私にはありませんでしたが、今の私にはあります。私はまだ踊れるぞ!!!そしてこれを読んでくださっているあなたにも、例えばもしも私が30年後に、あの頃流行ったおそ松さんとかいうものを見てみようかねぇと見て、パッションのままにこの文章を書きなぐっていたとしたら、おそらく出会えていないでしょう。今はまってくれて!ありがとう!!一緒にはまってくれて!!ありがとう!!

 

という感謝の言葉で、今回は締めたいと思います。

 

お粗末さまでした。