バックヤード

アニメ「おそ松さん」を血を流しつつ視聴する

しんどい私の大好きなディストピアの話とやっぱり「おそ松さん」の話

こんにちは。毎度ありがとうございます。元気に生きてます。

 

私は以前から「松野家ディストピア説」を提唱し前回は「ひゃっほう!世界が滅んだ!!」とヨロコんでいましたが、私はディストピアが好きです。ほとんど性癖です。

私は本を読んでは、「これはよいディストピア」音楽を聴いては「ディストピアみある」などとかなりカジュアルな評価軸にこの言葉を使います。世の中のエンタメはディストピアものかそうでないかです。わりとフィーリングです。

 

あまりにもフィーリングなので、よく「どういう判断なんだ」「どのへんがそうなんだ」「しっかり説明せぇよ」とお叱りを受けます。ごもっともです。すみません。

というわけでここらで、「お前の好きなディストピアとはなんぞや」という話を一度ゆるーいかんじでしておこうと思います。

 

えーとまずきちんとした語義からいきましょうか。ウィキペディア先生によると

ディストピアまたはデストピア(英語: dystopia)は、ユートピア(理想郷)の正反対の社会である。一般的には、SFなどで空想的な未来として描かれる、否定的で反ユートピアの要素を持つ社会という着想で、その内容は政治的・社会的な様々な課題を背景としている場合が多い

ということです。語の初出は、ジョン・スチュアート・ミルが1868年に行った演説とのこと。主な特徴は

平等で秩序正しく、貧困や紛争もない理想的な社会に見えるが、実態は徹底的な管理・統制が敷かれ、自由も外見のみであったり、人としての尊厳や人間性がどこかで否定されている

 という描写があること。

ちなみに、混合しがちですが、世界の終末後の世界を描くジャンルのことは「ポストアポカリプス」と呼ばれて区別されるそうです。

しかし、世界崩壊後に反ユートピア的な社会が建設されるというのであればジャンルとして両立することもあります。ふむふむ。

 

というわけで基本的なお勉強は終わりです。

ここからはこれらが本当に厳密にこのジャンルが好きで研究している人に殴られる感じの話をします。

私は前述したポストアポカリプス、終末ものも大好きです。やったぁ滅ぼすぜ世界。行こうぜ荒野。火の七日間だイェイ。

ついでにそこを経由して築かれる反ユートピア、とはいえある視点からではユートピアでもあるというのがこの概念のニクいところなのですが、ディストピアというのは大変素晴らしいものだと思っております。ハンバーグに目玉焼き乗ってるかんじです。

しかし、私がどんなに目玉焼きハンバーグが好きでも、「終末もの」好きを主張するのではなく、「ディストピア」が好きだ、と主張するのは、この点の違いにおいてです。

 

「世界が崩壊しても、理不尽な社会でも、とりあえず生きてはいける。ご飯が食える。」

 

ここです。ここが重要なんです。

世界が崩壊した、食いもんと住む場所がねぇ、戦わねば!生きねば!というのが終末サバイバルものです。

世界が崩壊した、理不尽な世界だ、でもとりあえず当座の食物はある、家もある、なんか生きてる!というのがディストピアものです。私にとっての。

 

うーんと何か例をだそうと思って、一番広く知られててわかりやすいのって何だろうと思ったんですけど、そう、私の大好きな映画にピクサーCGアニメーション映画『ウォーリー』があります。

そうだ!『ウォーリー』を語ろう!やったー!!

『ウォーリー』私本当に大好きで、毎回冒頭の曲がかかった時点で泣いてるレベルで、もう見てない人は早急に見てくれ!見る時はきちんとエンドクレジット後までちゃんと見るんだぞ!!お姉さんとの約束だ!!というかんじなのですが、あの作品、私は二種類のディストピアが見られると思っています。

見てらっしゃらない方に簡単に作品を解説しますと、BnL社という会社が支配した結果、大量消費の末に環境汚染で住めなくなり、ロボットに環境改善をさせている間避難しようと人間が全員宇宙船で旅立った後、何百年か経った地球、というのが舞台の作品です。その何百年か経ち掃除ロボット達が皆壊れてしまった中、ゴミだらけの地球でひとりぼっちでひたすらに掃除を続けていた小さなロボット「ウォーリー」君が主人公です。

重いよ、重すぎるよ。

ウォーリーくんは毎日仕事をします。ゴミを圧縮し並べていくのが彼の仕事です。毎日規則正しく出掛けてはこの仕事に精を出します。

しかしながら彼の仕事は、はっきり言ってほとんど無意味です。もっと大量に彼と同じロボットがいた時代はいざしらず、彼一人が、しかもゴミを消滅させるのではなくカサを減らし移動するだけというのは一日中頑張ったところでまぁ環境改善には至らないだろうということは明白です。

そして彼はひとりぼっちで何百年も過ごしたために、限りなく心に近いものを手に入れています。彼には夢があります。ゴミの山から見つけた映画に出てきた人間たちのように、誰かと手をつなぐこと。

しかし彼の生活は変わりません。一日中ただ誰のためなのかもわからないようなゴミ掃除をしつづけ、誰かと手をつなぐことを夢見ながらスリープします。

彼は誰かといたい、手をつなぎたい、誰かを愛したいと願いながら、逃れられない仕事に励みます。強制的にひとりぼっちでいつづけます。今ここにはいない人間にそうプログラムされたからです。そして彼はロボットです。日光で充電できます。壊れるまで、彼は何かと戦わなくても生きていられます。

 

それではその頃人間たちはどうしていたか。本来数年間で地球がクリーンになり帰還できると考えていた人間たちでしたが、環境改善が難航したために彼らは宇宙生活を延期することを選びます。全ての活動をロボットに任せ、移動する椅子に乗って宇宙船内を移動する彼らは筋力を失い、何百年の間に退化しました。彼らは何もできませんし、何もする必要はありません。オートパイロットによって統制される船内では何の問題も起きません。人間は何不自由ない生活ができています。どこか退屈さを感じることはありますが、彼らは何もしなくても生きていられます。

 

後者、「ロボットに管理された未来の人間たち、不自由のないユートピア、に見える進歩も闘争も気力もない社会」は定義的にわかりやすいディストピアです。しかし前者も、完全な社会体制が描かれているわけではなくとも私の定義でディストピアです。ウォーリーも人間たちも、生きている環境に落差はあれど、何者かに押し付けられた世界の中で不自由です。しかし生きてはいけます。戦わなくても。

ウォーリーの前に現れた美しい探査ロボット「イヴ」によって彼がなかば「うっかり」闘争の当事者になる羽目になり、彼らによって人間たちが尊厳を取り戻すまで、そして彼が愛する者と手をつなぐまでが描かれるのがこの映画です。

 

つい調子に乗って長くはなりましたが、このウォーリー側のディストピア、つまりは統制社会や国家権力やカースト、その他SFに必須ななんやかんやがなくっても、理不尽かつ人間性を失わせる現状とそれに甘んじる人間、そして甘んじていられるだけのご飯と屋根のある場所、これが揃う環境が、私は好きです。それを私はディストピアと呼びます。

 

例えば私はポール・オースターが好きですが、『ムーン・パレス』や『偶然の音楽』を私はこういう意味でディストピアものと呼びます。主人公たちには金がありません。特に強い目的もありません。石をひたすら積むとか、無意味な仕事は目の前にあります。そしてご飯と屋根があります。

 

私はそんな世界を描くものが好きで、この「好き」のカテゴリは自分の中ではジャンクフードが食べたい瞬間があるとかアルコールが好きとかそういうものに近い衝動なのですが(けなしてるんじゃなくて自分の中のカテゴリ分けがそういう分類だということ)私はそういう世界が破壊されるのを見るのも好きです。こっちはいささか私という人間のカタルシスの問題の方の「好き」です。

