バックヤード

アニメ「おそ松さん」を血を流しつつ視聴する

しんどい私の近況報告

どうも、お久しぶりです。

 

17話の感想を書こうとして、いくつか前置きに雑談をしてみたらなかなか本題に入れなかったので別に書いておきます。

 

 

・ブログの話

やっとIDではなく名前を表示する方法が分かりました。これでやっと人間らしい名前になれたので嬉しいです。

コメントが承認制だったことに先日気がつきました。コメントを下さっていた方、本当に申し訳ありませんでした。ありがとうございました。嬉しいです。今後なかなか承認されないという場合でも、少々お待ちいただけるとありがたいです。

 

 

・DVDの話

DVDの売上好調とのこと、おめでとうございます。

自分の好きなものが人気者なのは嬉しいことです。

とか言いつつ私、いまだに購入しておりません。まだ見ておりません。

というわけで今後しばらくのエントリは「3.5話を見ていない人間」の感想と分析になります。何かとんでもなく見当違いなことを言っていたら笑ってやってください。

散々周りから「お前は見るべき」「いいから見ろ」と言われているんですが、どういうことですか?そういうことなんですか?恐ろしい……

引っ越しを控えているためにものを増やさないようにしているのですが、たぶんそのうちに誘惑に負けます。負けたらここに「3.5話の話」とかがあがるので、あがったら察してください。

 

 

・Spoonの話

かの近衛兵さんたちが表紙のSpoon、読みました。初めて紙媒体で制作サイドのインタビューを読んだことになります。大変面白かったですし興味深いことがいくつもありましたので手に入るのならぜひぜひ。

特に、美術に関して「昭和90年」というキーワードについては本当に納得でした。「懐古趣味は意味がない」、しかし昭和から地続きの現代、という視点は本当にもう頭がいいなぁという頭の悪い賞賛しか出てきません。

 

ところで、先日、松野家の居間にある手のひらの形をしたピンクの椅子とほとんど同じものを岡本太郎記念館で見つけました。(もう広く知られていることだったらすみません)

「昭和」というワードと、岡本太郎、そして赤塚不二夫、おそ松くん、というのがひとつの連続として配置されているのかもしれないなぁと思いつつ、世界観考察勢の皆様のお話を聞きたいところです。

 

 

・「天才バカボン」の話

昭和といえば、赤塚先生の「天才バカボン」が実写ドラマ化するという話を聞きました。

最初の感想は「なんてむごい」って感じでした。

天才バカボンといえば、公開されたあのカットで後ろに大きく書かれていたとおり、「これでいいのだ!」です。(正確に言えばバカボンのパパですが)

 私は「おそ松さん」を「これでいいのだ!と言っている場合じゃない、言えない、言えなくなった子供たちの物語」だと見ていました。

もちろんバカボンのパパの「これでいいのだ!」は真理であり、彼は偉大なキャラクターでありそれは偉大なセリフです。

しかし、その真理に至るためにとんでもない苦痛を有する人間や、その真理に打ちのめされる人間というものが確かに存在する。

私は松野家の彼らをそちら側の人間であると見て、そして自分もそちら側の人間であると見ているわけです。

そしてできればね、いつかはその真理にたどり着きたいんだ私は。

ちょっとこのタイミングでやつらがやってくるのはね、つらいですね。

まだ始まらないみたいなので、ちょっと立ち向かえるだけの体力をつけて待機しようと思います。

あとバカボン実はきちんと読んでいないので読んでおこうっと。

 

 

・そしてまた「裏庭」の話

いろいろあったので梨木香歩『裏庭』を再読、というか何度目かわからない読しています。

2話見てはてなに登録して即この命名をした私を褒めたいほどには松でした。作品ファンに怒られるかもしれませんが、少なくとも私にとっては松でした。

ここに来てくださって、私もしんどい、と思ってくださった方でまだ読んでいない方がいらっしゃったらダイマしておきます。素敵にしんどいですよ。

 

 

 

17話、初見で泣いたのは2話以来です。びっくり。

 

 

「おそ松さん」16話B しんどい私が見てこなかった現実の話

はい、やっとこさ書けます。16話感想です。

 

私は以前から「松野家ディストピア説」を延々と主張していたんですが、なんと今回はAパートでそれにOKを出していただくという、大変に公式様に甘やかされているかんじでスタートいたしました。

最後のチョロ松くんにはもうゾッとせざるを得ないですね。はい。

というわけで今後も松野家ディストピアがどのように動いていくのかを見守りたいと思います。

 

で、でだ、まぁAについて語りたいことも大量にあるんですが、でも、ね、今回は

一松事変についてきちんと考えないといけないので、Bパートについてをメインにしたいと思います。

 

 

今回の話は一言で言えば

「磔にされた一松が時計台の上からおそ松によって墜落させられる話」でした。

 

まずは話を整理します。

・服を脱いで昼寝をしていたカラ松を見つけた一松は、カラ松の服を着てみる

・そこへおそ松が入ってくる

・一松は焦るが、おそ松がどうやら自分のことをカラ松だと勘違いしていることに気づき、カラ松を演じようと試みる

・苦しい言い訳を続けていたところ、カラ松が昼寝から起きる

・状況を察したカラ松は置いてあった一松の服を着て一松を演じ、おそ松を部屋から出す

 

枝葉を落とすとこうなります。いや今回その枝葉がめちゃくちゃ問題なんですけれども。

 

今回の話は、一部カラ松のモノローグをのぞいて、ほぼ全編一松の視点、一松のモノローグで展開されます。

こういった構造の話は、このアニメに今回以前はほとんど見られません。

私はアニメや映画等の映像作品にそれほど明るくないので何とも言えないのですが、モノローグ、そして小説で言う地の文というものは、「嘘をついてはいけない」というのが基本的な読み方と書き方だと思います。「書きたくないことを書かない」「曖昧に書く、婉曲して書く」というのは自由ですが、嘘をついてはいけない。

例外が、「モノローグの主の視点が狂っていることが自明、あるいは後でその狂いが明かされる場合」です。それが13話「実松さん」の構造でした。

 

モノローグの少ない映像作品において、キャラクターの思考というものはとても曖昧です。彼はこう考えていた、だからこのセリフを発したはずだ、ということを、私たちは高速で脳内で行いながらアニメを見ているわけですが、そこに食い違いが起こっているということも十分にありえるわけです。

そして、「おそ松さん」において、その読みはかなり難しい。他のアニメがどうかはしりませんが、特に、1クール目後半あたりから最近にかけてが非常に面倒です。

例えば、14話でトド松は長男次男両方に「一位だよ」と言いました。それは明らかな嘘です。スタバァでわかっているとおり、トド松は嘘をつきます。トド松のセリフには、これは計算された嘘なのか、本心なのか、という疑惑が常につきまとう。暴論を言えば富士山に行ったことだって、兄弟を釣るための計算された嘘である可能性さえあるわけです。

今回、おそ松兄さんが一松の正体に気づいたのか、気づいていなかったのか、そのセリフはどちらにも受け取れるということを、多くの視聴者が考えたと思います。おそ松兄さんに、今回モノローグは一切ありません。そしておそ松兄さんは、9話Bで見せたとおり、「考えたことを黙っていることができる人」である上に、「人を挑発したり、ふざけたりすることもできる人」です。それを考慮して、彼のセリフとアクションだけで判断しなければならない。

