バックヤード

アニメ「おそ松さん」を血を流しつつ視聴する

「おそ松さん」2クール目OP しんどい私の今後の展望の話

あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。

 

ということではい!2クール目が始まりました!!ぱちぱち!!!

 

諸事情によりニコ動配信まで待つ羽目になってしまったので今頃13話見ました!

フルスロットルで突っ走ってましたが、正直なところ

「だいたい今までの話で説明ついてんじゃん」

っていうのが感想で、取り立てて書く事がすぐに思いつかなかったので、13話についてはおいおい気が向いたら書くとして、とりあえず早急にしなきゃいけない話を先にしようと思います。

 

 

 

usenri.hatenablog.com

 

13話放送後から、こいつがちょいちょい皆さんに読まれているようです。ありがとうございます。みなさん好きですね、ポリティカル・コレクトネス問題。

 

12月半ばに書いたものがなんで今更伸びてるのか、びびったんですが、どうやら13話後にいくらかこういう話題が出回るようになったようですね。直接はあんまり見かけてないんですが、察するにというところです。あっちょっと先見の明感があって嬉しいぞ。

 

実際見たら、あーここかぁ、というところは推測できましたけれど、別に13話だけが特別なんじゃなくて、このアニメはずっとそういうことをやっていて、それが10話や13話でよりわかりやすい形で出てきたっていうそれだけのことなんですけれどね。

13話見ても大筋感想は上のエントリと変わんないです。そんな感じです。

 

で、まぁ10話はわりと自分の話してないんですけど、だいたいここは

 

usenri.hatenablog.com

usenri.hatenablog.com

 

こういう感じの人間がこういうニュアンスでふわっと書いているということをわかっていただけると幸いです。

ふわっと書かない、つまりは理論で相手をぶん殴りつつぶん殴られないように理論で先制防御を固めるという大学人生で学んだことを活かした一人戦争とかは別にここでやりたいことではないので、ふわっとね。ふわっと。

 

という感じで今後も当ブログは元気に血反吐を吐いていこうと思います。

 

ちゃんちゃん。

 

で終わるのも何なので、オープニングの話をします。

つまり、上の駄文と同じく、私とこのアニメの今後の話です。

 

実を言うと私13話見る前にOPだけ某所で見てしまって(許してくれほんの出来心だったんだ)なんていうかもう、それだけで私はさめざめと泣き、大の字に寝転がり、何度もループし、泣きながら掃除を始め、すごい勢いで断捨離ができました。ありがとうおそ松さん。まぁそれはどうでもいいんですが、とりあえず私は

「もう安心だ」

そう思いました。

 

いろいろ言えば長くなるものの、とりあえず、まずは

六つ子という概念から分裂した奴らは分裂したままにまた一つの六つ子という概念に戻ってきますよ

ということだと私は思いました。

「はなまるぴっぴ」では様々な方法で「一つだった六つ子は6つに分かれます!分裂します!拡散します!切り分けられます!」ということを表現していました。

その逆です。「全力」のほうは「六つ子は収束します!輪切りからくっつきます!同じ方向へ向かいます!」をやっている。

ただし、それはただのループではなく、それぞれが別の色の道を走った上で、です。

決して、元の状態(それは「おそ松くん」の状態なのですが)には戻らない。

彼らは分裂を経て、もう一度六つ子に回帰します。

 

それではそれは幸福なことなのか?

というアンサーが、原始人(たぶんそう)のくだりにあります。

あったぶんそうって言ったけど原始人もしくは神話の中の「人」ってとこかな格好を見るに。訂正。

まぁとりあえず彼らはF6のポーズをとります。

そういえばこれ初見の人もいるのか。えーっと一話で彼らが取ったこのポーズで何が起こったかというと、隕石を落とし、世界を救います。そういうポーズです。六つ子がまだ「くん」だったころのポーズ、「はなまるぴっぴ」が流れる前のポーズです。

その結果、彼らは火を手に入れると。格好的にギリシャあたりのイメージですかね。プロメテウスさんあたり。それは人間に文明と幸福をもたらしたが同時に戦争を引き起こした。まぁ日本神話とか他の神話でも火ってそういう存在だし、実際人類史的にもそうですよね。

 

ざっくり言えば、

外部からの攻撃(までいかなくても働きかけ)に立ち向かうために、六つ子が再び一つになる

その結果、彼らは結論を得て生まれ直すが、それは彼らを幸福にし、同時にそれを得た故に不幸にもする。

 

はい!!いいよ!!私の好きな話だ!!それを聞きたかったんだ私は!!詳しくは一個前のエントリをどうぞ!!

いやー安心しました。とりあえずたぶんこのあと、六つ子の崩壊は順調に進み、チョロ松と一松が制裁を受け、彼らがしがみついている「俺があいつで俺たちは俺」という場所は消滅します。もうあってないようなもんだけど。

その上で、その後きっと次の段階がやってくるけれど、それは今までとは別の形での「六つ子」である って至れり尽くせりかよ!!公式は親切!!ありがとう!!

 

まぁそんなわけで、私は安心しました。

きちんとね、そのあたりまでね、やってくれるってわかったから。バッドエンド(上記の話をバッドエンドと捉えることもできなくはないという留保つきで)はこないから。もうあとはスタッフさんたちの手の上でね、その日まで楽しく痛めつけられて血反吐を吐けばいいんですからね。

 

というわけで、結論としては、「これからやってくるものは、痛いけれども、知らないよりはずっと価値が有る痛みだ」という、私がこのアニメに期待しているものが見られそうだということがわかったので、これからも「おそ松さん」見るよ、って、そういうことです。

以上!

 

お粗末様でした!!