この世界が破壊されると、大抵は、同時にご飯と屋根が失われます。

 

先日友人に勧められてアニメ『妄想代理人』を観ました。今更ですね。アニメには明るくないんだ。すごく面白かったです。あらすじ説明しづらいのでこの先見てない人に優しくない話です。雑に読んでください。

終盤で猪狩さんと月子ちゃんが、昭和の町並みの穏やかな世界をゆく場面があります。そのころ同時に外の世界は少年バットの妄想によって破壊されています。つまりはそういう荒廃から目を背けて生きているのが現代社会だ、ということなのですが、彼に優しいまやかしの世界を猪狩さんはバットで破壊し、脱出します。

「居場所がないって現実こそが俺の本当の居場所なんだよ」

 

私は一日かけてブルーレイ3枚分を再生し、このへんで東京が荒れ果てるのを眺めながら「うわ週に二度も世界が滅んでやがる…」と思い、友人の家からの帰り道ラーイヤーラライヨラとくちずさみながら考えて考えて、うむこれもディストピアだ、と判定することにしました。

 

というわけで、おわかりいただけたと思うのですが、私はこういう判断基準で、「おそ松さん」ってめちゃくちゃディストピアだと思っています。

彼らにはいろいろ欠けているものがいっぱいあって、ついでにそれは理不尽な運命やこの社会の歪みの結果としてありますが、彼らにはご飯と屋根があります。彼らは闘争ぬきに生きていくことができます。それに甘んじている間彼らは幸福です。欠落から目を背けておくことさえ可能です。

人間にはご飯と屋根が足りているから考えられることとご飯と屋根が足りているから考えられなくなることがあります。前者の方を語るのは古くは高等遊民と呼ばれる人たちが担っていました。「こころ」の先生は別です。あれはディストピア判定出せます。

ニートってすごいシステムだね。この説明が面倒くさい状況を3文字で表現できます。彼らは定義的に厳密にはニートではありませんが、この意味で正しくニートです。彼らは生きるための闘争なしに生きていられます。

 

 

そう、ここまでの話に従えば、SF的な世界観、近未来的社会、管理社会がなくったってディストピアと言えるなら、そもそもこの世界ってまるごとお前の言うディストピアじゃん、ということになります。当然そうなります。

私は「こころ」の先生はディストピア判定出せると言いました。彼は彼の世界がディストピア、明日を生きる金があり美しい妻がいる一見理想的に見える荒廃にあると気づきました。気づいたことで彼の世界はディストピアに変貌しました。それと闘う気力を持ち合わせなかった彼は彼の夢見たユートピアと心中しましたが。

 

ディストピアものが存在するのは、そこがユートピアではないということに誰かが気がついたからです。それまでは、いつまでもそこはご飯と屋根のあるユートピアです。

 

 

だから私はあの六つ子の家をディストピアと呼ぶのです。

 

 

 

お粗末さまでした。

 

「おそ松さん」18話 主人公になりたいしんどい私の話

こんにちは。

 

前回私が何を締めに書いたかっていうのを見返してみたんですけど

私イヤミに言ったんですよね。

「さぁ楽園は終わりだ!!早いとここの地を無に帰そう!!!」

 

ほんとに無に帰しやがった。

 

というわけで唖然としつつ18話「逆襲のイヤミ」の感想いってみたいと思います。

 

 

今回の話はざっくり言うと

・かつて「おそ松くん」時代に主人公であったイヤミが主人公の座奪還を狙う

・イヤミは優勝したら次回からの主人公の権利が手に入るという、カートマシンでのレースを用意し、六つ子やトト子、他の登場人物達が参加する

・参加者達はお互いに妨害しあい殺し合いゴールを目指すが、イヤミは主人公となる自分以外のキャラクターが消えてしまえば解決すると言い、原子分解光線で世界を滅ぼす

・喜ぶイヤミだったが、なぜかおそ松は生き残っており、全員を倒す手間が省けたと言いイヤミと乱闘を始める

・おそ松と改造人間と化したイヤミ、執念で復活した参加者たちがゴールを目指すが、ゴール前に力尽きる

・聖澤庄之助が優勝する

 

 といった感じです。すごい。また世界が滅んだ。

 

私は今まで、ずっと「赤塚先生の楽園は消えた。全ての価値が瓦解した。六つ子という居心地のよい地獄は崩壊するだろう。そこに何が残ると思う??」ということをずっとこねくり回してきました。

でもね、私はこの「楽園の喪失」「優しい小世界の崩壊」というのを一種の比喩、メタファ、そしてポエムとして使って語ってきました。

だから今後来るであろう「破壊」も「再生」も、例えば一松事変によって一松がカラ松に救われたように(ここもメタファですよ)、何らかの出来事によって、何らかの向こう側で、行われるだろう、それを見逃さないようにしよう、と私は思っていたわけですよ。

それをまぁ、18話は「ほらほら!皆殺し!!ほらほら!!」って地続きの世界でやりやがったんですよ。

凄まじいことですけれど、それが、それこそがギャグマンガのできることであり、アニメのできることであり、エンターテイメントのできることであったと思うんですよね。

16話についてで、「問題の可視化」についてちょっと話をしましたけど、作り手が意図したか、受け手が汲み取ったか、っていうのを別にしても、こういうことがエンタメの役割っていうか、可能性というか。それを「おそ松さん」はずぅっとやってきてる。

だって現実では、それがその人にとってどんなに素敵な王子様との出会いであっても傍からじゃ何もわかりませんからね。マンガだったら薔薇しょって星振りまいて出てこられる。これはものすごいパワーですよ。

 

さてと、本題に戻ります。ここまでも十分熱弁振るいたいところではあるんですが。

 

今回の話はまぁ~前述したメタフィクションとメタファのてんこ盛り、ってかんじだったんですが、今回の構成上の面白い点は、「普段の生活の延長上の世界での話」であるという点だと思います。

今まで、その役割は赤塚漫画のスタイルでもあったスターシステムの回「なごみ」や「面接」そして短編、そしてデリバリーコントという小規模のスターシステム劇中劇によって担われてきました。というか担われてきたというふうに私は見てきました。

今回、ほぼ全編「優勝したら主人公」というメタ極まりない上にカーレースというはっきり言って現実的でない出来事が起き続けているにも関わらず、彼らは彼らのままという世界観となっています。近いものがありました、「ダヨ~ン相談室」ですね。

 

これをどういう位置づけとしてみるか、というのがけっこう大きい違いになってきます。

今回が「なごみ」のようにパラレルとしての物語であるとすれば、この「世界崩壊ジェノサイド」の再現が、こんどは日常の松野家ライフの流れの中で行われる可能性があります。

今回が日常の延長にある話だとすれば、今回起きたことも反映された物語が今後展開されると考えられます。

なぜ私がこんなことをちみちみこだわって気にしているのかというと、

今回、全員が全員「あまりにもむき出し」だったから。

そしてやっぱり「世界が崩壊」したからです。

 

六つ子たちを、「大人になれなかった大人、「見られ」足りていないこどもたち」として捉えていた私にとって、今回の「主人公になりたい」というテーマはメタ的な意味以上に重くのしかかりました。

「六つ子」そして「その他のみなさん」つまりは私たちは、みんな本当は主人公として生きたいのです。

主人公になりたい。なんていうんだろう、自分自身の主人公として生きたい、というか、自分を主人公だと、少なくともそう思って生きていたい。誰かの人生を生きていたくない。それが当たり前のようにできる人と、できない人がいます。けれど、それが苦痛を伴うことであったとしても、普段はすでに諦めているようなポーズをしていても、やっぱり私は主人公として生きていきたいのです。