それは非常に困難です。しかし、それはいままでも全てのキャラクターでそうだったはずなのです。何を考えているのか、この語り手は信用できるのかできないのか、それがわからない不気味さの存在は今回の長男で表面化しました。今後、私たちは彼と、それ以外のキャラクター達の発言すべてに疑いの目を向けずにはいられません。

 

今回は、おそ松兄さんが果たして本当に気づいていたのかいないのか、という点についての真実はとりあえず置いておいて、考えません。今回は、より「信用できる」情報である一松のモノローグを精査する形で進めます。よって、一松の視点、「おそ松兄さんは自分をカラ松だと認識した」という前提を踏まえます。

 

 カラ松の服を着てみたかった一松、というのが十分衝撃的なんですが、まぁカラ松の格好は「イタい」のであって決して「ダサい」「変」ではない、彼がきちんと雑誌を読んで研究した、TPOさえ合えば間違わなければ「イケてる」方のファッションだったということはよくわかります。(クソタンクトップはあれだ、例外、うんきっと何か血迷ったんだきっとそう)

そして一松はおそらくですがV系バンドやロックンロールを愛しており、元々センスとしてさほど遠くないところにいただろうとも考えられます。

けれど、おそらくアニメが始まった当初の一松にはこの行為はできなかったことでしょう。

六つ子環境は大きく変容し、それぞれが少しずつ外へ出ていくようになりました。その変化は、あれだけ人嫌いだった一松にバイトをさせるまでになった。あのアバンが今回に持ってこられたことには意味が有るはずです。

彼は変化を求めました。そのうちにファッションというひとつの要素があったというのは十分理解できます。

それでも、彼はまだ六つ子という概念の中、15話おでん屋での並びのように長男と三男の間にぬくぬくとしています。おのずと変化は家庭内で可能なものになった。すなわちカラ松の模倣です。

 

しかし、今回で一松は、その行動のせいで身動きがとれないままに、彼が大切に守ってきた「六つ子」というものの現実の形と自分の姿を、おそ松によって見せ付けられることになります。

 

彼について今回の饒舌なモノローグに並ぶもう一つの情報があります。エスパーニャンコです。

彼は人と距離を縮めることができません。価値がない自分が、人の期待を裏切ってしまうのが怖いから。傷つくのが怖いから。

 

彼はおそ松の前で、なんとかおそ松が勘違いをしたままでいてくれるように、一生懸命カラ松を演じました。必死になって、おそ松の考える通りに動こうと、自分の考えに嘘をつき、言い訳をした。その姿はとても滑稽だったということは、彼自身がよくわかっていました。

 

一松から見るおそ松の態度は、カラ松の前での彼の態度、つまり、自分のいない場所での彼の態度です。

 おそ松は「こんなにおいしいにぼしを猫にやるなんて、一松は馬鹿だ」と言い放った。一松のいない場所で、です。彼は初めて自分のいない場所で自分がどのように言われているかを知った。これはもうほとんど陰口です。そしてそれは、友達のいない、友達を作ることを恐れる一松にとって、最も恐ろしいものではなかったか。

 

そして、おそ松は自分のにぼしを勝手に報告なく食べました。14話であれだけ報告の必要性と平等性を主張していた長男が、です。それは六つ子の連帯をなにより大切にする一松にとって最も忌み嫌うものでした。しかし、よく考えてみれば、彼自身もにぼしを兄弟に報告せず隠していたのです。彼が守りたかったルールはただの幻想、虚像にすぎませんでした。

 

そして、彼は自分の保身のために、手段を選ばない、選べない自分をも自覚することになりました。彼は自分が恥をかきたくないばっかりに、親友のためのにぼしを食べ、嘘をつき、カラ松にキャラをなすりつけることまでした。しかし、彼が保身のために手段を選ばない男であったことは、最初からずっとそうだったのです。彼は友達を作れない自分が生きていくために、六つ子の連帯を制裁によって保ってきた。彼はずっと、ずっと保身のために主にカラ松やトド松を制裁してきた。そして、その保身によって、彼は親友を失いました。

 

加えて、彼がそんなにまでして守りたかった六つ子というものの概念の象徴たる長男おそ松は、彼を馬鹿だと言い、ついでにカラ松に化けた自分に気付かなかった。

 

 

メッタ刺しどころの問題ではありません。

彼は元々、的確な状況判断のできる子です。自分が保身のために誰かを傷つけることのできる人間だということに気づいていたはずです。だからこそ自分を卑下してゴミとして生きていた。その問題は今彼の目の前に可視化して現れました。いままで、自覚をしているからこそ蓋をして、見ないようにしていた自分の姿が一気に晒された。

 

彼はこうして、自業自得の状況で退路を絶たれ、転落死しました。

 

しかし、それでは彼が落下した先に待っていたものは何だったのか。

 

それは真っ先に死んだ次男、カラ松でした。

彼はあの状況で自分のすべきことを察し(本当お前よくできたなと感心)、一松に化けました。一松はあの状況で、完全に死んだと思ったところをカラ松に救われた。いままで虐げてきた次男にです。

 

(余談ですが、個人的にはカラ松の演技があまりにも下手くそだったことについてもちらっと。私はあれ、雰囲気は似せられてるのにセリフがガッバガバだなおいって思ったんですが、もしかしなくてもカラ松くんは視覚優先の子というか、どうもよくわからないことについてはお耳のチャンネルを切る子なのではと思っておりまして、だから普段一松の話あんまり聞いてなかったんじゃないかな……そもそも一松あんまり喋らないからデータも少ないし……)

 

 「神かよ」その通りです。

彼は落下し、今までの自分にとっての「六つ子」を見失い、自分自身の姿を直視し死にました。

しかしその下にはきちんとセーフティーネットが敷かれていました。カラ松は一松の思惑に乗っておそ松を部屋から追い出すことに成功した上、「何やってんだ」とは言いましたが彼を責めませんでした。「びっくりしたよ」って……やっぱり神か?神なのか??

彼を救ったのはカラ松の優しさであり、一松もそれを認めました。一松は全ての価値を失いましたが、最後には彼を信じていると言い、愛してきた兄がひとり残りました。

そう、そうだよ、君には「カラ松兄さん」がいたんだよ、昔から今まで、ずっとね。

 

 

思った以上に一松くんが軟着陸を遂げてしまったので、正直この先が私には全くわかりません。

どうしよう一松くんが死ぬのはわかっていましたが、彼がきちんとカラ松という新世界の神に救われるのはもっと時間がかかると思っていました。こんなにも的確に迅速にそれが行われるとは思っていなかった、どうしよう、とりあえず、おめでとう。

 

今回で「超絶信頼できない神」おそ松兄さんと最近めっきり影を潜めた「比較的信頼の置ける語り手」であるチョロ松くん(今回の一松を見ていて思いましたが、チョロ松は口からモノローグがそのまま出てくる男だ、そうだよお前が静かだから最近このアニメは輪郭がブレて見えるんだ、意図的にやってるんだったら相当怖いな)が、今後どうやって生きていくのか、私には妄想はできますが予想ができなくなりました。

 

今回の一松くんについての文章が総じてブーメランとして眉間に突き刺さっていることについては、言うまでもありません。

これが、可視化というものなんですよ。彼はあの状況で自分の姿を目で確認しましたが、私たちはそれをこのアニメでやってるわけですよ。しんどい。しんどいよ。

 

来週も楽しみです。

 

 

 

お粗末さまでした。

「おそ松さん」としんどい私と「裏庭」の話

 