 

 

「おそ松さん」1クールを終えてしんどい私は何を考えたかという話

はい、追いかけていた「おそ松さん」、ついに1クールが終了しました。ぱちぱち。

2クール目がきまって本当によかった。安心して正月を迎えられます。(予告された年明けのびっくりから目をそらし)

 

私は漫画を読み二次創作をし二次創作を読み四六時中そういうことを考えている、一言で言ってまぁオタクですが、実を言うとアニメをリアルタイムで最終回まで追い続けるということは本当にめったにないことで、本当に快挙です。

私アニメって見てああ面白いなぁって思っても毎週見る時間を確保してテレビの前に座るということができず、気づけば見逃し、まぁいっかってなる場合がほとんどなんですよね。めっちゃ好きな原作のアニメ化作品でも実は最終回だけ見てなかったり、途中何話か見てなかったりがザラ。特に不満がなく面白いなぁと楽しんでいてもです。
(今季は「すべてがFになる」が本当に最高で最高で原作ファンですがありがとうスタッフ大の字!ってかんじだったんですが実は途中2話ほど見てません…別にdisってないんです私が悪いんです本当にごめんなさい)

本当になんでかな……そもそも映像追うのが苦手ってのはある……あとは何だろう、全般的に好きなものでも貪欲に追っていけない欲のなさみたいなものはある、グッズやらライブやらもそう……そしてヲタ友に怒られる……私きっとオタクに向いてないんだろうな体質が……

 

まぁそんなわけで、おそ松さんはそんな中できちんと見て考えてこんなんやってエントリ書いてるぐらいにはしっかり見てまっとうに(?)楽しんだなぁという感があります。二次創作はできないのだけれど。ちょっとまだ自分の欲求と理性が殴り合いをしているので全部終わってから考えます。

 

 

「おそ松さん」はまだ答えをくれないので、考えるしかないのですが、とりあえず私にとってあのアニメは、

「お前もこの世もけっこうやばいよな、でもそのやばさってもう起こっちゃってることであってなかったことにはできないんだよな」

っていうことを言ってくれるアニメだったなぁと思っています。

 

 

いきなり私の話で何なんですけど、私この春あたりに就活の面接中に過呼吸起こしてそれからしばらく普通に呼吸ができず人と話そうとするとそのつど過呼吸&ぼろぼろ泣き始めるという状況におちいりこりゃまずいぞと心療内科に行ったらパニック障害の初期と半年間ほど薬を出されるという出来事があったのですが。

正直それも就活があるから医者にすぐにかかったってだけで、そうでもなかったらたぶん即医者に行こうって発想にはならなかったと思うんですよね。まぁなんとかなるだろうとか寝ればなんとかなるだろうとか。

なぜかって私は中学時代に学年でもっともポジティブな人(ほぼ悪口感)に選ばれるほどポジティブで悩まず怒らずという人間だと周囲には思われ、自分もそうだと思い、実際はそれで処理できないこともあるような気がしてもまぁいっか特に問題はないマイライフ、と思って生きてきたわけです。

それが、医者にかかって薬を出され話をし、とかしてみた結果、「あれ、私は案外大丈夫ではなかったのではないかい」と思い始めたんです。
そして周りも、「あれ、こいつは案外大丈夫ではなかったのではないかい」と思いはじめた。

そうしたら、前よりもいろんなことを考えるようになったし、気をつかうようになった。

大丈夫じゃない、ということが分かるようになることは、決して悪いことだけじゃないなぁ、と思ったのが今年の春夏の収穫だったという話です。

 

 

で、話戻るんですけど。

おそ松さん2話Bでぼろぼろ泣き始めた私は考え始めました。

「おっこれは大丈夫ではないのではないか」と思ったわけです。

そして発作的にエントリを書き始めた。言語化してしまいたかったからです。分析が必要だと思ったからです。

 

でも、このあとこのアニメはその「それっておかしいよね、本当は大丈夫じゃないよね、そんな綺麗事じゃないよねこの世はさ」を全力でそりゃあもうフルスイングで展開し始めました。

 

友達なんていらないと自分から拒否する姿勢をみせることで自分を保っていた一松は「本当はそんなこと思ってないけど」と暴露され、

カラ松は「扱いが全然違う!」と叫び、

ハタ坊はよくわからない方法でお金を稼ぎ、

十四松は女の子に振られ、

素敵なレンタル彼女の正体はイヤミとチビ太で、

せっかく職に就いて稼いだお金で得られたものは虚構で、

楽しげにクリスマスを満喫していたデカパンとダヨーンは最終的に風俗に行きます。

 

ほーんと、馬鹿馬鹿しいよな、嫌になっちゃうよな、現状ってほんとクソだよな、という話の連続です。しかもそれが最初は良さげな理想で包まれてるところが非常に憎い。意図的に上げて落としてます。スタッフは確信犯だ。

 

じゃあ金に意味がなく労働にも意味はなく女にも意味はない世界において私たちは絶望して死ぬしかないのか?

というと、そうではないんじゃないかと私は思う。

 

 

私には書くのも読むのも好きな物語の軸があって、それは

「この世に意味はないし全くもって絶望的なものだと気づく過程」と

「意味はない絶望的なこの世をそれなりに生きていく方法論」です。

目をつぶっているから幸せだった人が、この世なんてロクなもんじゃねぇと気づくまで。

この世なんてロクなもんじゃねぇけど、そんなのは俺に関係ねぇよと言い切れるようになるまで。

私はそういう話が好きですし、自分がものを書くときはそういうことを描きたい。

綺麗事っていうのは、前者の過程の間は役に立たないクズですが、後者の段階では役にたつようになります。
例えば、人権の欠片も残っていない荒廃した場所で、もうそうしなきゃ生き残れないような状況に追い込まれた時に、そんな中でも「私は人を殺さない」と叫べる人がいるとしたら、その人は真に自由であるといえるのではないかしら。

 

あの世界は、「赤塚先生がだいぶ前に死んだ」世界です。

楽しい(ように見えた)絶対的世界は失われました。彼らはそこでロクなもんじゃねぇ出来事にダンプカーのように次々とはねられます。

働けばそれだけで大人になれるわけじゃないし、お金は働かないともらえないってわけでもないぐらいテキトーなものだし、働いて得たお金で買えるものだって馬鹿馬鹿しい嘘っぱちでしかないし、ついでに愛は僕たちを救わない。

人体だってそりゃ自然発火したくなるよっていうよーな、アホくささ。

 

でも、そういう「いきなりこっちの都合に関係なく戸を叩いてくる環境」に対して、一松は「大丈夫だから」と言って、扉を閉めました。時系列的にはまだ先であるはずの、雪の積もる道で。

 

やつらがクソみたいな世の中に、「本当にこの世ってクソだな!でもそれ、僕個人には関係ないんで!ここがいかにクソな場所でも、僕は好きにやるから!放っといて!!」って叫ぶ日を、このアニメは提供してくれるのか?