 

そして、彼らは終盤、その執念のために死から蘇り、人を殴り倒しながら、ゴールを目指します。スタート地点でスタート前から棄権状態、中盤で自分からリタイヤした一松さえも、「褒められたい!!」と叫びながらハタ坊を殴ります。

 

なぜ彼までもそう言えたのか?一度死んだからです。世界が滅んだからです。

正確には、イヤミという男が滅ぼしたからです。

 

ほとんど初めてイヤミという男について書くんですが、彼は「おそ松くん」時代のスタァです。私の家には、今考えて到底そんなことをするようには思えない若い頃の祖母と、幼い母が彼のポーズをとって写った写真があります。びっくりだね。とにかくそれはとんでもないレベルだったらしいぞ。私がリアルタイムじゃないのでこのぐらいにしておきますが。

しかしまぁ現在彼のことを若い子が知ってるかっていったら知らないしイヤミのポーズで写真撮る人がいるかっていったらまぁいないですし(あの頃のようにって意味だよ)そういう、彼が旧時代のヒーローであることは本編中でもはっきりと残酷に描かれています。

つまり、彼の世界は既に、赤塚先生の死とともに滅んでいました。いや、実際は同時に六つ子たちの楽園も失われていたのですが、それをイヤミは目に見える形で骨身に染みる程、叩き込まれていたわけです。

イヤミはこのアニメが始まった時から既に死んでいたのです。

 

一度死んだイヤミは蘇ります。また「主人公として生きたい」という執念のために機械仕掛けのサイボーグとして蘇ります。結果、彼はアニメ序盤から、作品中でほとんど唯一、「くん」時代のことを盛んに口にし、「主人公になりたい!!!」と叫び続けることができるキャラクターになりました。

 

そして彼は「世界が滅ぶ」ということがどういうことかを知っています。よって的確に他のライバルたちを殺すことができます。

彼はスイッチを押しては、彼らの前に「欲しいもの」そして正確には「本当に欲しいもの」ではない幻想を用意し、それを破壊してみせます。

客体としての女、安定した老後、アイドル。

それらが幻想であることは、今まで18話かけてこのアニメが描いてきました。

そして一松にとっての猫、カラ松にとっての花。

作中で語られたように、それらはある種の代用品、消耗品でありながら、彼らが本物だと信じたがっていたもの達です。

それらを、イヤミは破壊します。それこそが、私たちにとっての世界の崩壊、つまりは価値観の崩壊です。世界は焦土と化しました。

 

彼の誤算は、皆殺しにした人々がやはり彼と同じように主人公になりたいという執念を持つことを予想できなかったことと、松野おそ松という男が既に彼と同じところまでいきついていたということでした。

 

 

ごめんなさい私は進行中のアニメについて書いてるんだ、あとでどんなに自論と矛盾する展開になっても絶対撤回しねぇしあやまらねぇぜと思っていたんだけど今回は謝らせてください。ごめんねおそ松兄さんお前はやっぱそんな殊勝な奴じゃなかったよな本当にごめんなさい。

 番外:おそ松兄さんへの搾取が見ててしんどいという話 - バックヤード

 

そうだよ彼は2話の段階で自分のアイデンティティであった「六つ子の長男」「俺がタイトル」「俺が六つ子」を破壊されて自分が主人公じゃないことに打ちのめされてるじゃないか。いや、もっと前だ。そもそも彼はアニメが始まる以前から、イヤミがスタァになったときから、ずっと彼にタイトルを奪われて生きてきているのではなかったか。

彼がとっくの昔に「主人公」としてリビングデッドであったとすればつじつまが合うことはいろいろとあります。彼は主人公になりたかったのです。良い兄貴たる行動を取ることもその一つの手段でもありますが、必要とあらば彼らを皆殺しにすることもできます。

個性を持った彼らは「5人の敵」なのですから。

それでこそ私が推す松野おそ松だよ。

 

二人の死者は蘇り、自分が主人公になりたいという衝動のために手段をつくして争いました。最終的には同じステージの二人が世界に残され、直接の大乱闘を繰り広げます。

しかしながら最後に勝利したのは聖澤庄之助という、新アニメで初めて名前が付いたキャラクター、まっさらな生者でした。

 

 

これこそがリバイバルと言わずしてなんと言うのか。

 

私は彼らが「主人公としてのポストを与えられながらも脇役にその地位を奪われた少年たち」を成長させて「自分の主人公として生きられない大人になれないモラトリアム青年たち」として読み替えるのもとんでもねぇなと思っていたんですけど今回を見てこのアニメはそれ以上のことをやってのけていたんだなと思いましたわ。ウルトラCだよ。とんでもねぇよ。

 

今回、彼らが全員一旦正式に死者になり欲求を叫べる存在になったことが、今後引き継がれるのか、それとも引き継がれない、別の形で再現されるか、というのが次回からのポイントだと思います。

 

しかも全員お互いの主張を聞いちゃっていますからね。

見ていて思ったんですがチョロ松くんはやっぱり作中では「信頼のおける語り手」で、そのまんま考えたこと口から出すし行動してるんだなと思ったんですが(そしてやっぱトド松くんは嘘つきなのでよりいっそう)、だとすると彼が兄弟の支持を受けて号泣していたのは本心でしょうし、そんな彼が「認められたい」って叫んでいたのは印象的でしたね。

彼に真っ先に存在してるのは「認められたい」。就活もレンタル彼女も、彼にとっては、きちんとした男だと認められるための手段、なんですよね。そのへん行動の一貫した動機として今回で納得できました。

 

でも私が一番共感したのは、一松くんかなぁ。

注目されたくないし、主人公になるのはとんでもなく怖いことだけれど、レースには参加したいし。

こんなに頑張って生きているんだから、誰かが褒めてくれたっていいのに。それだけでいいのになぁ。

 

 

今後もまだ六つ子としてやつらは生きていけるのかなぁ。今回を引き継ぐのならかなり微妙なところだと思います。

 

 

「主人公になりたい!!」と叫ばなくても生きていける、なぜならいつでも「十四松だよ」と言うことができるから、そして人にこう言える十四松くんが、何かを変えてくれるかもしれません。

 

 

「主人公は、あなたです」

 

 

 

お粗末さまでした。

 

「おそ松さん」17話 しんどい私は私でしかないという話

どうも、こんにちは。

マクラにしたかったことは先日書いてしまったので本題に入ります。

「十四松まつり」です。

 

いやはや、衝撃的でしたな。

今回、正直「哲学」なのでかなり文章がとっちらかっていますがご了承ください。

 

今回は、短編オムニバス形式なので、あらすじは置いておきますが、

私はこの短編の並びは意図的なものだと思っておりまして、その話をするためにも、まず最初に全体を二つ、(正確には三つ)に分けます。

 

「十四松と概念」以前と

「十四松と概念」以後、というように分割、加えて

「十四松と概念」です。

 

 そうです、今回は前編を通して、十四松の「自己認識の話」でした。

それを、「概念」以前と以後に分けて語っていきたいと思います。

 

 

私は9話感想、そして番外編で述べたように、十四松についてこのように考えていました。

彼は誰の地雷も踏まないように、誰の条件にもひっかからないように生きることで居場所と承認を得ている。そのために誰の内部にも踏み込まない。彼はなごみ世界における鑑識(固有の名前を持たず、他にも大勢おり、代役も可能)、つまりはモブである。彼はその「誰にも踏み込まない、踏み込めない」生き方を選んだ代償として、彼女とはお互いに責任を取り合う大人としての関係を築けなかった。