おそ松さんを好きな理由と、しんどい世界をしんどいまま生きていくわたしについて

http://bkyd.kill.jp/bkyd/?p=70bkyd.kill.jp

おそ松さん感想のリタイアについてと架空の鹿のための追悼文

 http://bkyd.kill.jp/bkyd/?p=251

 

 

察してください。

よくわからない、という方は今回のエントリは本当に読まなくても大丈夫です。

本当に大丈夫です。

前回も言ったとおり、ネットの世界では見えない問題は存在しないのに等しく、そして見るか見ないかを選ぶのもまた自由です。

 

まさか16話感想に行く前にもう一つ書かねばならぬことができるとはなぁ。

 

今回は、私は本当に私の自己満足のために文を書きます。

 

usenri.hatenablog.com

 

こちらを見ていただければわかるとおり、私のブログは冒頭の記事を読んだために、こういった形で公開されました。

私たちは自由です。考えるか考えないか、そしてそれを文字、絵、その他諸々のかたちにするかしないか、そしてそれを他の誰かに見せるかどうか、その選択をすることができます。

私は、おそ松さんの2話を見て、自分にはこのアニメから感じたことの言語化をしなければならないと感じました。そしてしました。

しかしそれを、人々に見てもらうかどうか、という段階には迷いがありました。

ネットの海に言説を放流するということは、本来勇気を必要とすることです。今は大概お手軽になってしまいましたが、本来そういうものです。いや、ネット如何に関わらず、形にして世に晒すということはそれ自体が勇気でしょう。

そして、私の書いた文章は、晒すとしたらネットの海が一番適していた。なぜなら、読んでいただいた方は察せられると思いますが、これは身内と友人には読ませたくない文章だからです。

そんな時に、前述のエントリを読み、ああ、こういう意見も公開して良いのかもしれない、いや、そもそもこれはただの誰も傷つけない感想なのだから悩む問題でもないのだ、誰かに見てもらおう、そうすれば何か、チラシの裏に書いていたときとは違う新しいことが起こるかもしれない、そう思い、私はこのブログを始めました。

そして、その結果、私は人から見ればささやかな量かもしれないですが、わかるよ、同じことを思ったよ、いい文章だったよ、という言葉を受け取ることができました。

もちろん、そうは思わないなぁ、そんなに考え込むもんでもないじゃないか、という言葉も飛んできました。それでも、私はこのブログを始めたことを後悔していません。

私へと飛んできた、多くはレスポンスを期待しない反応は、私にとって、チラシの裏の頃には得られないものでした。

私はこの数ヶ月間、それ以前には考えられない量の不特定多数の人からの言葉を得ています。

そしてそれは、私の勇気に見合うものだったと思っています。

 

私の文章は、私とできるだけ、関係のない人に届いてほしいものでした。そこに橋をかけるには、勇気と跳躍が必要でした。おそ松兄さんも言った。あなたと私の苦しさには、全然関係がない。その通りです。でも、だからこそ、そこに何かを生み出せたら、それは素敵なことなんじゃないか。

 

 

と、ここまで説明しておいてだ、私は今、とても怒っています。

私と前述ブログの管理者様とは、全く関係はありません。おそらく私のこともご存知ないでしょう。私は、今自分と関係のない人のために悼み、怒っています。

 

私は、ここで感想を書き続けることをやめません。

私はあのエントリで、全く関係のない私が「わかる気がする」「私もこういうことを書いて良いのかもしれない」と感じたことにはとても価値があったと思う。だから、私はそれを意味がなかったことにはしたくない。してはならないと思う。

 

私はこれからも、ここでどこかの私と関係のない誰かが見てくれるかもしれない場所に考えたことを投げ続けます。そこに何か価値が見つかるということを証明したいから。この世界がどんなに醜悪な悪意に満ちていようが、キラキラと光る「意味のある瞬間」があることを諦めたくないから。

 

 

私のブログの題名、「バックヤード」は、梨木香歩の「裏庭」からとっています。

私の大好きな小説、しんどさを感じた時に読み返す小説であり、「バックヤード」は元々、ツイッターでの私の裏アカウントの名前でもありました。

そしてあの物語は「傷を直視し、傷と向き合い、傷を自分に引受けることができるようになるまで」の物語です。私は2話を見て、ここを私の「裏庭」にしようと思いました。

 

前述のサイトと名前が被っていたことは、全くの偶然です。(正直、気づいたときにめちゃくちゃ焦りました)

繰り返しますが、このブログ名の間には、全く関係がありません。私と作者様にも全く関係はありません。

 

だからこそ、そこには意味があったのです。

 

 

 

 

本当に、ありがとうございました。

 

 

 

 

「おそ松さん」16話 しんどい私が「腐媚び」言説について考えた話

こんにちは。みなさんいかがお過ごしでしょうか。

というわけで、いつものように16話について語りたいところなんですがちょっと待ってね

私は普段すごく狭いついったーランドで良識のあるふぉろわーさんたちに恵まれクリーンで暖かなネット環境を維持してきて、本当にありがたいなと思って生きております。

ので近所では何も起こっていないのですが、何やら?遠くの方で?今回の放送の内容によって各所キャンプファイヤーの周りでの学級会が起こっているというような?噂が流れてきました。

 

私の素晴らしきついったー環境からはそういうものは「探しに行かなければ見えない」ので私が「探しに行くか行かないか」によって問題は消えたり現れたりします。ネット社会では見えないものは存在しないのに等しい。ですので私は普段取捨選択自分の好みに合わせて、キャンプファイヤーを眺めに行ったり、踊りに行ったり、踊る人に話を聞きに行ったり、後から「こんなのあったよ」ととぅぎゃなどという名の写真を見せてもらったりしているわけです。それなりに楽しいインターネットライフです。本当に申し訳ないですが、ある種のエンターテイメントです。

 

しかしながら問題は、火元がすごく好きなものや譲れないものであった場合、「燃えているのも踊っている人もしんどいから見たくない」「しかし参加せねば自分の好きなものが自分の知らない場所で変質するかもしれない」「それは嫌だ」「好きなものは常に自分の問題にしておきたい」「でも見たくない」「あーあー存在ごと知らなきゃよかったのになぁ」というような、大変複雑な心情が起こります。とてもつらい。ほどほどに好きなものなら真っ先に踊りに行ってついでに裏拳で二三人殴っておこうかというノリなのに。

 

長々お前は何を言っているのかという感じですが、つまりは、今回の私は「何やらおそ松さんについてキャンプファイヤー開催のお知らせを見つけたけれどしんどいから行きたくない、しかしここで踊っておかなければおそ松さんクラスタとしての沽券に関わるし、ついでに二三人殴っておかなければ敬愛する関係者の皆様とともに歩むクラスタの皆さんに申し訳が立たない気がするので踊らなければ、しかし見にはいきたくないので自分の家の前あたりで踊ります誰か見てくれ俺の魂のダンスだ」ということです。

 

本当はこんなこと書いてる場合じゃないし、書きたくなかったし、早いとこ普段の感想喚き散らし作業をしたいんだ!!しかし私は踊らなければならない!!いつも読んでくださるみなさんありがとうございます!!読みたくない方はどうぞどうぞ今回は飛ばして、感想をもう少々お待ちください!!

