「おそ松さん」1クールを終えてしんどい私は何を考えたかという話
はい、追いかけていた「おそ松さん」、ついに1クールが終了しました。ぱちぱち。
2クール目がきまって本当によかった。安心して正月を迎えられます。(予告された年明けのびっくりから目をそらし)
私は漫画を読み二次創作をし二次創作を読み四六時中そういうことを考えている、一言で言ってまぁオタクですが、実を言うとアニメをリアルタイムで最終回まで追い続けるということは本当にめったにないことで、本当に快挙です。
私アニメって見てああ面白いなぁって思っても毎週見る時間を確保してテレビの前に座るということができず、気づけば見逃し、まぁいっかってなる場合がほとんどなんですよね。めっちゃ好きな原作のアニメ化作品でも実は最終回だけ見てなかったり、途中何話か見てなかったりがザラ。特に不満がなく面白いなぁと楽しんでいてもです。
(今季は「すべてがFになる」が本当に最高で最高で原作ファンですがありがとうスタッフ大の字!ってかんじだったんですが実は途中2話ほど見てません…別にdisってないんです私が悪いんです本当にごめんなさい)
本当になんでかな……そもそも映像追うのが苦手ってのはある……あとは何だろう、全般的に好きなものでも貪欲に追っていけない欲のなさみたいなものはある、グッズやらライブやらもそう……そしてヲタ友に怒られる……私きっとオタクに向いてないんだろうな体質が……
まぁそんなわけで、おそ松さんはそんな中できちんと見て考えてこんなんやってエントリ書いてるぐらいにはしっかり見てまっとうに(?)楽しんだなぁという感があります。二次創作はできないのだけれど。ちょっとまだ自分の欲求と理性が殴り合いをしているので全部終わってから考えます。
「おそ松さん」はまだ答えをくれないので、考えるしかないのですが、とりあえず私にとってあのアニメは、
「お前もこの世もけっこうやばいよな、でもそのやばさってもう起こっちゃってることであってなかったことにはできないんだよな」
っていうことを言ってくれるアニメだったなぁと思っています。
いきなり私の話で何なんですけど、私この春あたりに就活の面接中に過呼吸起こしてそれからしばらく普通に呼吸ができず人と話そうとするとそのつど過呼吸&ぼろぼろ泣き始めるという状況におちいりこりゃまずいぞと心療内科に行ったらパニック障害の初期と半年間ほど薬を出されるという出来事があったのですが。
正直それも就活があるから医者にすぐにかかったってだけで、そうでもなかったらたぶん即医者に行こうって発想にはならなかったと思うんですよね。まぁなんとかなるだろうとか寝ればなんとかなるだろうとか。
なぜかって私は中学時代に学年でもっともポジティブな人(ほぼ悪口感)に選ばれるほどポジティブで悩まず怒らずという人間だと周囲には思われ、自分もそうだと思い、実際はそれで処理できないこともあるような気がしてもまぁいっか特に問題はないマイライフ、と思って生きてきたわけです。
それが、医者にかかって薬を出され話をし、とかしてみた結果、「あれ、私は案外大丈夫ではなかったのではないかい」と思い始めたんです。
そして周りも、「あれ、こいつは案外大丈夫ではなかったのではないかい」と思いはじめた。
そうしたら、前よりもいろんなことを考えるようになったし、気をつかうようになった。
大丈夫じゃない、ということが分かるようになることは、決して悪いことだけじゃないなぁ、と思ったのが今年の春夏の収穫だったという話です。
で、話戻るんですけど。
おそ松さん2話Bでぼろぼろ泣き始めた私は考え始めました。
「おっこれは大丈夫ではないのではないか」と思ったわけです。
そして発作的にエントリを書き始めた。言語化してしまいたかったからです。分析が必要だと思ったからです。
でも、このあとこのアニメはその「それっておかしいよね、本当は大丈夫じゃないよね、そんな綺麗事じゃないよねこの世はさ」を全力でそりゃあもうフルスイングで展開し始めました。
友達なんていらないと自分から拒否する姿勢をみせることで自分を保っていた一松は「本当はそんなこと思ってないけど」と暴露され、
カラ松は「扱いが全然違う!」と叫び、
ハタ坊はよくわからない方法でお金を稼ぎ、
十四松は女の子に振られ、
素敵なレンタル彼女の正体はイヤミとチビ太で、
せっかく職に就いて稼いだお金で得られたものは虚構で、
楽しげにクリスマスを満喫していたデカパンとダヨーンは最終的に風俗に行きます。
ほーんと、馬鹿馬鹿しいよな、嫌になっちゃうよな、現状ってほんとクソだよな、という話の連続です。しかもそれが最初は良さげな理想で包まれてるところが非常に憎い。意図的に上げて落としてます。スタッフは確信犯だ。
じゃあ金に意味がなく労働にも意味はなく女にも意味はない世界において私たちは絶望して死ぬしかないのか?
というと、そうではないんじゃないかと私は思う。
私には書くのも読むのも好きな物語の軸があって、それは
「この世に意味はないし全くもって絶望的なものだと気づく過程」と
「意味はない絶望的なこの世をそれなりに生きていく方法論」です。
目をつぶっているから幸せだった人が、この世なんてロクなもんじゃねぇと気づくまで。
この世なんてロクなもんじゃねぇけど、そんなのは俺に関係ねぇよと言い切れるようになるまで。
私はそういう話が好きですし、自分がものを書くときはそういうことを描きたい。
綺麗事っていうのは、前者の過程の間は役に立たないクズですが、後者の段階では役にたつようになります。
例えば、人権の欠片も残っていない荒廃した場所で、もうそうしなきゃ生き残れないような状況に追い込まれた時に、そんな中でも「私は人を殺さない」と叫べる人がいるとしたら、その人は真に自由であるといえるのではないかしら。
あの世界は、「赤塚先生がだいぶ前に死んだ」世界です。
楽しい(ように見えた)絶対的世界は失われました。彼らはそこでロクなもんじゃねぇ出来事にダンプカーのように次々とはねられます。
働けばそれだけで大人になれるわけじゃないし、お金は働かないともらえないってわけでもないぐらいテキトーなものだし、働いて得たお金で買えるものだって馬鹿馬鹿しい嘘っぱちでしかないし、ついでに愛は僕たちを救わない。
人体だってそりゃ自然発火したくなるよっていうよーな、アホくささ。
でも、そういう「いきなりこっちの都合に関係なく戸を叩いてくる環境」に対して、一松は「大丈夫だから」と言って、扉を閉めました。時系列的にはまだ先であるはずの、雪の積もる道で。
やつらがクソみたいな世の中に、「本当にこの世ってクソだな!でもそれ、僕個人には関係ないんで!ここがいかにクソな場所でも、僕は好きにやるから!放っといて!!」って叫ぶ日を、このアニメは提供してくれるのか?
それを私は聞きたいし、待ちたいと思います。年明けが楽しみです。
ご清聴ありがとうございました。良いお年を。
お粗末様でした。