 

それは15話での面接、今回でも同じです。彼はまっとうな思考力を持って、ああいった態度をとっています。「言えばやめてくれるッ!」は最高に好きな台詞ですが、その通り、彼は言えば通じますし、ふざけはするけれど積極的に誰かを傷つけようともしない。彼は人が望むままに形を変える、不定形の生命体です。(その方法が大変に突飛で人知を超えすぎている、というかもう人間なのかも疑問なレベルだから面白いのですが)

 

 

十四松とカラ松がパチンコに行った際ですが、彼はおそらくカラ松の言うことを理解していたでしょう。あれはその上でふざけて遊んでいたと考えられる。他の兄弟たちが出払っているということを何らかの方法で察していた可能性もあります。私の見立てですが、カラ松は松野家家族ゲームからすでに抜けている状態にありますので、十四松としては楽な遊び相手だと言えるでしょう。

彼が本当のところ、真面目に言えば、「兄さんがパチンコに勝ったことを言えば兄さんが集られる可能性がある、だからみんなには言わない方がいい」と考えていたことは自明です。だから彼はトド松に問い詰められたとき、迷った。

「嘘をつかない」「報告は必ず」は他数人の地雷に抵触するルールです。六人全員を前にしては、それは守られねばなりません。しかし十四松はカラ松を即裏切ることもできなかった。

さらに不運なことには他の兄弟達は沈黙していました。他の3人が乗ってくれれば、彼はパチンコ警察とスタバァを再演してみせたことでしょう。

 

どちらにもつくことができなかった彼がどうなったか。キャパシティオーバーです。

不定形生物である彼は、常に自分の取るべき行動を周囲から察した情報から選択します。そこに自我はありません。

 

そんな不定形生物十四松が、キャパシティーオーバーを起こした後に考えることとして、この疑問はまったくもって自然です。

「僕って、何なんだろう」

 

 

「十四松と概念」です。

 

というわけで十四松と概念の話を詳しくするんですけれど、私はこれを見ながら号泣していたのでちょっと冷静な判断がつかなくなっているかもしれないのでそこのところよろしくお願いします。はぁ。

 

自然な疑問として沸いた「僕って、何なんだろう」という問い。

彼はこの大きな問題に対し、真っ向から挑みました。それはさながら、爆弾を処理するために銃弾を打ち込むような処理の方法です。

 

そうして、つきつめていった結果、彼の周囲の世界は見え方が変わってきます。声も、形も、言動さえも関係ない。そこに残るのは「僕」を思考する「僕」。

十四松は何がどうあろうと十四松なのです。その圧倒的な事実の前には、自己認識や存在意義といった悩みは不毛です。自分をどう捉えようが彼は彼以外の何にもなることはできず、存在意義があろうとなかろうと十四松はそこに存在し続けます。

それはひとつの悟りであり、彼にとっての新しい世界の見え方です。

 

 

 

さて、十四松がこれを、一つ上の兄であり「おそ松くん」時代からの「一番一緒にいる時間が長い」一松に投げかけたというのはものすごく重要です。

問いが十四松個人の思考を超えて、言葉になる、世界にたち現れるためには、一松という存在が必要でした。

 

十四松と一松のありかたは対照的です。一松は自分の存在というものをきちんと認識し、把握し、把握したが故にそのために自己否定に走ってしまっている青年です。だからこそ、そこにがんじがらめになって身動きがとれなくなっている。彼の暗さと卑屈さは誰かからの攻撃などによって形成されたものではなく、過剰なまでの自意識からくるものです。

前回、彼は、格好を変えて口調も変えてあれだけ窮地に追い込まれても、それでも馬鹿正直にはなれなくて恥をかくのが嫌で感謝の言葉も素直に言えない自分とひたすらに向き合わなくてはなりませんでした。そんな彼は、自分が変わることができない苦しみを知っていたはずです。

 

「僕は僕でしかない!!」

それはひとつの祝福であると同時に、絶望でもあります。私は私から逃れられない、その地平は荒野です。それだけであれば。

 

 

質問という言葉になったことで、「僕とは何か」という問題は「彼個人の問題」から、「世界の問題」になりました。

その結果、世界は「僕でしかない僕」「俺でしかない俺」の集合体になりました。僕が僕でしかないように、目の前にある一松兄さんも、一松兄さんでしかない。そして、違う方法でその地平にたどり着いていた一松にとっても、目の前の十四松は十四松です。

 

「私は私でしかない」ことのもたらす救いと苦痛が出会った時に、そこにはただ、別個の存在である「あなたと私」があるのみになります。

 

すさまじい世界の転換です。これにたったの5分です。

 

 

ここから先、「私は私でしかない」ステージに至った十四松は、様々にそのステージの可能性と限界を見せていきます。

 

 十四松を十四松として定義づけられるのは十四松だけであり、プロ野球選手という肩書きもテレビも看護婦さんも、それを保証してはくれません。

 

博士の薬が効いたから透明になったのか、彼が元々透明になれる人間なのか、彼が言ったことからしか真偽を判定することはできません。なぜなら私たちは別々の存在だからです。

 

十四松パンとティンカーイチは、自分にとっての「夢のある場所」が、トト子ちゃんにとっての「夢のある場所」と同一ではない可能性に悩みません。

 

 

「私は私だ」の次にやってくるものは、「あなたは私ではない」です。

それは良いことでもあり悪いことでもなく、だからこそどちらの面も持ちます。トト子ちゃんはドミニカに置き去りにされて困ったことでしょう。

しかしながらこれは高依存状態にある六つ子という思想を殴り倒す武器です。十四松が六つ子に向けてこれを直接的に使ったとき、トド松のラインの時と同じように、決定的な打撃となるでしょう。

 

 

 いやはや、もう、とんでもない話です。一話すべて十四松のために使う価値があったというものです。

十四松、そして一松は、六つ子の世界を破壊する強力な武器を得ました。静かにカウントダウンは始まっています。

 

 

 

恒例の私の話をしますが、私は小さい頃から「「本当の私」というものがどこかに存在する言説」というものが嫌いでした。そのため、真面目な十四松と明るい狂人十四松、どちらが真実かという話題にも実のところ興味はありませんでした。

 

中学生の頃、そういった言説を吐きたくなる時期というものがありますが、私は周囲のそういった言葉をさびしく聞いていました。みんな「本当の私は誰にも見せられない」なんてことを平気でいいます。今はそれが自意識を太らせ始めた子の、生きるのに必要な、悪気のないささやかなかっこつけだったことはよくわかるのです。しかしそれは時に人をひどく傷つけます。

私は生身のまま私として生きているのに、みんなは「偽物の私」を被っていて、その中身を私に見せてはくれないのだ。それは私がきっとみんなに好かれていないからなのだ。すごく親しいと思っていた友人もいきなり「本当のことを言い合える友達が欲しい」とか言う。それは私がたいして大事な友人じゃないという宣告と同じじゃないか。何がいけないのだろう。私は何か悪いことをしたのだろうか。エトセトラエトセトラ……

そのすきまに、「あなたがいないと死んじゃうの」という言葉を持つ人が忍び込んでくるのは容易なことです。

 

当時の私が言語化できなかった違和感を、一松は「ジャンル」という言葉を使って説明しました。

私がどう動こうとそれは私のバラエティのうちの一つでしかない。誰かの真似をしてしまう私も、真面目な人間だと見せかけたい私も、隠しておきたい変態な私も、そのやわらかいところを誰かにわかってほしいというただの欲求を「本当の私」という言葉で飾りたくなってしまう私も、すべて私です。すべてが私という「ジャンル」に属する切り口の一つです。それでいいのです。

 

私がね、ずっと疑問で、ずっと苦しくて、成長したことでぼんやりとわかった気になって放置してきたことをね、一松くんがスパンと言ってくれました。

すごいねぇ。ありがたいねぇ。偉いねぇ。

なんだかもう視聴中の精神が六つ子というより一松くんと共に成長する会、みたいなかんじになってきています。頑張れ一松くん。

そして君に十四松という弟がいたこと、十四松に一松という兄がいたということはものすごく幸運なことだ。どうかそれだけは、いつまでも残ってくれますように。

 

 

次回はやっとイヤミが帰ってきます。予告では花畑を誰かが刈りとっているようなかんじでしたね。

さぁ楽園は終わりだ!!早いとここの地を無に帰そう!!!

