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バックヤード

アニメ「おそ松さん」を血を流しつつ視聴する

番外:おそ松兄さんへの搾取が見ててしんどいという話

こんにちは、今回は番外です。

15話がしんどい、しんどすぎるのでとりあえず今度ね。まだ考え中。

 

今回は2話Bの「お前の苦労話と俺の問題は関係ない」というセリフでこのアニメ視聴を決めたわたしが、今何に苦しんでいるか、何が辛いか、長男クラスタやってるのが苦しいよ、という話をしておきます。

もういいよー黙ってたけど、正直そろそろつらいから言語化しておきたいし晒しておきたい。つらいよー誰か聞いてよー

実は結構前に書いたものなんだけど、なんで今晒すかっていうと、今後この話を引き合いに感想かかなきゃいけなくなりそうだし、あとは読むとなんで今かっていうのがわかると思います。

本当に、自己責任でお願いします。石を投げないでください。

トーンが普段と違うけど、そのへんは番外だよを強調するためなのでまぁ箸休め程度に読んでください。

 

 

今回のテーマは「個人を個人を超えた概念として消費、搾取することとされることの功罪」について。

個人を個人を超えた概念として消費する、ということの例として、まずカラ松の話をする。

カラ松のアニメでの扱いについて、視聴者からは「かわいそう」という意見に反論する言葉として「ネタキャラとしておいしいポジションだ」という意見がある。
後者はつまり、カラ松というキャラクターをギャグアニメのオチ要員として消費しているということになる。
もちろん、あのアニメにおいて確かにカラ松はそういうキャラクターとして機能している。
しかしそれはカラ松の意図していることではない。彼は意識してギャグの成立のために痛いキャラを演じているわけではない。

これを、個人(カラ松という人格)を超えた(この場合は無視した)概念としての(オチ要員、ギャグキャラ)消費 と呼ぶ。

これは別に特別なことではなくて、多かれ少なかれ人間こういった消費をし、消費をされて生きている。
また、これらは一方的であるだけでなく、利益のために意図的に行われることもある。

例えば、AKBは国民的アイドルとして消費されている。
彼女たちは個人の人格を超えた概念として消費されるために、恋愛を禁止され、四六時中監視される状態におかれ、と人権の一部を売り渡している。
しかし、それによって彼女たちはお金や承認や地位やその他もろもろメリットを得る。
そのメリットと弊害が釣り合っている場合、平穏な取引が生まれる。

クラスで実は真面目な子がお調子者キャラとして居場所を作ったり、お笑い芸人が自分の不幸をギャグにすることで笑いを取り人気を得たりと、こういった関係は社会に溢れており、それが取引として成立している限り、そこに問題は生まれない。

もちろん、そこから消費されることによる害自体が消え去るわけではない。
結果、カラ松はそんなのは嫌だと声を上げ始めることになる。

 

というわけで本筋に戻る。

カラ松の話はメタ的な意味でのキャラクター対視聴者の関係性だったが、今回は物語世界の内部での話をしたい。

松野おそ松という個人が個人を超えた概念として搾取されているという話だ。


松野おそ松は六つ子の長男であり、変わり果てた六つ子の中での不変の象徴のような男である。
ついでにこのアニメの題名は「おそ松さん」であり、彼は六つ子そのものの象徴、概念の体現でもある。

クールの後半における彼は意識的にそう振舞っているように感じられる。

彼は2話Bにおいて「六つ子は5人の仲間ではなく5人の敵」「長男だからって何、全員同い年だ」「お前が兄弟が欲しかった話と俺は関係がない」と
自分が長男であること、六つ子という共同体の概念の否定、自分の個人性を主張したはずだった。
しかしその後、彼はそういった話はせず、5話、9話、13話と「良い長男」として回を重ね、決定的なのは10話アバン。
彼は自分に相談を持ちかけたカラ松に対して、不変の象徴、六つ子という概念という立場から返事をした。
変わらなくて良い、そのままで良い。
個人の単位では、自分もカラ松ももっと現状に対して悩むべきだ、という自覚を持っているのにも関わらず。