 

今回も自己責任エントリです。よろしくお願いします。

 

はい、長すぎる前置きでしたが、今回のテーマは、どん

「公式の「腐媚び」について」

 

あーもうこの言葉使いたくないよ~~~でもこれが一番短くて端的に伝わると思うから使っちゃうけど、整理すると、

 

16話の内容が「腐女子(腐男子ももちろん含みますけど)から見て」とても

「自分たちが普段している妄想に近い」

「世の中で「腐女子が好む」とされているものに近い」

ものであったために、公式が

「私たちのために(私たち受けを狙って)制作した」

のではないかという発想を持ち、またそれに類する発言を始め、それに対して

「公式はそういうことをするのをやめてほしい」

「公式がそういうことをしていると考える人たちが騒いでいてうるさい」

などと感じた人たちが、

「目に見えたり誰かを攻撃する形でそれを発信」

しだし、あらゆる意味でそれを良しとしない人たちが殴り合いを始めた。

 

なるべく言葉をきちんと選んで厳密に言うということなんだと理解していますが合っていますか?残念ながら家の前で踊っているんだちょっとずれていたらごめんな。

 

 結論から言うと

「作者が客層サーチをするのは当たり前に認められる行為であり、俺のためにそれが用意された!と考えるのも自由であり批判されるものではない、しかしその「俺向け」にする努力に物語と作者が使役されているように断定するのは物語と作者に対して不誠実だ」

ということになるのですが、これからそれを噛み砕きます。

 

まず、製作者による客層のサーチについて。

これはこの時代(本当は時代なんて問わないんだけど特にこの時代)当たり前に認められる要素であって、何ら問題はないと思う。

 

「おそ松さん」が女性人気を意識したかどうかなんて私には全然わからないけれど、とにかく現在、天秤の傾きはあるにせよ男女どちらかしか見ていないアニメ、漫画なんて存在しないことだけは確かであって、「どちらかだけを、少なくとも疎外しない」ように作品を作ろうとするのがトレンドになりつつあるように思う。いい時代です。

ぶっちゃけ未だにどちらかを疎外したがるファンは多いけれど、制作者サイドがそれをやるのは商業的なチャンスを逃しているっていうことは自明。

 

それを踏まえた上で、手段を駆使して、どのあたりの層が見ているのか、どのあたりの層が一番お金を落とすのか、どのあたりの層に働きかけるのが新たな消費者を生み出しやすいか、という傾向を探るのが必要なことだ、というのはエンタメだけに関わらず商業目的があるものにとってはフツーのことだと思う。

もちろん、「俺の店には俺の料理の味がわかってくれる人だけ来ればいい」というのも自由ではあるけれど、すぐには成功しないし、これをやって何とか食っていけるのは一度ブレイクした後、広く認知された後の話じゃないかな。あとは趣味。

とりあえずアニメはそういうわけにはいかない。関わっている人数はめちゃくちゃ多いし、スポンサーはつくし、短期で成功しないといけない。10年後に「あれはいいアニメだったなぁ…」なんて言われればいいわけじゃない。言われないよりはまぁマシだけど、できる限り放映中に認知されて楽しまれて様々な手段でお金を払ってもらわないといけない。

そんな状況で、リサーチをするのは当たり前だし、それで良い、というかそうするしかないと思います。そしてその対象に、腐女子腐男子、いやいやもっと広くいこう二次創作者とその消費者たちが含まれるのもまた当たり前のことです。

 

その上で、制作者側には、そのリサーチに従うか従わないか、どの層にどのような形でアピールをしていくかしていかないか、という判断が任されているわけです。ついでに言えば、「視聴者」の中の「二次創作者・消費者たち」の中の「腐女子」を「腐女子」としてカテゴライズするかしないか、ということも任されているわけです。

 

そして、視聴者たちには、作品を見て、「自分たちが客に数えられた」と判断する自由があるわけです。その「自分たち」には「女性」「男性」「性的マイノリティー」「外国人」「腐女子」という段階から「仕事帰りにぼんやりアニメを流す人」「とにかくアニメには笑いを求める人」「ロボットのギミックにこだわりを持つ人」「毎日しんどいなぁって叫んで泣きながらギャグアニメを見る人」まであります。

その誰もが、「ああこれは私のための物語だ」と思う権利がある。そしてそれは他の消費者たちによって取り上げられて良いものではない。

「公式が俺を見たんだ!」と叫ぶのは権利ですし、「違う、地平線を見たんだ」と言うのも権利です。本当がどちらなのかなんてことは、前者にも後者にもわからない、ということを両者が認識している上でそれをやるのが自由というものです。16話のマドマパロ面白かったです。

 

 これはもうただの前提でしかない。この段階で喧嘩をしている人についてはもうはいおしまいですよよちよちと言う他ない。

その後にくる問題は、じゃあその「腐女子向けだ」と腐女子が感じた、制作者は狙ったんだ、ということについてだけで作品の価値と読みを云々することについてです。

 

はっきり言ってしまえば、私はその「私向けにしようとしたために物語が犠牲になった、製作者のやりたかったことが犠牲になった」ということが絶対に許せないし、よってそういった言説が嫌いです。

これは「あいつら向けにしてマーケティングしよう」を許す、というのと両立できます。小学生の女の子をメインターゲットにしよう、から製作者が作りたかったものを膨らませたり詰め込んだりするのは可能です。作りたかったものという言葉が指すのは制作者の趣味の問題ではなく、決められた枠の中での彼らの実現できる最善を指します。幼稚園児女児メインターゲットアニメに意地でもターミネーターを出したいとかそういう話をしてるんじゃない。

 

私たちには制作者の意図はわからない。汲み取るしかない。

ということを踏まえれば、実際がどうあれ「(任意の誰か)向けにしようとしたために物語が犠牲になった、製作者のやりたかったことが犠牲になった」と言い切ることは不可能です。それは本人たちが言わない限り我々がどうこうできることではない。

 

にも関わらず

「(任意の誰か)向けにしようとしたために物語が犠牲になった、制作者のやりたかったことが犠牲になった」

ということを盛んに言う人は、ただ単に

「私の望む物語ではなかった」

というだけなんです。それは思うのも自由だし言うのも自由だしそういうことはよくある。ただ、わざわざそういう言い方をして制作者の意図や物語のありかたを決め付け、あまつさえ批判する人には異議を唱えたい。それは傲慢で、不誠実だ。

「私好みじゃない」

とだけ言え。

 

それだけは絶対に正しい。どこにも間違いがない。

 

 

 

ついでに、もしもアニメや漫画の展開等が「急に私目線になった」「誰か目線になった」ということに戸惑いを覚えたり、上記のようなことを言いたくなったときに、いいおまじないがあります。

 

それは、「きっと私(誰か)には先見の明があったのだ」「きっと私は物語をおおむね制作者と同じような目線で捉えていたのだ」と唱えることです。

 

そうです。あなたは制作者から与えられたいままでの情報を整理した結果、そういうことになる読みをあなたの中で確立したのです。おめでとうございます。喜びましょう。

誰か目線になった?今回のこともまた新たな制作者からの情報です。いままでの情報に加えて精査しましょう。また新しい読みが生まれることでしょう。そんなあなたの話を私は聴きたい。

 

 

とんでもなく長いし、当たり前のことしか言っていないのですが、私の魂のダンスを誰か一人でも見てくれれば嬉しいです。一緒に踊ってくれなくてもいいから手拍子ぐらいしてくれれば嬉しいぜ。

 

16話についてはただの感想をまた書きます。

 

お粗末さまでした。

 

「おそ松さん」15話B しんどい私が本当に欲しいものは何だったのかという話

あれBって呼んでいいのかな、Cかな、微妙なところですがつまりは

「チビ太の花の命」です。こんにちは。

 

一言で言えばしんどくてしょうがない話だったんですけど……。

いい話だった……いやいい話かこれ?いい話じゃなくない??んんん??