 

 

 お粗末さまでした。

しんどい私の近況報告

どうも、お久しぶりです。

 

17話の感想を書こうとして、いくつか前置きに雑談をしてみたらなかなか本題に入れなかったので別に書いておきます。

 

 

・ブログの話

やっとIDではなく名前を表示する方法が分かりました。これでやっと人間らしい名前になれたので嬉しいです。

コメントが承認制だったことに先日気がつきました。コメントを下さっていた方、本当に申し訳ありませんでした。ありがとうございました。嬉しいです。今後なかなか承認されないという場合でも、少々お待ちいただけるとありがたいです。

 

 

・DVDの話

DVDの売上好調とのこと、おめでとうございます。

自分の好きなものが人気者なのは嬉しいことです。

とか言いつつ私、いまだに購入しておりません。まだ見ておりません。

というわけで今後しばらくのエントリは「3.5話を見ていない人間」の感想と分析になります。何かとんでもなく見当違いなことを言っていたら笑ってやってください。

散々周りから「お前は見るべき」「いいから見ろ」と言われているんですが、どういうことですか?そういうことなんですか?恐ろしい……

引っ越しを控えているためにものを増やさないようにしているのですが、たぶんそのうちに誘惑に負けます。負けたらここに「3.5話の話」とかがあがるので、あがったら察してください。

 

 

・Spoonの話

かの近衛兵さんたちが表紙のSpoon、読みました。初めて紙媒体で制作サイドのインタビューを読んだことになります。大変面白かったですし興味深いことがいくつもありましたので手に入るのならぜひぜひ。

特に、美術に関して「昭和90年」というキーワードについては本当に納得でした。「懐古趣味は意味がない」、しかし昭和から地続きの現代、という視点は本当にもう頭がいいなぁという頭の悪い賞賛しか出てきません。

 

ところで、先日、松野家の居間にある手のひらの形をしたピンクの椅子とほとんど同じものを岡本太郎記念館で見つけました。(もう広く知られていることだったらすみません)

「昭和」というワードと、岡本太郎、そして赤塚不二夫、おそ松くん、というのがひとつの連続として配置されているのかもしれないなぁと思いつつ、世界観考察勢の皆様のお話を聞きたいところです。

 

 

・「天才バカボン」の話

昭和といえば、赤塚先生の「天才バカボン」が実写ドラマ化するという話を聞きました。

最初の感想は「なんてむごい」って感じでした。

天才バカボンといえば、公開されたあのカットで後ろに大きく書かれていたとおり、「これでいいのだ!」です。(正確に言えばバカボンのパパですが)

 私は「おそ松さん」を「これでいいのだ!と言っている場合じゃない、言えない、言えなくなった子供たちの物語」だと見ていました。

もちろんバカボンのパパの「これでいいのだ!」は真理であり、彼は偉大なキャラクターでありそれは偉大なセリフです。

しかし、その真理に至るためにとんでもない苦痛を有する人間や、その真理に打ちのめされる人間というものが確かに存在する。

私は松野家の彼らをそちら側の人間であると見て、そして自分もそちら側の人間であると見ているわけです。

そしてできればね、いつかはその真理にたどり着きたいんだ私は。

ちょっとこのタイミングでやつらがやってくるのはね、つらいですね。

まだ始まらないみたいなので、ちょっと立ち向かえるだけの体力をつけて待機しようと思います。

あとバカボン実はきちんと読んでいないので読んでおこうっと。

 

 

・そしてまた「裏庭」の話

いろいろあったので梨木香歩『裏庭』を再読、というか何度目かわからない読しています。

2話見てはてなに登録して即この命名をした私を褒めたいほどには松でした。作品ファンに怒られるかもしれませんが、少なくとも私にとっては松でした。

ここに来てくださって、私もしんどい、と思ってくださった方でまだ読んでいない方がいらっしゃったらダイマしておきます。素敵にしんどいですよ。

 

 

 

17話、初見で泣いたのは2話以来です。びっくり。

 

 

「おそ松さん」16話B しんどい私が見てこなかった現実の話

はい、やっとこさ書けます。16話感想です。

 

私は以前から「松野家ディストピア説」を延々と主張していたんですが、なんと今回はAパートでそれにOKを出していただくという、大変に公式様に甘やかされているかんじでスタートいたしました。

最後のチョロ松くんにはもうゾッとせざるを得ないですね。はい。

というわけで今後も松野家ディストピアがどのように動いていくのかを見守りたいと思います。

 

で、でだ、まぁAについて語りたいことも大量にあるんですが、でも、ね、今回は

一松事変についてきちんと考えないといけないので、Bパートについてをメインにしたいと思います。

 

 

今回の話は一言で言えば

「磔にされた一松が時計台の上からおそ松によって墜落させられる話」でした。

 

まずは話を整理します。

・服を脱いで昼寝をしていたカラ松を見つけた一松は、カラ松の服を着てみる

・そこへおそ松が入ってくる

・一松は焦るが、おそ松がどうやら自分のことをカラ松だと勘違いしていることに気づき、カラ松を演じようと試みる

・苦しい言い訳を続けていたところ、カラ松が昼寝から起きる

・状況を察したカラ松は置いてあった一松の服を着て一松を演じ、おそ松を部屋から出す

 

枝葉を落とすとこうなります。いや今回その枝葉がめちゃくちゃ問題なんですけれども。

 

今回の話は、一部カラ松のモノローグをのぞいて、ほぼ全編一松の視点、一松のモノローグで展開されます。

こういった構造の話は、このアニメに今回以前はほとんど見られません。

私はアニメや映画等の映像作品にそれほど明るくないので何とも言えないのですが、モノローグ、そして小説で言う地の文というものは、「嘘をついてはいけない」というのが基本的な読み方と書き方だと思います。「書きたくないことを書かない」「曖昧に書く、婉曲して書く」というのは自由ですが、嘘をついてはいけない。

例外が、「モノローグの主の視点が狂っていることが自明、あるいは後でその狂いが明かされる場合」です。それが13話「実松さん」の構造でした。

 

モノローグの少ない映像作品において、キャラクターの思考というものはとても曖昧です。彼はこう考えていた、だからこのセリフを発したはずだ、ということを、私たちは高速で脳内で行いながらアニメを見ているわけですが、そこに食い違いが起こっているということも十分にありえるわけです。

そして、「おそ松さん」において、その読みはかなり難しい。他のアニメがどうかはしりませんが、特に、1クール目後半あたりから最近にかけてが非常に面倒です。

例えば、14話でトド松は長男次男両方に「一位だよ」と言いました。それは明らかな嘘です。スタバァでわかっているとおり、トド松は嘘をつきます。トド松のセリフには、これは計算された嘘なのか、本心なのか、という疑惑が常につきまとう。暴論を言えば富士山に行ったことだって、兄弟を釣るための計算された嘘である可能性さえあるわけです。