 

それを私は聞きたいし、待ちたいと思います。年明けが楽しみです。

 

ご清聴ありがとうございました。良いお年を。

 

 

お粗末様でした。

 

「おそ松さん」10話 しんどい私がポリティカル・コレクトネスについて考えた話

こんにちは。

卒業論文が終わったので心置きなくエントリがかけます。

配信もあったことですし、10話Aというかレンタル彼女について書いておこうと思います。釣り堀の話は前回したので。

 

今回は、10話を見て女性というものとかなんやかやについて考えてみたよという話です。

 

そういえば私は以前ここではないどこかでポリティカル・コレクトについての考察をしたことがありまして(たしかベイマックス日本版コミカライズについて)その時のが私史上ではかつてないぐらいに拡散されましてあーだこーだと少々火の手が上がり、すわこれはキャンプファイヤーかとマシュマロを買いに行って帰ってきたら既に鎮火していたというようなことがありました。世の中いろんな意見があるし文脈を汲んでくれない人もいるし社会というのは面白いものだと思ったのですが今回も少々そういう話になります。

はい、声を揃えて! \自己責任エントリ!!/

というわけで始めます。

 

10話「イヤミチビ太のレンタル彼女」をざっくりまとめると

・レンタル彼女というビジネスを知り、女装をしてお金を稼ごうとするイヤミとチビ太

・全く売れない上に六つ子に馬鹿にされた二人はデカパン博士の美女になれる薬を飲んで美女に変身し、六つ子を夢中にさせ金を搾り取る

・薬の乱用で効果が薄れ、正体がバレ、六つ子に復讐される

というのがめちゃくちゃ雑なストーリーまとめです。

 

今回のポイントとしては、「レンタル彼女」とはどういう存在だったのかという話と、それをアニメでギャグとしてやることについてという話です。

 

最初にこの「レンタル彼女」って何なのさという話をします。

とりあえずこの世界に「レンタル彼女」という現実というか生生しさを持ち込むのがすさまじいなと思いますがまぁそれはそれ、

この話のキモは、

「男が男のために男の理想の女を演じ、それに中毒する男」

という構図のヤバさだと思います。

 

イヤミとチビ太は男性です。
男性である彼らが「女」を商品として売ろうと考えたわけです。(その女が自分であるというのがギャグなのですが)
その結果、彼らは六つ子、とにかく女の子には耐性がなく無邪気で疑いを持たない存在である彼らを虜にすることに成功しました。
なぜなら彼らは男であったから。男性が求める理想の女性像というものを的確に演じることができたのです。


そのわかりやすい比較としてトト子ちゃんという女の子が登場します。

彼女は自分が可愛いと思う格好をします。そして、それは当然褒められるものだと思っています。そしてそのズレはそれ自体がギャグになるほどすさまじい。

(彼女に対する10話以外の六つ子の感覚は置いておいて)
視聴者は、男女問わず、無意識的に「アイドル」というものに「男受け」「もしくは世間が「これが男受けするもの」だと感じるであろう要素」を要求しており、そうでないトト子ちゃんの格好を「ギャグ」「笑いどころ」として受け取ります。
本当に無意識的に、です。8話「トト子の夢」ではそうでした。

しかし、10話で彼女がシャコの格好をして出てきたとき、比較対象を得てそれは意識されるようになります。
つまり、「イヤ代とチビ美は男にとって魅力的だ、比較するとトト子はそうではない」
もちろんトト子ちゃんは可愛いんです。めちゃくちゃ可愛いんですよ。でもたぶんこの場面では「違う、ズレてる」ってなるはずなんです。

 

さらにこのアニメが確信犯的であるのは、二人のぼったくり方。
イヤミはチョロ松から、基本料、手をつないだオプション料に加え、

目があった料、周りへの優越感料、生足、おっぱいチラ見料、たぶん一生経験できない思い出料

を請求します。

イヤミは男性が美女を連れて歩くことが、男性にとってこういうことを意味している、価値が有る、とはっきり断言し、当然のごとくその分の料金を男性に請求した。

なぜなら彼は男性であるからです。男性であったからこそ美女を横に置く価値を理解し、男性であったからこそそれを主張し報酬を受け取る権利をかざした。

ヤバくないですか??

私はめちゃめちゃヤバいと思いますよ??

 

 

さて、ここからが次の話なんですが、こういう話をアニメでやるということはめちゃくちゃすごいことですよっていうことです。

 

もう一つ例を挙げます。

10話の初めに、六つ子は女装をした三人を罵倒します。
それは、「知り合いの女装のクオリティが低く、見るに耐えなかったから」ではなく、
「醜いから」というものでした。
彼らはイヤミとチビ太とダヨーンの名前を挙げることはしませんでした。
気づいていたのかいなかったのかというのは問題ではない。
「じゃーな!ブス!!」という罵声からもわかるように、彼らは人間(女)の価値を美醜で判断し、価値がなければ罵って良いと考えた。

ここは腹を立てたっていいところなんです。指を指して糾弾して良いところなんです。人の価値は見かけの美醜にはよりませんし、醜ければどんな扱いをしたっていいかといえばもちろんそんなわけはありません。それでもこういう嘲りの言葉は目にしない日はないほど現実問題溢れている。

 

でも、制作する側がその「人を醜いと言って罵るのは間違っている」という自覚を持った上で、
「これはギャグである」という体裁をとれば、そしてギャグであるという期待を視聴者が持って見れば、それは正当なギャグになりうる。

 

私たち視聴者は六つ子がその罵倒の報いを受けるということを予想して見ることができますし、実際そうなります。彼らは自分が馬鹿にした二人に金を巻き上げられる。
私の心は穏やかです。面白かったなぁ、と笑うことができる。

 

この「間違っているとわかった上で」「間違っている自分たちを嘲笑ってみせる」というものがこのアニメはめちゃくちゃ上手いんですよ。
そして何を「間違っている」とし、その間違いがどれだけ巷に溢れているかという認識がめちゃくちゃ気持ちいい。

時々槍玉に挙げられたりする様々なコンテンツって、ここがずれてるんですよ。
まず、「間違っている」という自覚を持っていない。
それから、それを「間違っている」と消費者に感じさせるのが下手。
そしてそれを「わかってやっているんですよ」というアピールが下手もしくは過剰。

 

もちろんここでいう「間違っている」のが普遍であるか本当に間違っているのかという問題は全く別の問題なのでここでは問いません。

 


私、こういう、なんだろうポリティカル・コレクトが近いけどなんかしっくりこないな、ゆるく言えば「社会的に倫理的に、今の時代のいろんな立場の人たちが楽しめるものをできるだけ目指していこうとする努力」、みたいなものに対しては、