彼はなぜ自分を長男として消費させる、搾取させることを認めたのか。
そのきっかけとなったのは何か。誰が松野おそ松という個人を殺したのか。

 

その話をする前に、ディストピア松野家における家族内ゲームとしてのキャラクターの捉え方について書いておく。

家族内ゲームとしての捉え方、というのは、彼らにそれぞれ人狼ゲームで言えば勝利条件のようなものを振り分けると、一気にキャラクター像が掴みやすくなる、というもので、私がアニメや漫画の世界を整理するときによくやることなんですが。

とりあえず松野家の場合、全員の勝利条件はそれぞれ承認(見てもらう)ことと居場所を確保すること、というのを共通として仮定する。

彼らはそれを共通の目標として持っているが、それぞれ性質は違うため、違った手段でそれを達成することを目指す。

例えば一松はこれがめちゃくちゃ上手。
彼は自分が他人の中に居場所を作ることは不可能だと考えているため、「六つ子という共同体を守ること」を個人の第一クリア条件にしている。
トド松は家族外にも自分の居場所を作ることが簡単にできるため、家族外へと出ていこうとするが、それは一松の条件にひっかかるため、全力で阻止される。
十四松は逆に「誰の条件にもひっかからない」という位置を常にとりつづけることで居場所を手に入れている。
そういったゲームがあまりにも性にあわなすぎた結果全員の条件を満たす形になった時に最下層にくるのがカラ松。


で、おそ松の勝利条件を、彼は特に戦略を立てずともクリアできるものだと信じていた。

「長男だから家は確保できる」と彼が言うように、彼は長男であることだけで、つまりは生まれた時から、居場所は常に用意されており、承認されているものだと信じていた。
その認識が、2話Bのラストにおいてひっくり返った。


ニューおそ松兄さんである。


あの出来事によって、おそ松が長男であるだけで、自分が自分であるだけで居場所を担保されているという認識は崩れ、「他の5人から認められる長男であること」「六つ子という共同体を保ち続け、その頂点に座り続けること」という新しいクリア条件が生まれてしまった。

ではニューおそ松兄さんを用意したのは誰なのか。


個人を個人を超えた概念として消費する一番の例は、アイドルだ。
その名のとおり偶像であり、個人の権利を捨てることで概念として人々に消費され続ける。

では、このアニメにおいてアイドルを消費するという属性を持っているのは誰か。そう、三男チョロ松である。

彼は橋本にゃーちゃん、トト子ちゃん、それからレンタル彼女への態度から、総じて、個人を超えた概念を崇拝する(そして搾取する)側の位置に置かれ続けている。

決定的なのは、8話なごみのおそ松。

彼はなごみ探偵のおそ松を褒め、讃え、必要として利用するが、彼が起こした災厄の責任を負う気はない。
(ちなみにおそ松の負っている借金は500万=5カラ松=5人分である)
ただマネージャーのように彼を頷いて眺めるだけだ。

チョロ松は勝利条件を「何らかの上位の概念を支える役割につくこと」によってクリア、自分の居場所を確保し承認欲求を満たそうとしている。

彼は13話でトド松を排除した「五つ子」のセンターを、おそ松に設定した。順当に行けば三男の彼は自動的にセンターになれたはずだ。しかし彼はそれを望まない。彼にとってのセンターは長男。もちろん、彼の言う「センター」がただの「中央」という意味ではないことは明らかだ。


さて、それではニューおそ松兄さんについてもう一度考えてみる。

ニューおそ松兄さん、つまりヒジリサワショウノスケは、チョロ松と十四松のデリバリーコントによって初めて登場した。
(ちなみにデリバリーコントにおいてヒジリサワショウノスケは「家宝」である。)
その後の2話Bにおいて、ニューおそ松兄さんを企画する理由があった、つまり明確におそ松に恨みがあったと考えられるのは、チョロ松とカラ松だと考えられる。
この2点を総合し、カラ松と十四松にこれをやろうと全員をノセられる力があるかと考えると、この茶番をやろうと言いだしたのはチョロ松である可能性はかなり高いのではないか。
2話以降に彼がにゃーちゃんについて語ったことはない。(たぶん)
にゃーちゃんはあれ以降、ハタ坊の船に乗ってたりポスターにいたりトト子ちゃんの楽屋にいたりしたぐらい。まぁあれだけ本人の目の前で場を荒らしたら流石にもう少なくとも直に会いには行きづらいと思うけれども、とにかく、彼はあの日アイドルを失った。