っていう時間が必要で遅くなりました。はい、今回は

チビ太とカラ松の二人についてがメインです。

 

チビ太とカラ松が本当に欲しかったものは何だったのかという話です。

 

今回の話は原作にもあった話だということは知っているのですが、未読です。

そこんとこよろしくお願いします。

今回のあらすじですが、

・チビ太が最高のおでんを作ろうと迷走する

・そんな時、彼の前に一人の可愛らしい少女が現れ、自分はチビ太に水をもらい救われた花の精だと名乗り、彼をデートに誘う

・それを見ていたカラ松は、枯れかけの花を探し酒(ウィスキーかなブランデーかなそのへん)を与える

・おでんのことしか考えていなかったチビ太は、次第に花の精と楽しく遊ぶことができるようになるが、彼女は花としての限界を迎え消えてしまう

・カラ松が酒を与えた花は見た目も心も醜い花の精として彼の前に現れ、わがままを言って彼を振り回し、そのあげくに結婚式をあげる

というあたりです。

 

完全に「良いおじいさんを真似した隣の意地悪なおじいさんが失敗する話」の形ですがそれはまぁ良いとして。(ついでに昔話には「心の美しさが見た目の美しさ」というルールも存在します)

はっきりとこの二人(というか二組)は対比の関係にあります。

 

チビ太は、元々ひとりぼっちのいじめられっ子で、成長してからは大好きだったおでん屋として一国一城の主となり、まぁはっきり言って、作中で一番と言っていいまっとうな大人である、「きちんと大人になれた人」だと私は思っていました。

そして彼も、そう思っていたと思います。

 

そんな彼の前に突然現れた花の精は、「おでんがすべて」と言う彼を外へと連れ出し、もっと楽しめと言い、大好きだと言った。

彼にとってのおでんは、幼馴染であり、最終兵器であった。そこに、彼を愛してくれる、彼だけを見てくれる存在が現れた。

そして、彼は「お前がいればおでんなんか」と言わされてしまう。

彼が本当に欲しいものは、おでんなんかではありませんでした。おでんは欲しいものの代替でしかなかった!!!!

それは今までチビ太がずっと見ようとしてこなかった現実です。

 

そしてその「本当に欲しかったもの」は、彼の前から消え去っていきました。

 

おでんが本当に彼が求めていたものではなかったという証拠に、彼のおでんは「しょっぱい」「腕が落ちた」

ここで、彼女と遊んだことによってリフレッシュした彼が最高のおでんを生み出したのであれば、この話は良い話だったかもしれません。しかしそうではなかった。

 

彼は「おでんがすべてを与えてくれる、おでんが自分のすべて」という今まで信じていたことを破壊され、本当に欲しいものを見せつけられ、さらにそれを失いました。

 

おめでとうチビ太!!ようこそディストピアへ!!君が見ていたおでんという名のユートピアは崩壊した!!すべてはここから始まるんだ!!!

 

 

さて、対するカラ松くんです。

 

チビ太とカラ松の間には、ひとつのラインというか、があります。

5話、9話と来て、今回。今までのいろいろから「おそ松さん」が単なる短編オムニバスではなくつながりがあることは自明ですので、チビ太とカラ松の間にも、何らかの変化が続いていると見て良い。

まず今回、カラ松はチビ太を一人で追いかけたわけですが、これ、やっぱり心配だったからではないかなと思う。

私は9話でカラ松くんに対してチビ太が親切振りかざしてマウント取ろうとしたの忘れてないですけど(今回で許しました)、とりあえず方法はどうあれ、チビ太は作中で数少ないカラ松を気にかけてくれる人です。

そして彼が見たのは、チビ太が、水をやった花に、好きだと言われ、デートに誘われる姿でした。

 

さて、カラ松くんは、兄弟たちを愛しており、また愛されたいと思っています。

彼は兄弟達に、信じてるぜと告げ、ほしいものを与えようとし、報告しろと言われればその通り自分のことを話し、また、その妨げになっていることがあるのなら修正するから教えてくれと言います。

また、そもそも彼は、注目される、話を聞いてもらう、愛されるためには「何かしらの努力が必要だ」と考える傾向があります。だから彼は凝った話し方をしようとするし(そのせいで弾数を撃てないのですが)、格好つけようとします。「何がだめなのか」「悪いところがあれば言って」というのもその延長上です。という話は前にもしました。

彼の世界では、好意というのは、手をかけた分返ってくるものです。

 

それがですよ?チビ太は花に水をやっただけで、美しい女の子に好意を持たれ、しかも彼がわかるようにそれを示してくれたわけですよ?

「好きだから」「デートに行きたい」

(残念ながら「痛い」がわからないようにカラ松くんは直接的かつ彼の考える「好意」の範囲に入る情報でないと認識できない傾向があります)

 

衝撃ですよ。そりゃ必死に探しますって。だって兄弟に対してと生産効率が違いますもん。

問題はその対象はあんな女でもいいのか?ということですが、

 

私は前回、「カラ松は世界を肯定している。彼が愛されなくても、太陽は輝き、空は青く、風は吹く、ということを知っている」という話をしました。

そのとおり、彼は否定をしません。チビ太の「最高のおでんは目に見えない」にもなるほどとうなずく。その通りです。彼は目に見えるものに拘泥しない。

加えて、「すべてを愛する」境地に至っているカラ松にとって、その対象が兄弟か兄弟でないかはさほど大きな問題ではないはずです。もちろん、そりゃ兄弟は大切ですが、既に彼は六つ子に依存していません。14話でのおそ松チョロ松一松の六つ子依存を見ればその差は大きい。

 

・元々手間暇かければ愛が返ってくるはず思考だった彼に、そのとおりの女の子がやってきました。

・彼女の彼へのアプローチ(嫉妬、あなたがいないとと頼られること)は彼にとって非常にわかりやすい「愛」です。

・カラ松くんは否定をしません、世界の全てを肯定します。


はじき出されるアンサーは簡単です。

 

そんな(彼の中では)きちんと整合性のとれた愛があるときに、兄弟の意見聞いてる場合じゃありません。

彼らの制止はカラ松にとって、彼の欲しい「愛」ではありません。

彼が欲しい愛の形は、こういうあり方だった。

 

彼は間違っていません。

彼が世話をした、その分「あなたがいないと死ぬ」という言葉が返ってくる、それは一つの愛であることは間違いないし、カラ松くんも花の精もそれによって飢えずに生きていくことができるでしょう。

この件に関して、六つ子の正義であるチョロ松はほとんど口を挟んでいません。

彼が「カラ松兄さん」と口にしたとき、そこには彼が否定できない「正義」があります。トト子ちゃんが魚路線をやめたときのように。

 

問題は、

この花がただの花であり、そのうち失われることが予想されることと、

そこに至ってしまうまで彼を止められなかったことにあります。

 

チビ太と同じ、その花はおそらくやがて枯れます。終わりがあります。

彼はまた、チビ太と同じく、本当に欲しいものの欠乏へと落下してくるでしょう。

 

しかし、それは今までと同じ地平ではありません。彼は自分が欲しかったものの形と、そしてそれがもたらすものを知っています。

また彼が、何を欲しがっていたのか、兄弟たちは知っています。

一松は盛んに「っぽい」と繰り返しました。一松は最も兄弟をよく見ているという話も前回しましたが、彼の考えているカラ松像と、今回のカラ松の行動はそのままだった。

つまり、彼の姿はきちんと「見える形」になって、兄弟たちの前に晒されたわけです。もう、後戻りはできません。

今回、ほとんど初めて彼は兄弟の制止を振り切って走りぬけました。そして、ひとりぼっちで結婚しました。彼はそれを選びました。

これからカラ松は、この荒廃から出発しなければなりません。

 