「それがあれば良いという問題ではないし、ないものは即刻排除されるべきだとも思わない。ただこれから世に売れるものを生み出そうとするのならそのへんのセンスはほしいし、その感性があったほうが売れるという流行を察知するセンスがないというのはダサい」

というぐらいに考えています。モノ作る人ならそのへん鋭敏でいてほしいよと。
本当にポリティカルにコレクトなマインドを持っている必要はもうこの際なくていいから、それがないとか今時ハヤらないぜという感覚がほしいよと。

 

そういうことが、このアニメはめちゃくちゃすごい。
脚本や演出がすごい。赤塚ギャグというラッピングがすごい。ついでに自己責任アニメだという予防線も貼ってある。つよい。

現代で女性であるということがどういうことか、そして男性であるということがどういうことか、そしてその両方がどれだけ嘘と軽蔑と不愉快な消費に塗れているか。

これだけの情報量がたったの20分です。本当に恐ろしい。つよい。勝てない。

 

 

今回の話の結論は「おそ松さんつよい」です。ありがとうございました。

 

 

お粗末様でした。

「おそ松さん」10話 しんどい私はそのままで良いのかという話

はい。こんにちは。見ていただいている方ありがとうございます。

というわけで今回も「おそ松さん」10話について書いていこうと思います。

 

10話はアバン(OP前)とAパートのみの構成になっていました。
Aパート、なかなかはっちゃけていましたね。
六つ子の性格の差みたいなのがいっぱい見られて楽しかったです。

それで、

それでですね、

今回考えていきたいのはレンタル彼女の是非ではなく、

OP前の釣り堀トークです。

 

ここへ来てまさかのど直球に私は動揺し
思わず一時停止をかけ(録画組です)
今見たものを消化するためにしばらく黙って座って
冷静にもう一度見直そうとして冷静になれず一時停止をかけ
みたいなことを五回ぐらいやっていました。なんだあれ。

おそ松さんは本当に素晴らしいアニメで、何が素晴らしいかって
毎回このぐらいかな、これぐらいなら耐えられるな、というところを軽やかに超えてこちらをぶん殴ってくるところでして、そんなわけでこの突発1エントリ限りブログになりそうだったここに通っているわけです。

 

今回のテーマは「カラ松はそのままでいいのか」問題です。

 

どうやらTLを眺めていると、長男おそ松次男カラ松の会話に「救われた」と語る視聴者と「闇が深まった」と語る視聴者がいるようです。
もう本当に、この差はでかい。同じものを見てどうもこう違うコメントが出るのだ。
んで、結局どっちなんだ!ということをちょっと考えたい。

 

動揺と混乱のためいつもより文章が散らかっております。ご注意ください。

 

加えて一度お断りしておきますが、このブログで言ったことはありませんでしたが私の推し松はおそ松兄さんであり、兄さん可愛いよと叫びながら自分の貯金用封筒に「おそ兄のパチンコ代」って書いて嬉々としてお札を突っ込んでるような馬鹿女なので、その視点は省こうと思いつつも兄さんに関してはちょっと頭が回らないところがあるのでその辺はご容赦ください。今夜は最高!!!!!

 

さて、会話を振り返りましょう。

・並んで釣りをする二人。悩みがあると言うカラ松
・「まぁお前は悩んだ方がいいよね、ああ俺もか」と言って笑うおそ松
・カラ松の悩みは「イタいと言われる意味がわからない」こと
・それにおそ松は「イタいのがカラ松、変わる必要はない」と言う
・それでもと言うカラ松に、おそ松はカラ松のファッションのイタい要素を指摘し、大げさにイタがる。動揺するカラ松。
・急にイタがるのをやめ、「耐性がついた」と言うおそ松。

「お前は変わらなくていいよカラ松。周りの感覚が馬鹿になればいいんだ」

・納得するカラ松。並んで釣りを続ける二人。
・「何が良かったの???」と堀から飛び出し突っ込むトド松。

 

衝撃的です。
まず、このアニメがただのコントで笑いを取るための役割論を捨てているということを直球で宣言しています。もうただの「深読みでしょ?」では済まされないところにきている。
カラ松は兄弟達や周囲から理不尽な目に遭うことで笑いを取り、パラレルでは出オチと呼ばれ、兄弟からウザがられることでギャグアニメ(自己責任アニメと本人達は言い張りますが)のキャラクターとして成り立っていたキャラです。そんなキャラクターがそれを悩むということは、彼のギャグアニメにおける存在に関わる問題です。悩んでいるかもしれない、でも少なくとも「悩みがある」と宣言する必要はない。それでも彼は言った。
そういう風には生きていたくない、自分は兄弟を愛しているのだから、と。
やっぱこれギャグアニメじゃなかったわ、と思いつつ、それに対してどう答えが返ってくるのかというと

 

「それがカラ松、変わる必要はない」
「変わらなくていい、周りが慣れればいいのだから、周りが馬鹿になればいい」

うわーーーーーー!!!う、うわーーーーー!!

 

言語を失っている場合ではないので、なんとか言葉でこのやり場のなさを書こうと思います。

結論から言うと、私はこの言葉でカラ松が救われて良いのかもわかりませんし、しんどい私がこの言葉で楽になれるのかというと、それもわかりません。
なんかもう、わからないんです。

まず、カラ松は親や周囲から十分に「見られる」戦略として外面を武装し、ロールモデルを作って自分というキャラクターを構築した結果、少し失敗して周囲から見放されてしまった存在だということを前のエントリで書きました。


今回の会話で、カラ松はそもそも「なぜその戦略が失敗したのか」を理解していないことがわかりました。だから、どんなに無視されてもカッコつけることをやめません。無視されるのは嫌でも、どこに原因があるのかはわからないのです。でも、「イタい」と言う言葉から、「自分がきっと誰かに不快な思いをさせている、だから見てもらえないんだ」というふうに思っている。原因はわからないけれど、理由はわかっています。
だから、今回はその理由から、原因を知ろうと相談したわけです。
彼にとって唯一の兄であるおそ松に。

対して、おそ松はどういう男かというと、彼は六つ子の長男であり、なんといってもこのアニメのタイトルは「おそ松さん」です。彼は子供の頃から集合体の代表であり、「俺たちは俺」というのがしっくりくるキャラクターです。扶養面接では、一度母親に寄せてから、わがままな本音を暴露し甘えてみせることで扶養を勝ち取るという実力をみせつけました。彼はそれなりに「見られる」ことに成功し、また空気を読む能力も持ち、兄弟の代表としての信頼を(そこそこ)得られるように自分を演出する戦略をとることもしています。カラ松が負け組であるとすれば、彼は勝ち組です。松野家の兄弟カーストで上位に位置しています。
そしておそ松は、カラ松がなぜイタがられるのか、その原因をきちんと把握しています。

