バックヤード

アニメ「おそ松さん」を血を流しつつ視聴する

「おそ松さん」21話B しんどい私はクズとして生きられるかという話

バカボンのドラマ化が本気で心配。

 

 

どうもです。

今回も21話感想いきます。

 

Aパート「麻雀」に関してはもうすごく性格そのまんまで、チョロ松は嘘をつかないとかカラ松が勝ち方にこだわってゲームに向かないとか、今回長男のモノローグがないとか、もうとにかく様々な情報に溢れていたのですが、だいたいいままでの繰り返しになってしまうのと麻雀詳しくないので人におまかせします。とりあえずめちゃめちゃ楽しかったです。

 

で、でさーーーーーーーー

問題はB「神松」なんですけれど。

以前19話感想で、チョロ松が処刑されたという話をしました。加えて20話感想で、「このアニメはチョロ松の死によって転換を始めた」というようなことも言いました。

今回、本当にそれがやってきてしまったという感じがありました。

 

Bパートの簡単なあらすじです。

・銭湯でチョロ松が働きたくない、自分もダメ人間であるということを認め宣言する。

・十四松は隣に六つ子そっくりな謎の男がいることに気づく。六つ子の話にさりげなく加わっているのだが誰も気がつかない。

・就寝直前にやっと全員が彼の存在に気づく。彼は「神松」と名乗り、自分は六つ子からこぼれ落ちた善の心が集まって生まれた、7人目の兄弟だと言う。

・神松は六つ子たちの望むことをし、就職をし両親にお金を渡す。両親は喜び、さらにはこれが普通だったのかもしれないと、今までのニート養育を省み始める。

・追い詰められた六つ子たちは神松を抹殺する計画を立てるが、その悪巧みによってこぼれ落ちた善の心で神松がパワーアップし、トト子ちゃんも奪われてしまう。

・(いろいろあって)六つ子のクソな部分が集まって生まれた「悪松」によって神松が殺される。悪松は「己のクソさに自信を持て」と言い六つ子の中へと戻る。

 

今回は、「開き直って生きるということはどういうことなのか」という話だったと思っています。

私はこのアニメが、きっと「この世に意味はないし全くもって絶望的なものだと気づく過程」と「意味はない絶望的なこの世をそれなりに生きていく方法論」

(「おそ松さん」1クールを終えてしんどい私は何を考えたかという話 - バックヤード)

をやってくれるのではないかと考えていました。

そして前者は順調に繰り広げられ、お金や女の子とか見栄とか労働とかってみんな嘘じゃんという「この世界はクソ」も「俺はクソ」も目に見える形になって現れたわけです。今回で、最後の一人だったチョロ松が「俺はクズです」と宣言して、それは完成しました。

そして彼らは、「開き直り」という力を手に入れました。

チョロ松が顕著すぎるので彼を例に挙げます。発狂した後に何があったのかは知りませんが、彼は「僕もダメ人間」と認めるに至りました。きちんと死んだわけです。

別に今まで意図的に嘘をついていたのではありません。「麻雀」でもはっきり言われた通り、彼は嘘をつけない人間です。彼は今まで、自分が働きたくないと考えているということに無自覚でした。彼はビッグバンを経て、それに気づいた。そして認めました。「僕もダメ人間」という言葉のとおり、六つ子はこれで全員が「ダメ人間」になりました。

それに対して、彼らは開き直って笑いました。いーじゃんクズで。それが俺たち六つ子なのだから。そのクズっぷりを僕は愛してる!彼らの多様性が生まれた結果の産物であるチョロ松が死に、彼らは一周して元の「六人で一つ」に戻ってきました。揃ってクズ、これでいいのだ!!

 

正直なところ私は、このアニメはここにたどり着いて終了だと思っていました。クズでいいじゃん。それはもう事実だから、それを肯定して生きていこうよ、と。めでたしめでたし、と。

 

しかし、このアニメはまだ終わりませんでした。

ずっと「これでいいのだ!」に対して、「もう、これでいいのだとは言っていられない事態に僕たちは来ているんだよ」と言い続けてきたこのアニメは、今回もちゃんとカウンターを打ってきました。

 

神松は、一応は六つ子の良心であったチョロ松が死んだことによってこの世に生まれた存在です。完璧かつ理想、加えて無欲です。彼は圧倒的な善です。彼は就職をし、お金を払い、トト子ちゃんと、アイドルと信者としてではなく恋人として付き合うことができます。

彼はその力によって、両親を「正気に戻し」ました。つまりは、両親はずっとニート6人を養うという狂った環境になごまされていたわけです。なごみの魔法は、お金という現実的な方法で解けました。

これが決定的な引き金となって六つ子は仲良くほがらかに神松抹殺を計画するわけですが、つまり、つまりですよ、彼らの開き直りというのは、いまだに彼らのぬるま湯世界を維持するための道具にとどまっているんですよ。

 

最終的に(いろいろあって)彼らは彼らのクソな部分の集合体「悪松」を呼び出して神松を殺します。呼び出したとはいえ、悪松の立場は六つ子よりも上。彼を呼び出したとき、六つ子は空っぽになって転がっています。

悪松は六つ子たちが手にした鋏や銃などとは別格の力を持っています。一瞬で神松を叩き潰せます。そして言います。「舐めるな」「己のクソさに自信を持て」

悪松は「自分がクズであることへの開き直り」が可視化できるようになったものです。それは大きな力を持っていますが、おぞましい姿をしています。それを使いこなすには、六つ子はまだまだ足りない。

 

「わかりましたよ、はいはい俺はクズですよ。いーじゃんそれで。これでいいのだ!」と言えるようになった六つ子に今回叩きつけられたのは、「全然よくねーよ」「甘いんだよ」「本当にクズとして生きるっていうのはこういうことなんだよ」「で、お前ら本当にそれでいいの?」

 

「神による地獄」とおそ松は言いました。正確には神松によって、自分たちがぬくぬく生きていられる世界が破壊されゆくことを指して地獄と言っているわけです。

彼らの開き直りは、まだ現実逃避の域を出ていません。一松の卑屈さに近いものがあります。はいはい、どうせ俺はゴミですよ、と言ってそれに安心しているレベルです。

本当の悪というのは、もっともっと危険なものなんだよ、で、お前はそれに耐えていけるの?そんなんじゃまだ足りないよ、それでもその路線でいくの?お前らの安易な開き直りなんて、なんの役にも立たないんだよ。

 

それを告げられるのって、すごく苦しいし辛い。何も考えていなかった頃から、現実を直視して苦しんで、いいよそれでもと言えば今度は楽しく暮らせるかと思ったら、「お前それでいいの?」

わかってるよそんなこと。もういいよ、私そんなに強くないもの。本当に胸を張って悪人としては生きられないもの。私にはこの辺でいいでしょう?許してよ。

 

それでも、それを言ってくれたことについて、私は当初想定していたよりもずっと、このアニメは誠実で親切だと思いました。「これでいいのだ」を掲げる赤塚イズムの世界において、それに挑む視点としてこんなに丁寧で真面目なものはないと思う。

「これでいいのだ」に「よくねーよ」とこのアニメが言っているのは、その哲学の否定ではなくて、「これでいいのだ、はそんな甘い安易なものでは断じてない!」ということだったんですよ。それってすごくまっとうで、かっこいい姿勢だと思いません?

 

あと残り3話、まだまだこんなところでは物語は着地しません。

すごいなぁ本当に……。次回も楽しみにしてます…。

 

 

 

お粗末様でした。