今回、おそ松兄さんが一松の正体に気づいたのか、気づいていなかったのか、そのセリフはどちらにも受け取れるということを、多くの視聴者が考えたと思います。おそ松兄さんに、今回モノローグは一切ありません。そしておそ松兄さんは、9話Bで見せたとおり、「考えたことを黙っていることができる人」である上に、「人を挑発したり、ふざけたりすることもできる人」です。それを考慮して、彼のセリフとアクションだけで判断しなければならない。

それは非常に困難です。しかし、それはいままでも全てのキャラクターでそうだったはずなのです。何を考えているのか、この語り手は信用できるのかできないのか、それがわからない不気味さの存在は今回の長男で表面化しました。今後、私たちは彼と、それ以外のキャラクター達の発言すべてに疑いの目を向けずにはいられません。

 

今回は、おそ松兄さんが果たして本当に気づいていたのかいないのか、という点についての真実はとりあえず置いておいて、考えません。今回は、より「信用できる」情報である一松のモノローグを精査する形で進めます。よって、一松の視点、「おそ松兄さんは自分をカラ松だと認識した」という前提を踏まえます。

 

 カラ松の服を着てみたかった一松、というのが十分衝撃的なんですが、まぁカラ松の格好は「イタい」のであって決して「ダサい」「変」ではない、彼がきちんと雑誌を読んで研究した、TPOさえ合えば間違わなければ「イケてる」方のファッションだったということはよくわかります。(クソタンクトップはあれだ、例外、うんきっと何か血迷ったんだきっとそう)

そして一松はおそらくですがV系バンドやロックンロールを愛しており、元々センスとしてさほど遠くないところにいただろうとも考えられます。

けれど、おそらくアニメが始まった当初の一松にはこの行為はできなかったことでしょう。

六つ子環境は大きく変容し、それぞれが少しずつ外へ出ていくようになりました。その変化は、あれだけ人嫌いだった一松にバイトをさせるまでになった。あのアバンが今回に持ってこられたことには意味が有るはずです。

彼は変化を求めました。そのうちにファッションというひとつの要素があったというのは十分理解できます。

それでも、彼はまだ六つ子という概念の中、15話おでん屋での並びのように長男と三男の間にぬくぬくとしています。おのずと変化は家庭内で可能なものになった。すなわちカラ松の模倣です。

 

しかし、今回で一松は、その行動のせいで身動きがとれないままに、彼が大切に守ってきた「六つ子」というものの現実の形と自分の姿を、おそ松によって見せ付けられることになります。

 

彼について今回の饒舌なモノローグに並ぶもう一つの情報があります。エスパーニャンコです。

彼は人と距離を縮めることができません。価値がない自分が、人の期待を裏切ってしまうのが怖いから。傷つくのが怖いから。

 

彼はおそ松の前で、なんとかおそ松が勘違いをしたままでいてくれるように、一生懸命カラ松を演じました。必死になって、おそ松の考える通りに動こうと、自分の考えに嘘をつき、言い訳をした。その姿はとても滑稽だったということは、彼自身がよくわかっていました。

 

一松から見るおそ松の態度は、カラ松の前での彼の態度、つまり、自分のいない場所での彼の態度です。

 おそ松は「こんなにおいしいにぼしを猫にやるなんて、一松は馬鹿だ」と言い放った。一松のいない場所で、です。彼は初めて自分のいない場所で自分がどのように言われているかを知った。これはもうほとんど陰口です。そしてそれは、友達のいない、友達を作ることを恐れる一松にとって、最も恐ろしいものではなかったか。

 

そして、おそ松は自分のにぼしを勝手に報告なく食べました。14話であれだけ報告の必要性と平等性を主張していた長男が、です。それは六つ子の連帯をなにより大切にする一松にとって最も忌み嫌うものでした。しかし、よく考えてみれば、彼自身もにぼしを兄弟に報告せず隠していたのです。彼が守りたかったルールはただの幻想、虚像にすぎませんでした。

 

そして、彼は自分の保身のために、手段を選ばない、選べない自分をも自覚することになりました。彼は自分が恥をかきたくないばっかりに、親友のためのにぼしを食べ、嘘をつき、カラ松にキャラをなすりつけることまでした。しかし、彼が保身のために手段を選ばない男であったことは、最初からずっとそうだったのです。彼は友達を作れない自分が生きていくために、六つ子の連帯を制裁によって保ってきた。彼はずっと、ずっと保身のために主にカラ松やトド松を制裁してきた。そして、その保身によって、彼は親友を失いました。

 

加えて、彼がそんなにまでして守りたかった六つ子というものの概念の象徴たる長男おそ松は、彼を馬鹿だと言い、ついでにカラ松に化けた自分に気付かなかった。

 

 

メッタ刺しどころの問題ではありません。

彼は元々、的確な状況判断のできる子です。自分が保身のために誰かを傷つけることのできる人間だということに気づいていたはずです。だからこそ自分を卑下してゴミとして生きていた。その問題は今彼の目の前に可視化して現れました。いままで、自覚をしているからこそ蓋をして、見ないようにしていた自分の姿が一気に晒された。

 

彼はこうして、自業自得の状況で退路を絶たれ、転落死しました。

 

しかし、それでは彼が落下した先に待っていたものは何だったのか。

 

それは真っ先に死んだ次男、カラ松でした。

彼はあの状況で自分のすべきことを察し(本当お前よくできたなと感心)、一松に化けました。一松はあの状況で、完全に死んだと思ったところをカラ松に救われた。いままで虐げてきた次男にです。

 

(余談ですが、個人的にはカラ松の演技があまりにも下手くそだったことについてもちらっと。私はあれ、雰囲気は似せられてるのにセリフがガッバガバだなおいって思ったんですが、もしかしなくてもカラ松くんは視覚優先の子というか、どうもよくわからないことについてはお耳のチャンネルを切る子なのではと思っておりまして、だから普段一松の話あんまり聞いてなかったんじゃないかな……そもそも一松あんまり喋らないからデータも少ないし……)

 

 「神かよ」その通りです。

彼は落下し、今までの自分にとっての「六つ子」を見失い、自分自身の姿を直視し死にました。

しかしその下にはきちんとセーフティーネットが敷かれていました。カラ松は一松の思惑に乗っておそ松を部屋から追い出すことに成功した上、「何やってんだ」とは言いましたが彼を責めませんでした。「びっくりしたよ」って……やっぱり神か?神なのか??