 

問題は、おそ松の言う「そのまま」が何を指しているのかという問題です。

 

カラ松にとって、「そのままでいい」が欲しい言葉であったのは確かです。お前は悪くない。周囲が変わればいい。そうすればお前が誰も不快にしない時がくる。
これはある意味では真理です。彼がどんな男であろうと、周囲が理解を示して、暖かく付き合っていくということは可能ですし、理想です。
「そのまま」が、「お前がどんな格好をしていても、お前自身なら」という意味であれば、それは優しい一言でしょう。

 

しかし、この文脈で、しかもおそ松からの言葉だと考えると、それがこの世界で彼が望んだように生きていくためには適切なものかどうかが怪しくなってきます。

「そのまま」が「カラ松の間違った戦略」を指している場合です。
カラ松がこのままイタい格好をし続けたとして、現状が変わることはおそらくありません。それは彼にずっと「負け組でいろ、見られない存在でいろ」と言うのに等しい。
周りが馬鹿になれば良い、というのはただ、お前を理解できない周りがおかしい、と言っているのではなく、お前はおかしい、という前提に立った言葉です。

おそ松はおそらくこの狂った松野家のカースト制度構造の中でうまく機能する術を最も身につけている存在です。彼からの、「そのままでいい」はそのシステムを今後も滞りなく継続させていくための彼の戦略とも読むことができます。意識的か無意識的かはわかりませんが。

 

そして、カラ松はその言葉に「よかった」と安心します。おそらくは心から。
「そのままでいい」はカラ松の欲しかった言葉でありつつ、現状を何も変えない力を持った、甘く残酷な言葉です。そして、カラ松にはそれにあらがうほどのパワーがありません。

それがどんなものであれ、彼はそれを自己生産し続けなくてはならないほど、肯定に飢えているのですから。

 

最後につっこみを入れたトド松は、松野家カーストの中で本来比較的弱者でありながら、上とつながって居場所を手に入れたり、外へと出て行ったりと、特殊な位置にいます。
そんな彼からの「そうやって安心してる場合じゃないよ」というツッコミと、その後の沈黙が、一見穏やかで前向きに見える会話にひっかかりを残します。

 

で、こう書いてはみたんですけど、

やっぱりわかんないんですよ、この「そのままでいいのか」問題。

そのままでいいわけがないということは重々承知しています。

ただ、そんななんの解決にもならない言葉でも、欲しいものは欲しいんですよね。

なんでもいいから、そう言ってもらえたら、現状が何にも変わらなくても生きていけるような気はする。

本当は、「どんなでも良いから、君が好きだよ」「大丈夫だよ」がもらえれば良いのですが、それはなかなか難しいことなので、とにかく今は「そのままでいい」で十分。

そういう気持ちも、めちゃくちゃわかるんですよね。

だから、一言で、そのままでいいのかどうか、わかりません。
今後、そういう現状を変えないまやかしの「大丈夫」で少し栄養をつけて、それからの辛い「そんなんじゃダメ」に耐えられる体力をつけられるような状況になれるのかどうか、そこにかかっていると思います。

 

こんだけ長い文書いておいて「保留」というのはどうかと思うのですが、今後彼の悩みにどうオチをつけてくれるのか、私はすごく楽しみにしています。

このアニメは非常に残酷で、それを見せてくれる真面目で親切な優しいアニメです。泣いたり笑ったりは自己責任ですが、自己責任を取らせるだけのリスクに見合う何かしらを毎回提供してくれることは確かです。

 

いつも以上の駄文、失礼いたしました。本当、血反吐が止まらない世紀末アニメです。今夜は最高!!!!!

 

 

 

お粗末様でした。

「おそ松さん」9話A 「チビ太とおでん」がめちゃくちゃしんどいという話

 はい、こんにちは。

 

リアルが一段落したので9話A「チビ太とおでん」感想いきます。
題名の通りです。あれがごりっごりに精神を削ってきたという話です。
「おそ松さん」はディストピアでのサバイバルゲーム物語だという持論を早く公式には覆してもらいたいものです。しんどいから。

 

このブログの他のエントリを読んでいない方には、まず最初のエントリを読んでいただきたいと思います。

 

usenri.hatenablog.com

言いたいことは、けっこう同じです。2話Bが一種の9話AのIFのような面がある気が私はしています。ですので、できればお時間あれば前のエントリから順に読んでいただきたいです。

 

 

ということで、ついに、カラ松くんの話をする機会がやってきました!!!

 

なぜこんなに意気込まなければならないかというと、カラ松くんについて考えるとものすごいHPとMPを消費している気分になるというか、発言がすべてブーメランよろしく眉間に突き刺さって血が溢れるというか、二言目には「つらい」とか呻き始めてしまうからです。つらい。

 

今回も自己責任エントリです。石を投げないでください。

 

まず、チビ太とおでんについてざっくり整理します。

・チビ太の屋台に一人おでんを食べに来たカラ松。チビ太はカラ松にやりたいことを尋ねる。彼の挙げた条件におでん屋があてはまるというチビ太は、カラ松を無理矢理弟子にしようとしおでんの極意を伝える。自分の話を聞いてくれずに弟子にされそうだということ、チビ太のおでんを作る狂気に満ちた様子に恐怖を感じたカラ松は、そこから逃げ帰る。

ということになると思います。

 

さて、次にカラ松くんというキャラクターについて、9話Aで得た印象も含めて私が感じていることをまとめます。
私が感じていることです。つまり主観です。許してください。(あと公式サイトの解説が引っ張ってこれないもので…何なんだあれは)

 

カラ松は、カッコつけで、ナルシストです。いつも鏡を見ています。元演劇部で、いつも芝居がかった台詞を話します。尾崎に憧れています。服のセンスがイタいです。そんなイタさによって兄弟には無視されがちです。よくボコられます。それにひるむ気の弱いところもあります。自分の待遇に文句を言うことは「基本的には」ありません。

 

