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アニメ「おそ松さん」を血を流しつつ視聴する

「おそ松さん」23話 しんどい私が作る暖かい場所の話

旅行から帰ってきたらTLがお通夜だったときの私の心境を簡潔に述べよ。

 

 

はいどーも、おひさしぶりです!!

今回も23話について語っていこうと思います。今更だ!!

24話の内容によってTLが阿鼻叫喚、お墓乱立、お通夜、並ぶ遺影アイコン、もうとんでもないことになっていることは把握しております。

しかしながら!私は!!24話を見る前に23話について書いておきたいと思ったので!!書きます!!なぜならこのアニメが「次の回を見たらもう前回を同じ心境では見られない」質のものであるということを感じているからです。

よって今回は既にオンエアされている24話を見ずに語っています。TLは一部をミュートしました。ですので見当違いなことを言っていても許してください。23話までに提示されているものだけで考えてます。怒らないでね。

逆に当たっていたら褒めてください。

 

さて今回は題名はそれぞれついているのに時系列が完全に繋がっているというスタイルの2話構成でした。ですのでB「ダヨーン族」メインにしつつ両方の話をしたいと思います。

 

Bメインにまとめるとあらすじはこうです。

・ストーブの灯油が切れ、誰が補給に行くかという戦争に負けたチョロ松は、灯油を買いに行く途中で居酒屋に立ち寄ってしまう。帰ってこない三男を追った長男と次男も同じ居酒屋で飲み始める。

・三人が居眠りから目覚めると謎の洞窟のような場所に居た。そこには街があり大量のダヨーンが住んでおり、三人はダヨーンたちに追いかけられる。

・後を追った四男五男六男もダヨーンの口の中に吸い込まれ、兄たちと同じ場所に出る。そこはダヨーンの体内であり、ダヨーンの少女(自分で書いておいて何だそれ)とダヨーンのような姿になったチョロ松の結婚式が行われようとしていた。

・帰ろうと言うトド松に、同じ姿になった長男次男が、ここには何でもあること、ニートでいられることを説明し、チョロ松は本当は外できちんと生きなければいけないことはわかっているが、クズな自分はここで生きるしかないのだと叫ぶ。

・すると花嫁が灯油のタンクを彼に渡して、ここから出て行くよう告げる。他のダヨーンたちも彼らを追い出そうとするが、彼らが涙を浮かべているのを見て、長男次男三男も大声で泣く。

・ダヨーンたちに笑顔で手を振って見送られ、6人は船で肛門へと脱出していった。

 

今までの話で最高ランクに泣いたかもしれない。とんでもない。これが最終回でも全然かまわない。なんというか、作ってる人たちは本当の「大人」なんだと思うので本当に尊敬してます。どっちの方角に住んでらっしゃいますか足を向けて寝られない。松はすごいぞ。

 

まず、今回のあの「ダヨーン族の国」というのは何だったのか、ということが、このアニメ世界自体の構造はどういったものだったのか、という説明だったように思います。

おそ松は言います。

「ここには何でもある!全部タダで何不自由ない!それに何より、ニートでいても誰も怒らない!最初はなぜなのか不思議だった。でもわかった。みんな同じだからなんだ。顔も言葉も立場も、そこから生まれる底なしの穏やかさと安心感。それがダヨーン族の真髄だ」

1クールめのオープニングですべてを飲み込もうとしていたダヨーンの体内にあるのは、黙っていてもご飯が出てきて寝る場所がある、ニートである彼らの日常であり、同時に彼らが6人で一つだった「あの頃」です。彼は、アニメ開始時に既に失われており、にも関わらず六つ子が夢見てきた楽園を内包していました。

人々が分かり合えると信じ、何もしなくても存在だけでご飯がもらえ保護されていた頃。そしてそれを無条件に承認されていた頃。それは決して否定されるものではない。一つの愛に満ちた世界と言えます。体内という場所にあるということから言っても、それが母親的な、無条件の見返りを求めない愛情であることは示されていると思います。