 


チョロ松は、アイドルとの出会いをおそ松に破壊され
その仕返しに、ニューおそ松兄さんという「家宝」、概念を松野家に持ち込むことで
おそ松を「家宝」という概念にしがみつかせることに成功した。

おそ松を概念としての存在にしたチョロ松が、それを支える役割として想定するのは当然のように「くん」時代からの相棒である自分のはずで、彼はその位置を確保すること(その他の兄弟を平等に保ち続けること)で家族ゲームに勝利する。


自分の居場所を保つには自分が長男らしい長男でいることが必要だと気づいてしまったおそ松は、今「六つ子は5人の敵」「一人っ子が良かった」と言えるだろうか。
状況は悲惨に見えるけれど、少なくともこの搾取は彼に居場所という利益を生んでいる。
松野家はとても巧妙に歯車が噛み合ってしまっている。

 

 

 

ここまで書いてあれ、この発想に至ったのがサリンジャーのグラス家の7人兄弟について考えた結果なんですけど。
グラス家の長男シーモアは兄弟の中で最も天才であり最も変人にして聖人、グラス家の天才兄弟を代表し象徴するような存在なんですけれど、戦争に行って完全に精神を消耗し、
「今日はバナナフィッシュにうってつけの日だ」
(バナナフィッシュとはバナナが詰まった穴に入ってバナナを貪り穴から出られなくなって死ぬという彼の考えた架空の魚)
という言葉を残した日にピストル自殺をするんですね。

で、次男バディという男がおりまして、彼は幼少期はシーモアにくっついて動き他の兄弟をシーモアの思想に洗脳する片棒をかつぎ、彼の死後は彼の聖人性を伝える小説を何冊も書きます。

なんか、怖くない?

彼の死については様々な説があるし、要素がこれ以外にいろいろあってなんとも言えないし、こんな話するといろんなファンから殴られそうだけど、少なくともバディはシーモアが死してなお、彼をヒーローとして消費することをやめなかったんだなぁと、最近思う。

今の思考回路のままのおそ松兄さんが、何らかの事情で自分が良い兄さんでいられないことを悟ったとしたら、どうするんだろうね。

 

たぶんおそ松兄さんが唐突に死んだとしたらチョロ松はバディのようにおそ松兄さんを心置きなくアイドルとして死ぬまで消費し続けるか、
もしくは連鎖的に自分の居場所を失ってアノニェー状態か(知らない人は夜中にググるのはブラクラ喰らうのでおすすめしない)どっちかだろうなぁ。

 

 

 

というのが最近の頭の中です。生きるのがつらい。

本編見ててしんどいから二次創作見るじゃないですか。本編以上に弟たちが兄さんを搾取しているじゃないですか。胃を壊すじゃないですか。

でもよく考えたら私がおそ松兄さんを愛して、2話Bの叫びのように、私の欲しい言葉をくれるのではないかと期待して毎週TVの前に座っているのも、彼を救世主として消費しているだけなんじゃないかとも思ってしまうじゃないですか。胃を壊すじゃないですか。

というループで最近まじめにつらいです。

私はチョロ松が大好きです。他の兄弟たちも本当に大好きです。ついでに言えばこういう状況になったのはほとんど自業自得です。だから、誰も恨みたくない。全員幸せになってほしい。いや今の状態もある意味では幸せなんだけど、そうじゃなくてこの居心地の良い地獄を焼き払ってから改めて幸せになってほしい。

もう一度おそ松兄さんがきちんと「松野おそ松」として立ってくれるのを待っています。でも早くしてくれそろそろ胃に穴が空きそう。


赤塚先生、なんとかなりませんかね?

 

 

 

すごい!長いぞ今回!ここまでスクロールありがとうございます!

 

お粗末さまでした。