カラ松は、六つ子内「俺を見てくれアピール」戦争の敗北者です。

彼には、チョロ松のようなツッコミのスキルも、トド松のような要領の良さもありませんでした。9話Aを見れば、彼がどれだけ人に口を挟んで上手いこと自己主張をするのが下手かがよくわかります。「うわお前ツッコミ下手くそだな!!!」って見てて思いましたもん。
結果、戦争に勝利するためには戦略が必要でした。中身に武器のない彼は、尾崎をロールモデルにし、外見を飾り、言葉を飾ることで武装しようとしました。

しかし、その戦略は失敗に終わり、彼は六つ子の中で、最も「見て」もらえないポジションに座ることになりました。


それがはっきり現れたのが、4話の面接です。
ナルシストであるはずの彼は、自分をアピールする言葉と材料を持っていませんでした。
彼がしたことは、おそ松と一松の言葉を繰り返したことだけ。
長男おそ松は、たぶん最も「見られ足りている」息子です(題名を見ればよくわかりますが)。彼は、飾りを捨てて、ありのままにわがままを言うことだけで「見て」もらうことができます。
そうでない四男一松は、自分を危険人物であると売り込む戦略によって、「見られる」ことを勝ち取っています。
カラ松にはそのどちらもない上に、他の模倣をしたのでは選んでもらえることはありません。結果保留になる。シカトされる。抜きで次の話を進められる。
しかし、彼には「このシステムおかしくない??」と声を上げることもできません。
痛さが分からないわけではないのです。5話では扱いが違うと叫んでいましたし、理不尽な扱いには戸惑いを見せます。しかし、怒り反撃に向かうことは、ない。
彼は兄弟が好きですし、(自分を虐げる筆頭でもある)一松に「信じてるぜ」と言うことができる。彼の夢は世界平和です。セラヴィ、これでいいのだと、きっと、たぶん、皮肉でもなく心から言える。

 

なんか、怖くない?ちょっと大丈夫かお前。ちょっと怖いぞお前。
お前、痛かったら、怒っていいんだぞ。大丈夫なんだぞ。


おっ、今、書いててけっこうブーメランで死にたいぞ。続けます。
そんな空っぽのカラ松くんと、チビ太が二人になると何が起こるのか。


チビ太は良いやつです。カラ松事変のこともあってか、とても優しい。彼のことを気にかけてくれます。アドバイスをくれ、相談に乗ってくれました。
そして、カラ松におでん屋が向いていると思ったチビ太は、暴走を始める。

チビ太はおそらく孤児ではありますが、努力と忍耐の上に立派に大人になり、それに誇りを持っています。あのアニメの中で、最もまっとうな精神を持っていると言っていい。
それはおそらくアニメの意図的な位置づけで、おそ松には長男が弟を心配させるな、イヤミにはプライドがなければ人生おしまい、と、大事なことはみんなチビ太が教えてくれた、みたいなことになっています。
そんな彼が今回は、カラ松に「影響を与えようとした」。カラ松は言い返す力を持たないので、それは「一方的」な押し付けの状態になりました。


誰かが一方的に、自分に影響を与えようと働きかけてくれることは、カラ松にとって泣くほど怖いことでした。

ここ、私見てて「めっちゃわかる!しんどい!!」ってなったんですよ。
チビ太のように、人のために、良かれと、手を差し伸べてくれる人はたくさんいます。
でも時々、その「優しさ」「貴方のため」で私の中に手を突っ込んでくる人っていうのもいるんですよね。俺が変えてやるぜ!みたいな。
それはたぶん決して悪いことではないのです。受け入れる側がきちんと受け止める余裕と変わるだけの中身があるのなら。

カラ松にはそれを受け止める装備が全くありません。空虚な内側に人にいきなり踏み込まれ、自分の意志を無視して荒らされることは、恐怖です。結果、怖いと泣くことしかできない。
それに対して、おそ松なら、拒みたい時にはNOをつきつけることができます。それが2話Bです。

「関係なくない?????」

 

本当にそうです。

 

今回の冒頭に、デリバリーコントがありました。
これ、Bにかかってるようにも見えますがAにもかかっているように読めます。
恩返しだ!好意だ!貴方のためなんだ!!受け取れ!!
そう一方的に言われるのって、きっとありがたいだけのことじゃない。
めちゃくちゃにリアルで、すごく怖い話でした。9話。

 

私にとって救いがあるとすれば、チビ太の修行がめっちゃクレイジーだったことでしょうか。
あっこいつもおかしいんだって思えなかったら、人からの親切が怖いっていうことへの罪悪感で死んでましたね。
あれ、まっとうな教えだったらカラ松くん、絶対流されておでん屋になってたと思いますし、いやぁ、チビ太がおでん汁に浸かってほんとによかった。

そんなわけで、9話でちょっともう私にはカラ松くんを救う方法がわからなくなりました。どうしてこうなった。何この子、DV被害者体質まっしぐらじゃん。
私は、彼が何しやがる痛てぇよこの家おかしいぞって叫んで怒れば松野家は崩壊によって地獄から脱出できる気もするんですけどね。革命は虐げられている者から生まれるのですから。
それができないからこうなってるんだよなぁ…どうしてこんなになるまで放っておいたんだ…

 

とりあえずお前は自分の傷口から目を背けるのをやめろ

 

と、特大のブーメランを投げて、今回は終わりにします。

 

お粗末様でした。

 

「おそ松さん」9話 しんどい私は何故十四松には恋愛ができないかを考えていた

はい!お久しぶりです!

次ここに書くのは1クール終わった時だと思っていた頃が私にもありました!!!

なんだあれ!!!!9話!!!!なんだこれ!!!!!

 

辛い。この一言に尽きる(いや尽きてはいけない)

今回OP前からA、Bと、もうとんでもなかったですね。
部屋に大の字になってケイネス先生ばりに「殺せぇ…殺してくれぇ…」って呻いてましたからね。わけがわからないよ。

 

というわけで、何かしら吐き出さねばならぬ欲求に突き動かされ今回も感想書きます。

正直Aパートがすでにしんどくてしんどくていっそ殺してくれって気分なんですけどそちらは気が向いたらおいおい書くとして主にBパート、多くの視聴者をど直球で殺しに来た「十四松の恋」について今回は書こうと思います。

 

今回私がする話は、けっこう気持ちわるいし、何より今回の話で彼の天使性に涙を流した十四松クラスタの皆さんに攫われて沖に縛られそうな内容になります。十四松はまぁ天使だという意見には概ね同意なんですが。

無理かもしれないと感じた方は早めに逃げてください。
了承して読んでくださる方は石を投げないでください。自己責任エントリです!!