彼を救ったのはカラ松の優しさであり、一松もそれを認めました。一松は全ての価値を失いましたが、最後には彼を信じていると言い、愛してきた兄がひとり残りました。

そう、そうだよ、君には「カラ松兄さん」がいたんだよ、昔から今まで、ずっとね。

 

 

思った以上に一松くんが軟着陸を遂げてしまったので、正直この先が私には全くわかりません。

どうしよう一松くんが死ぬのはわかっていましたが、彼がきちんとカラ松という新世界の神に救われるのはもっと時間がかかると思っていました。こんなにも的確に迅速にそれが行われるとは思っていなかった、どうしよう、とりあえず、おめでとう。

 

今回で「超絶信頼できない神」おそ松兄さんと最近めっきり影を潜めた「比較的信頼の置ける語り手」であるチョロ松くん(今回の一松を見ていて思いましたが、チョロ松は口からモノローグがそのまま出てくる男だ、そうだよお前が静かだから最近このアニメは輪郭がブレて見えるんだ、意図的にやってるんだったら相当怖いな)が、今後どうやって生きていくのか、私には妄想はできますが予想ができなくなりました。

 

今回の一松くんについての文章が総じてブーメランとして眉間に突き刺さっていることについては、言うまでもありません。

これが、可視化というものなんですよ。彼はあの状況で自分の姿を目で確認しましたが、私たちはそれをこのアニメでやってるわけですよ。しんどい。しんどいよ。

 

来週も楽しみです。

 

 

 

お粗末さまでした。

「おそ松さん」としんどい私と「裏庭」の話

 

おそ松さんを好きな理由と、しんどい世界をしんどいまま生きていくわたしについて

http://bkyd.kill.jp/bkyd/?p=70bkyd.kill.jp

おそ松さん感想のリタイアについてと架空の鹿のための追悼文

 http://bkyd.kill.jp/bkyd/?p=251

 

 

察してください。

よくわからない、という方は今回のエントリは本当に読まなくても大丈夫です。

本当に大丈夫です。

前回も言ったとおり、ネットの世界では見えない問題は存在しないのに等しく、そして見るか見ないかを選ぶのもまた自由です。

 

まさか16話感想に行く前にもう一つ書かねばならぬことができるとはなぁ。

 

今回は、私は本当に私の自己満足のために文を書きます。

 

usenri.hatenablog.com

 

こちらを見ていただければわかるとおり、私のブログは冒頭の記事を読んだために、こういった形で公開されました。

私たちは自由です。考えるか考えないか、そしてそれを文字、絵、その他諸々のかたちにするかしないか、そしてそれを他の誰かに見せるかどうか、その選択をすることができます。

私は、おそ松さんの2話を見て、自分にはこのアニメから感じたことの言語化をしなければならないと感じました。そしてしました。

しかしそれを、人々に見てもらうかどうか、という段階には迷いがありました。

ネットの海に言説を放流するということは、本来勇気を必要とすることです。今は大概お手軽になってしまいましたが、本来そういうものです。いや、ネット如何に関わらず、形にして世に晒すということはそれ自体が勇気でしょう。

そして、私の書いた文章は、晒すとしたらネットの海が一番適していた。なぜなら、読んでいただいた方は察せられると思いますが、これは身内と友人には読ませたくない文章だからです。

そんな時に、前述のエントリを読み、ああ、こういう意見も公開して良いのかもしれない、いや、そもそもこれはただの誰も傷つけない感想なのだから悩む問題でもないのだ、誰かに見てもらおう、そうすれば何か、チラシの裏に書いていたときとは違う新しいことが起こるかもしれない、そう思い、私はこのブログを始めました。

そして、その結果、私は人から見ればささやかな量かもしれないですが、わかるよ、同じことを思ったよ、いい文章だったよ、という言葉を受け取ることができました。

もちろん、そうは思わないなぁ、そんなに考え込むもんでもないじゃないか、という言葉も飛んできました。それでも、私はこのブログを始めたことを後悔していません。

私へと飛んできた、多くはレスポンスを期待しない反応は、私にとって、チラシの裏の頃には得られないものでした。

私はこの数ヶ月間、それ以前には考えられない量の不特定多数の人からの言葉を得ています。

そしてそれは、私の勇気に見合うものだったと思っています。

 

私の文章は、私とできるだけ、関係のない人に届いてほしいものでした。そこに橋をかけるには、勇気と跳躍が必要でした。おそ松兄さんも言った。あなたと私の苦しさには、全然関係がない。その通りです。でも、だからこそ、そこに何かを生み出せたら、それは素敵なことなんじゃないか。

 

 

と、ここまで説明しておいてだ、私は今、とても怒っています。

私と前述ブログの管理者様とは、全く関係はありません。おそらく私のこともご存知ないでしょう。私は、今自分と関係のない人のために悼み、怒っています。

 

私は、ここで感想を書き続けることをやめません。

私はあのエントリで、全く関係のない私が「わかる気がする」「私もこういうことを書いて良いのかもしれない」と感じたことにはとても価値があったと思う。だから、私はそれを意味がなかったことにはしたくない。してはならないと思う。

 

私はこれからも、ここでどこかの私と関係のない誰かが見てくれるかもしれない場所に考えたことを投げ続けます。そこに何か価値が見つかるということを証明したいから。この世界がどんなに醜悪な悪意に満ちていようが、キラキラと光る「意味のある瞬間」があることを諦めたくないから。

 

 

私のブログの題名、「バックヤード」は、梨木香歩の「裏庭」からとっています。

私の大好きな小説、しんどさを感じた時に読み返す小説であり、「バックヤード」は元々、ツイッターでの私の裏アカウントの名前でもありました。

そしてあの物語は「傷を直視し、傷と向き合い、傷を自分に引受けることができるようになるまで」の物語です。私は2話を見て、ここを私の「裏庭」にしようと思いました。

 

前述のサイトと名前が被っていたことは、全くの偶然です。(正直、気づいたときにめちゃくちゃ焦りました)

繰り返しますが、このブログ名の間には、全く関係がありません。私と作者様にも全く関係はありません。

 

だからこそ、そこには意味があったのです。

 

 

 

 

本当に、ありがとうございました。

 

 

 

 

「おそ松さん」16話 しんどい私が「腐媚び」言説について考えた話

こんにちは。みなさんいかがお過ごしでしょうか。

というわけで、いつものように16話について語りたいところなんですがちょっと待ってね

私は普段すごく狭いついったーランドで良識のあるふぉろわーさんたちに恵まれクリーンで暖かなネット環境を維持してきて、本当にありがたいなと思って生きております。

ので近所では何も起こっていないのですが、何やら?遠くの方で?今回の放送の内容によって各所キャンプファイヤーの周りでの学級会が起こっているというような?噂が流れてきました。

 

私の素晴らしきついったー環境からはそういうものは「探しに行かなければ見えない」ので私が「探しに行くか行かないか」によって問題は消えたり現れたりします。ネット社会では見えないものは存在しないのに等しい。ですので私は普段取捨選択自分の好みに合わせて、キャンプファイヤーを眺めに行ったり、踊りに行ったり、踊る人に話を聞きに行ったり、後から「こんなのあったよ」ととぅぎゃなどという名の写真を見せてもらったりしているわけです。それなりに楽しいインターネットライフです。本当に申し訳ないですが、ある種のエンターテイメントです。

 

しかしながら問題は、火元がすごく好きなものや譲れないものであった場合、「燃えているのも踊っている人もしんどいから見たくない」「しかし参加せねば自分の好きなものが自分の知らない場所で変質するかもしれない」「それは嫌だ」「好きなものは常に自分の問題にしておきたい」「でも見たくない」「あーあー存在ごと知らなきゃよかったのになぁ」というような、大変複雑な心情が起こります。とてもつらい。ほどほどに好きなものなら真っ先に踊りに行ってついでに裏拳で二三人殴っておこうかというノリなのに。

 

長々お前は何を言っているのかという感じですが、つまりは、今回の私は「何やらおそ松さんについてキャンプファイヤー開催のお知らせを見つけたけれどしんどいから行きたくない、しかしここで踊っておかなければおそ松さんクラスタとしての沽券に関わるし、ついでに二三人殴っておかなければ敬愛する関係者の皆様とともに歩むクラスタの皆さんに申し訳が立たない気がするので踊らなければ、しかし見にはいきたくないので自分の家の前あたりで踊ります誰か見てくれ俺の魂のダンスだ」ということです。

 

本当はこんなこと書いてる場合じゃないし、書きたくなかったし、早いとこ普段の感想喚き散らし作業をしたいんだ!!しかし私は踊らなければならない!!いつも読んでくださるみなさんありがとうございます!!読みたくない方はどうぞどうぞ今回は飛ばして、感想をもう少々お待ちください!!