 

でねー、今回のカラ松と花の精はまぁはっきり言って「共依存」なんですけど~

これがね、あまりにもリアルすぎてすごく怖いんですよ。

この「あなたがいないと死んじゃう」って、その言葉が欲しい時にきちんとはまってしまうと、本当にドツボなんですよ。

「あなたがいないと死ぬ」を振りかざす人にただ会うだけでは、共依存はおこらない。ただそれが、「あなたがいないと死んでしまうと言われたい」人に、ぱんと当たった時に、それは威力を発揮します。

そしてそれが愛だと考えてしまっている時に、制止の言葉は逆の意味に聞こえます。

「私のことをあんなにも必要としてくれるあの人を私から取り上げようとするなんて、ひどい人だ、私のことを愛していないんじゃないか」

本当に欲しいものが、どんどんわからなくなっていく。これでいいんだ、これでいいんだと、自分を安心させ始める。 

 

なんでこんなに語ってるかって?????私がやったからだよ!!!!!はいはいそーですよ悪いか?????

本当にドツボってる時はまじでアレ、わりと満足なんですよ。自分が本当に欲しいものがそういう「あなたがいないと死んじゃう」だと思ってるから!!思い込んでるから!!しかもそれがきちんと貰えているとき、人は疑問を持つことをしないから!!システムオールグリーンだから!!

と、友人にズブったあげく当時の彼氏が何考えてるのかが全くわからなくなり振った私が言うんだ!間違いない!!

 

というわけで今回の話は本当に欲しいものを得たと思いきや失う話だ!!というわけでした!!

今回がみぞおちに入った人は個人的に思い当たるところのある人が多いのではないかと思うけれどどうなんでしょうね。

いやー次回が怖いな。

 

 

ちなみに当時ズブってたやつは、んーなんでかわかんないけどしんどいな、あっこれダメなやつじゃね??と気づいた頃に馬鹿みたいに受験勉強したせいで彼女と話す機会がガッツリ減りついでに高校も別れたので大事に至らず終了しました。

 

よしカラ松くんも受験勉強しよう受験勉強。あれはいいぞ。勉強はいろいろ救うぞ。

 

 

お粗末さまでした。

 

 

 

番外:おそ松兄さんへの搾取が見ててしんどいという話

こんにちは、今回は番外です。

15話がしんどい、しんどすぎるのでとりあえず今度ね。まだ考え中。

 

今回は2話Bの「お前の苦労話と俺の問題は関係ない」というセリフでこのアニメ視聴を決めたわたしが、今何に苦しんでいるか、何が辛いか、長男クラスタやってるのが苦しいよ、という話をしておきます。

もういいよー黙ってたけど、正直そろそろつらいから言語化しておきたいし晒しておきたい。つらいよー誰か聞いてよー

実は結構前に書いたものなんだけど、なんで今晒すかっていうと、今後この話を引き合いに感想かかなきゃいけなくなりそうだし、あとは読むとなんで今かっていうのがわかると思います。

本当に、自己責任でお願いします。石を投げないでください。

トーンが普段と違うけど、そのへんは番外だよを強調するためなのでまぁ箸休め程度に読んでください。

 

 

今回のテーマは「個人を個人を超えた概念として消費、搾取することとされることの功罪」について。

個人を個人を超えた概念として消費する、ということの例として、まずカラ松の話をする。

カラ松のアニメでの扱いについて、視聴者からは「かわいそう」という意見に反論する言葉として「ネタキャラとしておいしいポジションだ」という意見がある。
後者はつまり、カラ松というキャラクターをギャグアニメのオチ要員として消費しているということになる。
もちろん、あのアニメにおいて確かにカラ松はそういうキャラクターとして機能している。
しかしそれはカラ松の意図していることではない。彼は意識してギャグの成立のために痛いキャラを演じているわけではない。

これを、個人(カラ松という人格)を超えた(この場合は無視した)概念としての(オチ要員、ギャグキャラ)消費 と呼ぶ。

これは別に特別なことではなくて、多かれ少なかれ人間こういった消費をし、消費をされて生きている。
また、これらは一方的であるだけでなく、利益のために意図的に行われることもある。

例えば、AKBは国民的アイドルとして消費されている。
彼女たちは個人の人格を超えた概念として消費されるために、恋愛を禁止され、四六時中監視される状態におかれ、と人権の一部を売り渡している。
しかし、それによって彼女たちはお金や承認や地位やその他もろもろメリットを得る。
そのメリットと弊害が釣り合っている場合、平穏な取引が生まれる。

クラスで実は真面目な子がお調子者キャラとして居場所を作ったり、お笑い芸人が自分の不幸をギャグにすることで笑いを取り人気を得たりと、こういった関係は社会に溢れており、それが取引として成立している限り、そこに問題は生まれない。

もちろん、そこから消費されることによる害自体が消え去るわけではない。
結果、カラ松はそんなのは嫌だと声を上げ始めることになる。

 

というわけで本筋に戻る。

カラ松の話はメタ的な意味でのキャラクター対視聴者の関係性だったが、今回は物語世界の内部での話をしたい。

松野おそ松という個人が個人を超えた概念として搾取されているという話だ。


松野おそ松は六つ子の長男であり、変わり果てた六つ子の中での不変の象徴のような男である。
ついでにこのアニメの題名は「おそ松さん」であり、彼は六つ子そのものの象徴、概念の体現でもある。

クールの後半における彼は意識的にそう振舞っているように感じられる。

彼は2話Bにおいて「六つ子は5人の仲間ではなく5人の敵」「長男だからって何、全員同い年だ」「お前が兄弟が欲しかった話と俺は関係がない」と
自分が長男であること、六つ子という共同体の概念の否定、自分の個人性を主張したはずだった。
しかしその後、彼はそういった話はせず、5話、9話、13話と「良い長男」として回を重ね、決定的なのは10話アバン。
彼は自分に相談を持ちかけたカラ松に対して、不変の象徴、六つ子という概念という立場から返事をした。
変わらなくて良い、そのままで良い。
個人の単位では、自分もカラ松ももっと現状に対して悩むべきだ、という自覚を持っているのにも関わらず。

彼はなぜ自分を長男として消費させる、搾取させることを認めたのか。
そのきっかけとなったのは何か。誰が松野おそ松という個人を殺したのか。

 

その話をする前に、ディストピア松野家における家族内ゲームとしてのキャラクターの捉え方について書いておく。

家族内ゲームとしての捉え方、というのは、彼らにそれぞれ人狼ゲームで言えば勝利条件のようなものを振り分けると、一気にキャラクター像が掴みやすくなる、というもので、私がアニメや漫画の世界を整理するときによくやることなんですが。

とりあえず松野家の場合、全員の勝利条件はそれぞれ承認(見てもらう)ことと居場所を確保すること、というのを共通として仮定する。

彼らはそれを共通の目標として持っているが、それぞれ性質は違うため、違った手段でそれを達成することを目指す。

例えば一松はこれがめちゃくちゃ上手。
彼は自分が他人の中に居場所を作ることは不可能だと考えているため、「六つ子という共同体を守ること」を個人の第一クリア条件にしている。
トド松は家族外にも自分の居場所を作ることが簡単にできるため、家族外へと出ていこうとするが、それは一松の条件にひっかかるため、全力で阻止される。
十四松は逆に「誰の条件にもひっかからない」という位置を常にとりつづけることで居場所を手に入れている。
そういったゲームがあまりにも性にあわなすぎた結果全員の条件を満たす形になった時に最下層にくるのがカラ松。