 

さて、今回のテーマは、「十四松と彼女の関係はなぜ発展しなかったのか」ということです。
私は世界観考察をしません。それはここで私が書きたいことではないからです。ですので、おそ松さんの世界がどういった構造をしていて、実家に帰るという彼女の行く先がどこであるかといったこととは関係のない話をします。

 

「恋」「恋愛」とおおまかに言われるものは、厳密には二つあるように思います。

一つ目は、「好きだ」「彼女と一緒にいると幸せだ」「魅力的だ」「笑ってもらいたい」「一緒にいたい」「守りたい」というような、内的なものです。
対象に向けて、自分の中に生まれる、言わば純粋な、何か。
二つ目は、それが双方にあることを前提とした、告白であったり、交際であったり、デートであったり、触れ合いや話合い、時には性交渉、社会的には結婚や同棲などなど、外的なもの。
対象との間に何らかのコミュニケーションが必要になります。

一言で「恋」「恋愛」と言いますが、この肉体を持って、この社会において、まっとうに生きていくためには一つ目を持って、二つ目を正しい順で行っていく必要があるらしいのです。どうやら。そのためにお互いが努力する必要があるようです。

 

前回までのエントリを読んでいない方は先にそちらを読んでいただけるとありがたいのですが、松野家の兄弟たちには十分に「見られ」足りていない、そのために完全な大人になれていない、成長が不足している側面がある(という描かれ方をされている)のではないか?という話をしました。
そしてそれがいちいち、最近自分もそういった類の人間なのではないか?と気づき始めた自分をタコ殴りにしてきているのではないかという話もしました。

 

その上で言うのですが、どうも自分には、1つ目から2つ目にステップアップするのに苦手意識があります。

一つ目は理解できます。そして二つ目のような関係を築いていきたいという欲求もあります。

しかし、いざ、どうもお互いに一つ目を持ち合わせているらしいとわかったあたりで、足がすくみます。
どのぐらいの距離を取れば良いのか、どのぐらいの情報を開示して良いのか、どのぐらい相手に踏み込んで良いのか、そもそもそういった関係を持つほどの価値が自分にあるのか、自分にその責任を持つことはできるのか、相手に自分の責任を取らせて良いのか、うわ、めっちゃ怖い、怖い!!
となったあげくにその機会はお互いに失望を残して去っていきます。
出来る人にはさっさと苦もなくできるんでしょうが、どうもそのへんのさじ加減が難しい、しんどい。

 

さて、そんな私から見た、「十四松の恋」です。

十四松は今回の話で証明されましたが、いたってまっとうな頭を持った青年です。
兄弟たちに笑ってもらうため、家を平和に保つために、ギャグを繰り返し、必要以上に賑やかに振舞っています。
本当に健全な精神を持っている人間がドブ川でバタフライをするかといったらそういうことはありませんし、いささか精神のバランスを欠いているのは確かですが、狂人ではない。

そんな彼は、彼女に笑ってもらうために彼女の前でもギャグを繰り返します。
そして彼女はそれに笑ってくれた。二人が過ごした時間は本当に素晴らしいものだったと思います。
そこにあるのはキラキラとした「一つ目」で、それは確かに本物です。
そして彼は確かに「二つ目」へのステップアップを望みました。

それでは彼女はどうだったか。
死を考えた彼女は、十四松の前で楽しげに笑います。
そこには確かに「一つ目」があったと思います。

しかし、彼女はそこで終わらせることを選択した。
本当になんとかしたいと思えば、なんとでもなったはずです。
(おそらく東京)無理やりここに残ることもできるし、文通、メール、遠距離恋愛だって可能です。しかしそれを望まなかった。

チビ太は言います。
「彼女なんて図々しいぞ、だってお前ら全員ニートじゃねぇか」
物凄く生生しい台詞です。
十四松には、あらゆる意味で自分自身と、それから彼女について責任を取る能力がありません。
そして彼女は、(読解できる範囲ですが)AV女優だった過去があり、たぶん手首も切っており、自殺未遂までした、めちゃくちゃに「重い」人です。そして、彼女すごく優しい。
誰かと「二つ目」に進もうと考えた時には、自分が相手にかける「重さ」を真っ先に考えるのではないか。

十四松と彼女は、お互いの情報をどこまで開示し合ったのでしょうか。
二人の間には、それをきちんと二人の問題にして処理していく能力も、そんなもの関係ないから身を任せてしまえというような勢いもありません。
「一つ目」を持ち合わせているだけでは「幸せになる」ことはできても「幸せに生きていく」ことはできないのです。
あれは、成人二人のする恋ではない。
でもそれは仕方がないのです。だって十四松はまだ大人になれてないから!!!!

 

この物語は、十四松のキラキラとした「一つ目」の美しさ、純粋さ、健気さ、それを前面に感じさせながら、その後ろのモラトリアムのしんどさ、「一つ目」だけでは生きていけない生々しさをじわじわとはりめぐらせてあります。
十四松の思いの美しさだけを伝えたいのなら、多くの視聴者が題名だけで予想したように、人でないものを対象にしたり、ギャグ落ちにしたりすればよかったのです。
この話は、あの絵柄のアニメにしては異様な「生々しい」「肉肉しい」とでも言うようなワードに満ちています。AV、リストカット、自殺…
大変えげつないほどに直球で、それでいて綺麗にまとまった、凄まじい構成だったと思います。

 

そんなわけで、私は今回の話に非常に打ちのめされているわけです。
つらい。非常につらい。いい話だったなぁとは素直に言えない。つらい。
こう思う人は私だけじゃないと思いたいんですけど、どうでしょうか。
次回からどういう目でこのアニメを見ればいいんでしょうか。超楽しみです。

 

デリバリーコントの一松は、恩返しに来た鶴を、「大丈夫」と言って中に入れませんでした。雪に気をつけて、と言う程度には鶴を気遣う心を持ち合わせていたのにも関わらず。
それが今回のどちらのことを意味していたのか、これは考える甲斐がある問題だと思います。

 

今回、全体的に、「視聴者には情報を明かさないので頑張って自由に考えてください」とでも言うような描写が多すぎたことによって、おそ松さんが「頭を使わず楽しむアニメ」でないことがはっきりしました。
ですので、開き直って楽しく(本当は非常に血を流しながら書いてるんですが)自分が見たなり感じたなりのことを話してもいいんじゃないかな!って気分になれました。ありがとうスタッフ。

というわけでまた来ます!!石を投げないでください!!