 

しかしこのアニメが今まで一貫して何を主張してきたかと言えば、「無条件の愛情は、時に有害である」ということです。

それを一番明らかな形で思い知ってきたのは次男、カラ松でした。彼は個性を得、成人しても、無条件の愛を信じていました。「お前がどんな奴だって、お前を信じているし愛しているよ」しかしながら彼がそれを発揮して得た経験は、信じた兄弟から殺害されることであったり、屋根からの落下であったりしたわけです。その末に彼は他人に愛情を注ぐことへのエゴに囚われて一人ぼっちで花と心中しました。

無条件の愛の害は、現実的に例えば毒親という言葉で表される何かであったり、無条件の肯定によってDVの温床になったりと、そのあたりで具体的に見られるのですが、その後の彼はちょっとそのあたりを理解したようで、今回も(言い訳とは言え)「行き過ぎた愛は人をダメにする」という台詞まで吐けるようになりました。すごいよカラ松くん!!成長したね!!!

 

様々な台詞の中で、彼らがダメであること、の原因は「ニートだから」に集約されます。面白いことに、「ダメだからニートやってる」のではないのです。「ニートだからダメ」なのです。バイト経験もあり就活も一応している彼らは厳密にはニートではありません。この場合の「ニート」が意味しているのは、
「自分が生きるための闘争をすることなくご飯と屋根を得ている状態」だということです。

 

はい!!つまりはディストピアです!!この辺の話はもうしたのでこちらを読んでいただいて説明に代えさせていただきますが、このアニメは無条件で理由なくぼんやりと生かされている状況について否定的です。

実際のところは、切ないことに彼らの無条件の愛は既に失われており、その幻想を追っているだけなので、そもそも「無条件の愛が欲しい」という段階を描くことも含んでいるのですが(1クール目はこっちに比重があった気がする)、結論としては、「無条件の愛と承認に支えられた世界は人をダメにするよ、ぬるま湯の箱庭から出て戦わないとね」というところに行き着く。

 

今回はその、トド松の台詞「こんなところで暮らせるわけないでしょ?なんとなくわかんない?ダメでしょ!?」というような、「なんとなーく、わかんないけど、別に良いような気もするけど、でもやっぱりダメなんだと思う」みたいなところを、「なんとなーく」「理屈じゃないところで」でも「めっちゃわかる」という感覚まで落とし込んでくれた回だと思っています。そこがすごい。本当に丁寧。

 

そのキーが、チョロ松にあったように思います。

19話でライジングし発狂、21話でクズであることを開き直り、その上で神松を殺した彼は今回前半で、「自意識とのつきあい方」について学んでいます。やっと自意識の存在について気づいたチョロ松はきちんとそのことについて考えていました。「ダメ人間」であることを認めて就活をやめましたが、自分と向き合うことはきちんと始めていた。

チョロ松が最も「信頼の置ける語り手」であることは前々から言っていましたが、それはつまり最も「視聴者の味方」であることも意味します。受け取り方が素直で、ウソをつかず、モノローグをそのまま見せてくれ、加えて話の脱線も防ぐツッコミ役であることで、彼は私たちと限りなく近いところにいます。(ちなみに脚本の松原さんにとっても彼は味方だそうで「肩のあたりにいて話を聞いてくれる」そうです。)

19話で自意識の球体を見たときの「うわっ何あれ??」は私たちの脳内と重なっていたはずです。私たちは彼と同じタイミングでその存在に気づいて、考えてきました。

そんな彼が今回白旗をあげたこと、本当は外で生きていたい、でもこの楽園の中にいたい、と泣き叫んだ重さは、すとんと私のところに降りてきます。

本当にそうだ。本当はきちんと生きてみたい。せめて人並みに、認めてもらえるように。きちんと生きるってことがどういうことかっていうこともよくわかってはいないけれど。それが就活という形をしているかなんていうことは実際のところどうでも良くて、とにかく生きていきたい。でもそんなふうにはうまくいかなくて、しんどい。だからこの楽園にずっと暮らしていたい。駄目だなんてわかっているけど、でももう嫌だ。もう嫌だ!!これが僕の限界!!!