 

今回も自己責任エントリです。よろしくお願いします。

 

はい、長すぎる前置きでしたが、今回のテーマは、どん

「公式の「腐媚び」について」

 

あーもうこの言葉使いたくないよ~~~でもこれが一番短くて端的に伝わると思うから使っちゃうけど、整理すると、

 

16話の内容が「腐女子(腐男子ももちろん含みますけど)から見て」とても

「自分たちが普段している妄想に近い」

「世の中で「腐女子が好む」とされているものに近い」

ものであったために、公式が

「私たちのために(私たち受けを狙って)制作した」

のではないかという発想を持ち、またそれに類する発言を始め、それに対して

「公式はそういうことをするのをやめてほしい」

「公式がそういうことをしていると考える人たちが騒いでいてうるさい」

などと感じた人たちが、

「目に見えたり誰かを攻撃する形でそれを発信」

しだし、あらゆる意味でそれを良しとしない人たちが殴り合いを始めた。

 

なるべく言葉をきちんと選んで厳密に言うということなんだと理解していますが合っていますか?残念ながら家の前で踊っているんだちょっとずれていたらごめんな。

 

 結論から言うと

「作者が客層サーチをするのは当たり前に認められる行為であり、俺のためにそれが用意された!と考えるのも自由であり批判されるものではない、しかしその「俺向け」にする努力に物語と作者が使役されているように断定するのは物語と作者に対して不誠実だ」

ということになるのですが、これからそれを噛み砕きます。

 

まず、製作者による客層のサーチについて。

これはこの時代(本当は時代なんて問わないんだけど特にこの時代)当たり前に認められる要素であって、何ら問題はないと思う。

 

「おそ松さん」が女性人気を意識したかどうかなんて私には全然わからないけれど、とにかく現在、天秤の傾きはあるにせよ男女どちらかしか見ていないアニメ、漫画なんて存在しないことだけは確かであって、「どちらかだけを、少なくとも疎外しない」ように作品を作ろうとするのがトレンドになりつつあるように思う。いい時代です。

ぶっちゃけ未だにどちらかを疎外したがるファンは多いけれど、制作者サイドがそれをやるのは商業的なチャンスを逃しているっていうことは自明。

 

それを踏まえた上で、手段を駆使して、どのあたりの層が見ているのか、どのあたりの層が一番お金を落とすのか、どのあたりの層に働きかけるのが新たな消費者を生み出しやすいか、という傾向を探るのが必要なことだ、というのはエンタメだけに関わらず商業目的があるものにとってはフツーのことだと思う。

もちろん、「俺の店には俺の料理の味がわかってくれる人だけ来ればいい」というのも自由ではあるけれど、すぐには成功しないし、これをやって何とか食っていけるのは一度ブレイクした後、広く認知された後の話じゃないかな。あとは趣味。

とりあえずアニメはそういうわけにはいかない。関わっている人数はめちゃくちゃ多いし、スポンサーはつくし、短期で成功しないといけない。10年後に「あれはいいアニメだったなぁ…」なんて言われればいいわけじゃない。言われないよりはまぁマシだけど、できる限り放映中に認知されて楽しまれて様々な手段でお金を払ってもらわないといけない。

そんな状況で、リサーチをするのは当たり前だし、それで良い、というかそうするしかないと思います。そしてその対象に、腐女子腐男子、いやいやもっと広くいこう二次創作者とその消費者たちが含まれるのもまた当たり前のことです。

 

その上で、制作者側には、そのリサーチに従うか従わないか、どの層にどのような形でアピールをしていくかしていかないか、という判断が任されているわけです。ついでに言えば、「視聴者」の中の「二次創作者・消費者たち」の中の「腐女子」を「腐女子」としてカテゴライズするかしないか、ということも任されているわけです。

 

そして、視聴者たちには、作品を見て、「自分たちが客に数えられた」と判断する自由があるわけです。その「自分たち」には「女性」「男性」「性的マイノリティー」「外国人」「腐女子」という段階から「仕事帰りにぼんやりアニメを流す人」「とにかくアニメには笑いを求める人」「ロボットのギミックにこだわりを持つ人」「毎日しんどいなぁって叫んで泣きながらギャグアニメを見る人」まであります。

その誰もが、「ああこれは私のための物語だ」と思う権利がある。そしてそれは他の消費者たちによって取り上げられて良いものではない。

「公式が俺を見たんだ!」と叫ぶのは権利ですし、「違う、地平線を見たんだ」と言うのも権利です。本当がどちらなのかなんてことは、前者にも後者にもわからない、ということを両者が認識している上でそれをやるのが自由というものです。16話のマドマパロ面白かったです。

 

 これはもうただの前提でしかない。この段階で喧嘩をしている人についてはもうはいおしまいですよよちよちと言う他ない。

その後にくる問題は、じゃあその「腐女子向けだ」と腐女子が感じた、制作者は狙ったんだ、ということについてだけで作品の価値と読みを云々することについてです。

 

はっきり言ってしまえば、私はその「私向けにしようとしたために物語が犠牲になった、製作者のやりたかったことが犠牲になった」ということが絶対に許せないし、よってそういった言説が嫌いです。

これは「あいつら向けにしてマーケティングしよう」を許す、というのと両立できます。小学生の女の子をメインターゲットにしよう、から製作者が作りたかったものを膨らませたり詰め込んだりするのは可能です。作りたかったものという言葉が指すのは制作者の趣味の問題ではなく、決められた枠の中での彼らの実現できる最善を指します。幼稚園児女児メインターゲットアニメに意地でもターミネーターを出したいとかそういう話をしてるんじゃない。

 

私たちには制作者の意図はわからない。汲み取るしかない。

ということを踏まえれば、実際がどうあれ「(任意の誰か)向けにしようとしたために物語が犠牲になった、製作者のやりたかったことが犠牲になった」と言い切ることは不可能です。それは本人たちが言わない限り我々がどうこうできることではない。

 

にも関わらず

「(任意の誰か)向けにしようとしたために物語が犠牲になった、制作者のやりたかったことが犠牲になった」

ということを盛んに言う人は、ただ単に

「私の望む物語ではなかった」

というだけなんです。それは思うのも自由だし言うのも自由だしそういうことはよくある。ただ、わざわざそういう言い方をして制作者の意図や物語のありかたを決め付け、あまつさえ批判する人には異議を唱えたい。それは傲慢で、不誠実だ。

「私好みじゃない」

とだけ言え。

 

それだけは絶対に正しい。どこにも間違いがない。

 

 

 

ついでに、もしもアニメや漫画の展開等が「急に私目線になった」「誰か目線になった」ということに戸惑いを覚えたり、上記のようなことを言いたくなったときに、いいおまじないがあります。

 

それは、「きっと私(誰か)には先見の明があったのだ」「きっと私は物語をおおむね制作者と同じような目線で捉えていたのだ」と唱えることです。

 

そうです。あなたは制作者から与えられたいままでの情報を整理した結果、そういうことになる読みをあなたの中で確立したのです。おめでとうございます。喜びましょう。

誰か目線になった?今回のこともまた新たな制作者からの情報です。いままでの情報に加えて精査しましょう。また新しい読みが生まれることでしょう。そんなあなたの話を私は聴きたい。

 

 

とんでもなく長いし、当たり前のことしか言っていないのですが、私の魂のダンスを誰か一人でも見てくれれば嬉しいです。一緒に踊ってくれなくてもいいから手拍子ぐらいしてくれれば嬉しいぜ。

 

16話についてはただの感想をまた書きます。

 

お粗末さまでした。