 

お粗末さまでした。

 

 

「おそ松さん」のどこがしんどいのか、自分なりに考えていたという話

どうも、お久しぶりです。

前回のエントリを読んでくださった方、ありがとうございます。同意もいくつかいただくことができ嬉しく思っています。

 

たくさんの人に読んでもらうことを目的として書いてはいなかったんですが、人に読んでもらえるというのは嬉しいことです。っていうのもこれからする話のうちなのですが、それはまぁ置いておいて。

おそ松さん、見てます。アニメ見れない私がきちんと抜けなく毎週追えてます。珍しいことです。

そんなわけで、前回で説明したように、全く予想していなかった「ギャグアニメに包帯をひっぺがされ生傷晒される羽目になる事態」をちみちみと積み重ねているわけなのですが、ほんの少し生傷の正体が見えてきたような気がするので、また書いておこう、と、そういうわけです。

今回も大変個人的な感想になりますが、前回よりもなんといいますか、ほんの気持ち、いわゆる考察、のように、感じられる?部分が?あるかもしれないです。

と予防線を張ってはおきますが、

 

正直私がどうアニメを見てるかって話に口は出させないぜってなんでこんな話してるかって前回紹介させていただいたブログの御方の他のとあるエントリを読みましてもうなんかやるかたない何かというかそういうことを書いておかなきゃなのかなって気分になったというか私が林檎を見て「綺麗だな絵に描きたいな」って言ったら「林檎は本来食べられて種を運んでもらうために赤く綺麗になっているのだから美味しそうという感想を持つべきだ」って言われたってうるせぇ俺は絵を描きたいんじゃ邪魔させないぜほっとけぇいい!!みたいな気分になりました、というだけです。はい。

ふぅ、落ち着いた。はい、始めます。

 

 

 

結論から言ってしまえば、私が言いたいけど言えずにいて、おそ松さんでそれを暴かれた部分っていうのは

「俺を見ろ!!!!!!」

っていうことなんだなと思っています。
V8!

 

…どういうことかをふざけずに説明します。

 

人間、きちんとまっとうな大人になるためには、誰かにちゃんと見ていてもらうことと、見ていてもらっているという自覚が必要なんだと思います。
身体が大きくなる分、必要な量が増えていって、そこでちゃんとそれに見合う分見てもらって、結果晴れて大人になるイメージです。

「見ていてもらう」というのはかなり多くの意味を含んだ言葉で、どういう目線が必要なのかっていうのも人によって違ったりして、だからこそ難しいんですけど。

前回のエントリで、おそ松が「お前の話を聞かされても俺の苦しさは変わらないんだから今は俺の苦しいことをわかってくれよ」っていう話をしてた、っていう話をしたんですが、それも一つの「俺を見てくれ」なわけです。

 

さて、問題の六つ子達なんですが、たぶん彼らは「見られ」足りてないんだと思います。少なくとも、自らの求める見られ方をされているという認識がない。ちょっと個人差がありそうですけど。

そりゃあそうだと思います。子が6人いても親は2人です。普通に無理です。6等分以上のことは求められません。
周囲からは「六つ子」という集合体で見られていました。おそらくそれは、個人が求めている見られ方とは違います。
成長にしたがってその集合体としての見られ方では足りなくなった分をもらうために、それぞれに「俺を見てくれよアピール」をあの手この手でするわけです。

 

なんだお前ギャグアニメにそんな精神論、だけじゃなくて、一応メタ的な意味でも、物語のキャラクターを作る際にこの「俺を見てくれよアピール」をキャラクターにさせることは重要です。
俺を見てくれよアピールが上手いキャラクター=キャラが立ってるキャラクター
なわけですから、アニメおそ松さんをやるぞ!新機軸で人気アニメにするぞ!と思えば彼らに俺を見ろアピさせることは普通に考えられる手段だと思います。
なんせ本人も言ってますけど、イヤミのほうがキャラ立ってましたからね、「くん」のほうは。

 

しかしながら、本当にこれがこのアニメの憎いところなのですが、その「俺を見てくれよアピール」がいちいち、それが下手だった私、少しその方法が間違っていた私、そもそも見られ足りてないことに気づいていなかった私、気づかないままにどうして私は苦しいんだと転げまわっていた私に7話Aのトド松の台詞並にぐさぐさと刺さるんです。流血。

 

4話の扶養面接なんかはその最たるものですよね。

俺を見てくれ!アピールにおいて、六つ子は個人的努力だけでなく対他5人努力もしなければならないわけです。戦略を間違えると彼らの世界ではすぐに見てもらえなくなります。次男が良い例です。
アピールをしなくても見てもらえるのが、家族というものの理想のはずなのですが、あの家はそこまで優しくありません。そしてそういう場所に育っている人間は、今大量にいるのではないかと思います。

これだけじゃないんですよ。いちいち、めった刺しです。最近だとなごみの四男とかもね、こっちの心が警察沙汰の致命傷ですよ。

 

 

amanoiwato.info

 

 それらの個性や「進化」がむしろ彼らのそろって、世界における平凡で非力な青年ぶり、現実の社会での「子供」たちの痛々しさ、いたたまれなさをより容赦なく浮かび上がらせる機能にしか感じられないのだ

 

彼らはもともと(あの狭いコミュニティの中においては)無個性で平凡な少年たちでしたが、「そのまま体だけが大人になった」と第一話ではっきりと言及されたとおり、そこからの進化に失敗しています。
それでも、時は流れるし、食べないと死ぬし、何とかしてご飯にありつくためには、なんとか自分なりのアピール方法を考えて、叫び続けるしかない。

その段階からいつかステップアップ出来る日はくるのか、それは正直、わかりません。
でもとにかく、生き延びるためには今日の分が必要なので頑張ります。
7話Cのおそ松のように時々「逃げ出したーい」と喚きながら。

 

もらうべき時にもらえなかったので、うまく大人になれなかった、だから今必死にもらおうとしている、たぶん、自分はそういうことなんだろうなと思っています。
たぶん、このエントリ書いてるのもきっとそういうことなんだろうなと思います。ここまで読んでくれてありがとうございます。嬉しいです。

ということで、今のところの感想でした。これから先、どうなるのかを本当に楽しみにしています。アニメと、それから自分も。製作者の皆様本当にありがとうございます。

 

今後の進展で何か面白いことがあったらまた来ます。それでは。

 

 

 

 

お粗末様でした。