 

しかし身の振り方を考えてきたチョロ松の自棄、楽園との結婚という一種の自殺は、退行でもなんでもなく、進化だと私は思いますし、それは私たちをも丁寧に救います。

 

これが進化であるという理由の1つめは、彼が進むためには一度こうして泣き叫ばないといけなかったからということ。

自分の楽園が失われていたこと、自分のしんどさにもっとも無頓着であったチョロ松は、頭では理解しはじめていたとはいえ、それに対してきちんと悲しんで、涙を流し、惜しむことをしてきませんでした。楽園、舟、川、宗教的祭儀とくれば役者が揃いすぎていますが、あれは一つのお葬式です。子供だった「あの頃」をきちんと葬らなければ、彼は前に進むことができませんでした。

加えて、あれは大きな物語自体のお葬式でもありました。「おそ松くん」という物語の死、赤塚先生の死、昭和という時代の死。その悲しみに彼らは今まで向かい合ってこなかったのではないでしょうか。事実に向かい合うことと、悲しみや苦しみに向かい合うことが揃って、それは受容されます。彼らはそれを放置して、だらだらとモラトリアムを継続し昭和90年になるまで続けてしまった。

今回みんなで泣いて、お葬式を行ったことによって、楽園の残骸とモラトリアム、昭和は終了しました。次回以降はそれを一掃し、現在を建設する時間に突入するはずです。

 

2つ目は、楽園からの追放が、乱暴に蹴り出されるようなものでは決してなかったということです。

ダヨーン族の少女は、震えながら灯油タンクをチョロ松に押し付けました。そしてその上で、涙を流し、彼に笑えと言った。

彼がここを出て行った先は吹雪です。寒く辛く、そして標識が示すように、おそらく二度と帰れない。それでも彼女は帰れと言う。

「あなたのことがすきだよ。でもあなたのために、あなたはここにいちゃいけないんだよ。あなたのあたたかい場所はあなたがつくってね。いってらっしゃい」

これを愛と呼ばずしてなんと呼ぶのか。「あなたがすきだから私のそばにいて」でも「あなたがすきだから寒いところへ行かせたくない」でもない。彼女はこれで灯油を入れてここではない別のどこかに暖かい場所を作れと言った。

火を手に入れるというモチーフは2クールめのオープニングにも出てきます。火は幸せな場所の象徴であり、同時に戦争、闘争の象徴でもあります。ディストピアを出れば、自動的にご飯と屋根が失われます。寒くひもじいそこを、弱く汚れた体で戦うために、彼らには火が必要です。

寒い場所を、汚いものを引き受けて、それでも生きていく覚悟を決めてね。そのために油をあげるよ。これがあれば大丈夫。頑張ってね。

 

寒いところに汚れきって、でも火を携えて出ていけたチョロ松はもう大丈夫だと思います。何か悪いことが起こったとしたって、ダヨーンの中で暮らせばよかったと本気で後悔する日はもう来ないんじゃないかな。もう自分で暖かい場所を作れるんですから。

 

すごいよ!!!!!とんでもないよ!!!!どういう愛が有害でどういう愛が有益なのか!!!!どうやったら人が前に進めるのか!!!こんなに的確な表現を私はしらない!!!

なんだろう、自分にとってのこのアニメがダヨーンたちだと思って良いのかもしれない。あの少女よりもうちょっと攻撃的で、灯油タンクを胃の辺りに投げつけられたような感じですけれどね。痛いよ。つらいよ。ありがとう大事に使います。

 

嫌だ嫌だと言っている間に迫る最終回!!その前に24話!!!来週もまた会いましょう!死んでると思いますがお花をそなえに来ていただければ幸いです!!

 

 

お粗末様でした。