で、おそ松の勝利条件を、彼は特に戦略を立てずともクリアできるものだと信じていた。

「長男だから家は確保できる」と彼が言うように、彼は長男であることだけで、つまりは生まれた時から、居場所は常に用意されており、承認されているものだと信じていた。
その認識が、2話Bのラストにおいてひっくり返った。


ニューおそ松兄さんである。


あの出来事によって、おそ松が長男であるだけで、自分が自分であるだけで居場所を担保されているという認識は崩れ、「他の5人から認められる長男であること」「六つ子という共同体を保ち続け、その頂点に座り続けること」という新しいクリア条件が生まれてしまった。

ではニューおそ松兄さんを用意したのは誰なのか。


個人を個人を超えた概念として消費する一番の例は、アイドルだ。
その名のとおり偶像であり、個人の権利を捨てることで概念として人々に消費され続ける。

では、このアニメにおいてアイドルを消費するという属性を持っているのは誰か。そう、三男チョロ松である。

彼は橋本にゃーちゃん、トト子ちゃん、それからレンタル彼女への態度から、総じて、個人を超えた概念を崇拝する(そして搾取する)側の位置に置かれ続けている。

決定的なのは、8話なごみのおそ松。

彼はなごみ探偵のおそ松を褒め、讃え、必要として利用するが、彼が起こした災厄の責任を負う気はない。
(ちなみにおそ松の負っている借金は500万=5カラ松=5人分である)
ただマネージャーのように彼を頷いて眺めるだけだ。

チョロ松は勝利条件を「何らかの上位の概念を支える役割につくこと」によってクリア、自分の居場所を確保し承認欲求を満たそうとしている。

彼は13話でトド松を排除した「五つ子」のセンターを、おそ松に設定した。順当に行けば三男の彼は自動的にセンターになれたはずだ。しかし彼はそれを望まない。彼にとってのセンターは長男。もちろん、彼の言う「センター」がただの「中央」という意味ではないことは明らかだ。


さて、それではニューおそ松兄さんについてもう一度考えてみる。

ニューおそ松兄さん、つまりヒジリサワショウノスケは、チョロ松と十四松のデリバリーコントによって初めて登場した。
(ちなみにデリバリーコントにおいてヒジリサワショウノスケは「家宝」である。)
その後の2話Bにおいて、ニューおそ松兄さんを企画する理由があった、つまり明確におそ松に恨みがあったと考えられるのは、チョロ松とカラ松だと考えられる。
この2点を総合し、カラ松と十四松にこれをやろうと全員をノセられる力があるかと考えると、この茶番をやろうと言いだしたのはチョロ松である可能性はかなり高いのではないか。
2話以降に彼がにゃーちゃんについて語ったことはない。(たぶん)
にゃーちゃんはあれ以降、ハタ坊の船に乗ってたりポスターにいたりトト子ちゃんの楽屋にいたりしたぐらい。まぁあれだけ本人の目の前で場を荒らしたら流石にもう少なくとも直に会いには行きづらいと思うけれども、とにかく、彼はあの日アイドルを失った。

 


チョロ松は、アイドルとの出会いをおそ松に破壊され
その仕返しに、ニューおそ松兄さんという「家宝」、概念を松野家に持ち込むことで
おそ松を「家宝」という概念にしがみつかせることに成功した。

おそ松を概念としての存在にしたチョロ松が、それを支える役割として想定するのは当然のように「くん」時代からの相棒である自分のはずで、彼はその位置を確保すること(その他の兄弟を平等に保ち続けること)で家族ゲームに勝利する。


自分の居場所を保つには自分が長男らしい長男でいることが必要だと気づいてしまったおそ松は、今「六つ子は5人の敵」「一人っ子が良かった」と言えるだろうか。
状況は悲惨に見えるけれど、少なくともこの搾取は彼に居場所という利益を生んでいる。
松野家はとても巧妙に歯車が噛み合ってしまっている。

 

 

 

ここまで書いてあれ、この発想に至ったのがサリンジャーのグラス家の7人兄弟について考えた結果なんですけど。
グラス家の長男シーモアは兄弟の中で最も天才であり最も変人にして聖人、グラス家の天才兄弟を代表し象徴するような存在なんですけれど、戦争に行って完全に精神を消耗し、
「今日はバナナフィッシュにうってつけの日だ」
(バナナフィッシュとはバナナが詰まった穴に入ってバナナを貪り穴から出られなくなって死ぬという彼の考えた架空の魚)
という言葉を残した日にピストル自殺をするんですね。

で、次男バディという男がおりまして、彼は幼少期はシーモアにくっついて動き他の兄弟をシーモアの思想に洗脳する片棒をかつぎ、彼の死後は彼の聖人性を伝える小説を何冊も書きます。

なんか、怖くない?

彼の死については様々な説があるし、要素がこれ以外にいろいろあってなんとも言えないし、こんな話するといろんなファンから殴られそうだけど、少なくともバディはシーモアが死してなお、彼をヒーローとして消費することをやめなかったんだなぁと、最近思う。

今の思考回路のままのおそ松兄さんが、何らかの事情で自分が良い兄さんでいられないことを悟ったとしたら、どうするんだろうね。

 

たぶんおそ松兄さんが唐突に死んだとしたらチョロ松はバディのようにおそ松兄さんを心置きなくアイドルとして死ぬまで消費し続けるか、
もしくは連鎖的に自分の居場所を失ってアノニェー状態か(知らない人は夜中にググるのはブラクラ喰らうのでおすすめしない)どっちかだろうなぁ。

 

 

 

というのが最近の頭の中です。生きるのがつらい。

本編見ててしんどいから二次創作見るじゃないですか。本編以上に弟たちが兄さんを搾取しているじゃないですか。胃を壊すじゃないですか。

でもよく考えたら私がおそ松兄さんを愛して、2話Bの叫びのように、私の欲しい言葉をくれるのではないかと期待して毎週TVの前に座っているのも、彼を救世主として消費しているだけなんじゃないかとも思ってしまうじゃないですか。胃を壊すじゃないですか。

というループで最近まじめにつらいです。

私はチョロ松が大好きです。他の兄弟たちも本当に大好きです。ついでに言えばこういう状況になったのはほとんど自業自得です。だから、誰も恨みたくない。全員幸せになってほしい。いや今の状態もある意味では幸せなんだけど、そうじゃなくてこの居心地の良い地獄を焼き払ってから改めて幸せになってほしい。

もう一度おそ松兄さんがきちんと「松野おそ松」として立ってくれるのを待っています。でも早くしてくれそろそろ胃に穴が空きそう。


赤塚先生、なんとかなりませんかね?

 

 

 

すごい!長いぞ今回!ここまでスクロールありがとうございます!

 

お粗末さまでした。

「おそ松さん」14話B しんどい私にはラインがわからないという話

いえーーーーーーい!!!!!!

13話について書いている場合じゃなくなった!!!14話!!!!

よくやったトド松!!!今日が俺たちのインディペンデンス・デイだ!!!!

おめでとう!!今夜は最高!!さぁ踊ろうぜ!!やっほーーーーい!!!

 

以上が私の14話の感想なんですが、これで終わりにするわけにもいかないので何か書きます。

えーっと、14話Bパート「トド松のライン」についてです。

あらすじをまとめるとこう。

・トド松がジムに行こうとしていることを見つかる

・彼がジムに通っていることを知らなかった兄弟達が問いただすと、他にも、彼が兄弟に黙って囲碁クラブに通い、富士山に登っていたことがわかる。

・おそ松とチョロ松によって兄弟会議が開かれ、どこまでが兄弟に報告しあうラインかについて話し合う。

・怒ったトド松は自分のことを先に全部知ってもらえば解決すると、自分の全てをプレゼンすると言い出し、自分の好きな兄弟のランキングを発表すると言う。

・それに怯えた兄弟達は話し合いを切り上げ、チョロ松はなんの報告の必要もないとトド松に告げる

・その後銭湯に行こうとしたその時、十四松が株式について電話をしているところを目撃し、俺たちお互いのことを何も知らない、とおそ松がつぶやく。

 

今回AパートBパート同じ部屋の中でだけで会話だけで面白く話を回すのって本当に演出と脚本が凄まじいなと思いました。

 

 

さて、ストーリーの中では、トド松は兄弟に言うべき「ライン」がわからない、ドライモンスターである、ということになっていました。つまり、あの場での異常分子はトド松であったわけですが、

 

本当にそうなのか?

 

むしろ、「ライン」がわかっていないのはおそ松とチョロ松の方なのではないか?

 

 

このブログでは趣旨が違うので説明してないんですが、私の松野家ディストピアサバイバル家族ゲームとしての捉え方の中では、

六つ子という概念そのものであり神であるおそ松、長男をトップに置き平等な五人の弟を維持するマネージャーチョロ松、二人の思惑に従って他3人をあるべき場所に縛る実働部隊名誉班長一松

がこのゲームの回し手であるという視点で見ているので、今回はこのあたりとトド松についての話になります。そのうち既にまとめて書いてあるのを載せるかもしれない。

というかこの話がまんまその構造をしていて、カラ松と十四松は今回の会議でもほぼ空気なのでこの二人は置いておきます。

 

さて、やつら六つ子がクズである理由の一つには「六つ子という概念に縛られ、お互いを地獄の足かせと思いつつ離れられないこと」があるわけですが、それをトド松はよく知っていました。

彼らがこの居心地の良い地獄(ここが居心地のよい地獄であることは実松さんが説明しました)から離脱するには、相互依存から抜け出し、個人になるしかない。「僕はみんなで僕たちは僕」していてはいけないわけです。

しかし、トド松はそれを知りながら、六つ子に帰ってくるしかない男だったわけです。パチンコ警察でわかるように、彼は帰りたくないけれど、帰る以外の選択肢を考えることができなかった。

 

 

トド松はこれまで、高いスペックを持ち、兄弟をうんこな地獄の足枷と思いつつも、自分の帰る場所がそこにあると思っていたから、おそ松を立て、可愛がられるように振舞ってきました。

しかし、13話で彼は「要らない存在」と言われた。三男のその言葉に誰も異議を唱えてくれなかった。

 

もう、彼が「六人で一つの存在」である必要はなくなりました。

彼はその気になれば一人でもやっていけました。その気になっただけです。

そして、彼は他の五人との間に、暴力的に「ライン」を引いた。

俺はお前らとは違う存在なんだ、全部を共有し合って分かり合えるなんていうのは幻想だ、そしてそれを願うのは気持ち悪いことだと、彼ははっきり言った。

 

正確に言えば、「引いたことを見せつけた」です。

彼は今まで、兄弟にいろいろなことを隠していました。

でも、たぶんそれがバレないように隠す努力をしていたと思うんですよね。たとえばスタバァにバイトに行く時は、なんか嘘の言い訳をしたり、こっそり家を出たりしていたと思うんです。ジムも囲碁クラブも、今まで誰にも気づかれていなかったわけですから。

でも今回、トド松は堂々と、みんなの前で準備をしてから出かけた。

もう隠す必要も、それを偽る必要もないからです。

なぜなら彼はもう六つ子という一つの人格ではなく、トッティ(そういえばもう松でもないな…)という一人の人間なのですから。

 

なんかねぇ、いやここは自分の話する場所だってことにしてあるから話すんですけど、私この辺すっごいわかるというか。

単純な例を挙げれば、私中学の頃某漫画がすごく好きになって、ちなみにそれは私が人生で初めて読んだ「リアルタイムで人気がある漫画」だったんですけどね。

でね、それのキャラクターのカードがついたお菓子がありまして、私はそれを月一ぐらいかな、時々お小遣いで買っていたんですよ。

でも私はそれを母に言えなかったんですよ。ずっと隠していた。お菓子を買いに行ったことも、カードも、友人に漫画を借りたこと自体も。

絶対に怒られると思ったからです。でも、自分でもおかしいんですけど、母にそういうものを買ってはいけない、漫画を読んではいけないと怒られたことって、一度もないんですよ。中学生がお小遣いの範囲で好きなものを買う、というフツーのことだったんですよ。一枚100円ちょっとで、私のお小遣いは一ヶ月500円とかそんなんです。いたって健全です。

ただ、きっと怒られる、怒られたくない、自分が悪いことをしている子だと思われたくない、という一心で隠していたわけです。

まぁしばらくして(ほとんど大学生になってなんですが)こないだこういう漫画を読んだよ、このおもちゃ可愛いでしょって言っても何にも問題ないんだ!!!母は怒らなかったし、しかもこれは私が稼いだお金だ!!私は自由だ!!!!わははははは!!となったんですが。

これの生き残りが、未だに時々私をしんどくさせます。誰に頼まれてもいないのに、誰に締め付けられてもいないのに、自分でもそんなことやりたくないのに、そうしないといけないような気がして落ち着かない、諸々のルール。

 

 

余談ですが、アダルトチルドレン、依存関係で使われる概念に「境界線(バウンダリー)」という概念があります。

この自他の境界が曖昧になると、自分の欲求と他人の欲求が不明瞭になり、アイデンティティを確立できなくなるそうな。共依存、DV、トラブルを引き起こす原因になります、と。

 

このへんでお腹が痛くなってくる感じはあるのですが、まぁ置いておいて。

この「ライン」「境界」がわからないのは、もしかしなくても、兄たちのほうなんじゃないのかなぁ。

 

 

ついでにトド松は、ゲームマネージャー三男より、「もう何も話さなくていい」つまり、「一つの六つ子」でなくても良いと言い渡されました。

いけるぞ!!いいかんじに一松も疲弊してきた!!このが崩壊するまであと少しだ!!!このままつっぱしれ!!汚物は消毒だ!!!!焼き払っちまえ!!!

 

とりあえずそんなかんじに拍手喝采したい14話でした。おしまい。

 

 

蛇足ですが

 

usenri.hatenablog.com

綺麗事っていうのは、前者の過程の間は役に立たないクズですが、後者の段階では役にたつようになります。
例えば、人権の欠片も残っていない荒廃した場所で、もうそうしなきゃ生き残れないような状況に追い込まれた時に、そんな中でも「私は人を殺さない」と叫べる人がいるとしたら、その人は真に自由であるといえるのではないかしら。

 

私14話見て思ったんですが、もしかしたらカラ松の「それでも俺は兄弟を愛している」は、この居心地のよい地獄が終わったあとの最後に残る綺麗事になるかもしれない。

この世界が醜悪で、誰にも愛してもらえなくても、空は青いし、風は吹くし、太陽は輝くんです。

 

 

お粗末様でした。